痛みの効用 ~過保護が子供をダメにする理由

この世には、「先天性無痛無汗症」といって、痛みも感じなければ、汗もかかないという遺伝子の病気がある。

「痛みを感じない」なんて、羨ましいと思うだろう。

が、実際には、痛みを感じない子供達は、生きるか死ぬかの危険に常にさらされている。

何故なら、手を切っても、骨を折っても、痛みを感じないので、平気で屋根から飛び降りたり、火や刃物に触ったりしてしまうからだ。

「痛み」というのは、動物としての危機意識であり、防御能力である。

「痛み」を感じるから、私たちは、それが危険であることを知り、身を守る術を学ぶ。

「痛みが分からない」ということは、すなわち、動物としてまったく無防備な状態で生きていることに他ならない。

まして相手が子供なら、親はどのようにしてそれが危険であることを教えればいいのだろう。

普通は、生活体験の中からそれを学んでいくのだけれど。

「人を殺してみたい」
「ムカつくから、刺した」

いまだに、そういう事件が後を絶たない。

暴力的な映画やTVゲームが原因とする見方もある。

家庭内不和やイジメ、放任などがベースにあるという考え方もある。

それでも、他人の痛みに対する想像力がそこまで麻痺してしまうものだろうかと、時々、思う。

普通は、ナイフを手にしただけで、それが危険であることを認識し、自分の体験した「痛み」を思い起こすものだけれど。

よく、「人の痛みの分かる人間になりなさい」と言う。

でも、「痛み」というのは、実際にその痛みを経験した者にしか分からない。私たちが、「その痛み、分かるわ」という時、実際に同じ痛みを体験した者以外は、想像で言うしかないものだ。

その点、身体の痛みは、誰もに共通する体験である。

「包丁で指を切った」
「ドアで指をつめた」
「机の角で頭を打った」

包丁で人間の身体を刺せばどうなるか、思いやる以前の問題である。

にもかかわらず、それが実行できるということは、自分自身が打ったり、切ったり、火傷したり、という生活体験が乏しいのかなと思ったりする。

「痛み」が、人間に与えられた生の能力とするなら、「人を殺したい」という若い子達に欠けているのは、優しさや思いやりよりも、生きた人間としての実体験ではないだろうか。

※ 追記

昨今、子供に怪我をさせたら大変と、親が先回りして、あれもこれも阻止するケースが増えている。

危ないから、滑り台で遊ばせない。

ハサミを持たせない。

ボール遊びもさせない。

缶蹴りもしない。

包丁もその一つだ。

指を切ったら危ないからと、十代になっても、包丁を持たせない親もいる。

あれもこれも阻止すれば、子供は無傷で済むだろうが、痛みに対する想像力は乏しくなる。

その結果、もっと大きな怪我に繋がることがある。

ここから飛び降りたらどうなるか。

自転車で勢いよくぶつかったらどうなるか。

まったく想像力が働かないからだ。

想像力を欠くと、花火や川遊びの危険性が予測できないし、「これ以上、進んだらダメ」という防御本能も働かない。

これらは、火の熱さや、溺れる苦しさや、様々な身体の痛みを通して、培われるものだからだ。

痛みは大人にとっても辛いものだ。

だが、小さな痛みが、大きな痛みを防いでくれることもある。

あれも危ない、これもダメという過保護は、あまりに行き過ぎると、かえって子供を大きな危険にさらすのではないだろうか。

誰かにこっそり教えたい 👂
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