池田晶子のコラム『IT革命の本質と試練』より
以下の記事は、2001年発行の池田晶子氏のコラムを元に書きました。
『考える日々』
IT革命の本質と試練
文:池田晶子
サンデー毎日7月16日号
…(中略)…
インターネットや携帯電話が衛星放送でもって全地球規模でつながったところで(全然違うか?)、たんにどうでもいい情報の量が増えるだけのことだ。情報は決して知識ではない。情報は受け取るものだが、知識は考えるものだ。情報は受動だが、知識は能動だ。能動的に考えられていない情報は、いかに新しかろうが、いかに珍しかろうが、知識としてその人のものになることはない。だから、そんなものはどこまでもガラクタみたいなものだ。
といった当たり前の考えを以前から私は述べているのだが、それを読んだ方から反論を頂戴したことがある。
つまり、インターネット擁護論ということになるだろう。
「あなたは、インターネットの本質というものを理解していない。インターネットにる情報流通革命は、グーテンベルクによる印刷機械の発明に匹敵するか、それ以上の人類史的な革命なのだ。…(中略)…」
そして私は、インターネットという道具それ自体を批判しているのではない。インターネットについてのこのような考え方こそ、批判しているのである。
グーテンベルクの革命により、聖書は遍く人類に読まれるようになった。しかし、そのことによって、人類は遍く賢くなったか。私はそのことを言っているのである。何億光年先の宇宙の光景がいながらにして見られる。しかし、そのことによって、宇宙が存在するという謎が、謎ではなくなるか。
字が読める人なら、誰だって聖書は読める。手に取ることなら、サルだってできる。文字面を超えた意味と考えをそこに読み取るからこそ、人は賢くなるのであって、それをしていないから人は余り賢くなっていないのはご覧の通りである。…(中略)…
そういったことを同時に考えることなく、一律に視覚情報として受け取るそのような光景が、本当に素晴らしいと感じられるものなのか、私には疑問である。受動的な情報は、能動的に考えられてこそ、知識として価値になる。そうでなければ、星雲の光景もラーメンの宅配も同じことだ。
私は、右のような考えは、正しいと思う。「正しい」というのは、私がそう思うというのではなくて、誰にとってもそうであるはずだということである。だからこそ私は、そのような正しい考えを、世の中すなわち他の人に向けて書いているのであって、池田某の慰みのためなんぞではない。他人に読ませて慰みにするのは、その考えに自信が無い、すなわち正しくないからに他ならない。しかし、正しくない考えを、なぜ世の中広くに発信しようとするのだろうか。
そうは言っても、人はそんなに馬鹿でもないから、無内容なものにはやがて飽きが来る。歴史が淘汰するとはそういうことだ。美貌だろうが無名だろうが、そこのところはそれこそ平等だから、その点は心配ない。詠み人知らずの優れた詩歌や、鋭利な思考の断片のようなものは、何百年後も残っているから、自信のある人は、どんどん世の中広く発信していけばいいだろう。残るものなら、必ず残る。
「インターネットの本質」とは、そういうことだと私は理解している。つまり、「本質」とは何か、本質を峻別する力こそが各人に試される、それこそがこの「革命」の意味なのだ。
なるほどそれは、グーテンベルク以来かもしれない。ガラクタのような情報群は、いよいよ溢れて濁流となり、押し流されて溺れながらも、自ら考える力をもつ人だけは、そこに聖書のようなきらめく一片を掴み取り、汚泥の中から立ち上がるだろう。
革命とは試練である。浮かれているだけの人はやがて沈む。本質を峻別する力とは、他でもない、その人の生の意味である。各人が自身の生を革命する絶好の(最後の?)試練と思えばいい。
IT革命=情報の質が飛躍的に向上したわけではない
私も今のお祭り騒ぎは好きじゃない。
『IT 革命』と言ってはみても、ツールが劇的に進化しただけで、情報の質が飛躍的に向上したわけではないからだ。
そして情報を作るのも受けるのも、人間であり、情報の質が変わらないということは、人間そのものが何ら変化していないことを意味する。
たとえ情報が数秒で日本全国行き交おうと、情報に内容が無ければ、意味が無い。
『聖書は遍く人類に読まれるようになったが、そのことによって人類は遍く賢くなったか』という池田氏の問いかけは、ITだけでなく、ツールによって人間が豊かになると勘違いしている人々をピシリと戒めてくれる。
Eメールにチャットに携帯電話……情報通信産業の拡充に伴い、コミュニケーション・ツールもますます多様化しているが、それによって人間は孤独から解放されたか。
人を理解し、愛する能力が高まったか。
本当にツールの進歩が人間を豊かにし、コミュニケーションを密にするなら、社会はもっと幸福な空気に満ち溢れていていいはずだ。
むしろ、生身の人間と触れ合うことのできない仮想現実オタクや犯罪予備軍を続々と生み出している現実を、IT革命推進派はどう受け止めているのか。
いずれITブームが去り、パソコン(インターネット)がテレビや冷蔵庫と同じように日常家電製品化した時、やはり『何も変わってないこと』に気づき、がっくりする人もあるだろう。
テレビが世界中のニュースを瞬時に伝えるようになっても、人は相変わらず不幸に嘆いているのと同じで。
『IT革命』なんて、所詮、商店街のキャッチコピーに過ぎない。
踊るアホウに使うアホウ、同じアホなら、使わにゃソンソン……私はそんなノリである。
記:2001年3月18日
追記: IT格差は国家の格差 情報の質と量が社会を分断する
アーカイブより。
1997年頃から2001年にかけて、ネット、ネットと、今以上の熱気でした、一部の間では。そう、この頃は、ネットをやる人も少数なら、自分専用のPCを持っている人も少数派だったのです。(いよいよ本格的に個人がPCを手にして、ネットが市民権を獲得したのは、2006年頃。第三の潮目は、スマートフォンの登場です)
で、この頃から、IT懐疑論があって、『インターネットはからっぽの洞窟』とかいう本も一部で支持されていたんですよね。2001年には早々に「ネットやめた」という人もあったし。(また再開してるとは思うけど)
振り返れば、あっという間だけど、それでもまだ浸透しきってないのがITの不思議な点だと思う。
「浸透しきってない」というのは、いまだに「ネットショッピングやレストラン予約が怖い(使い方が分からない)」「パソコンの使い方が分からない」「Evernoteって、ナニ?(ツールやサービスの認知度のばらつき)」等々、スキルにおいても知識においても個人差があり、誰もがテレビや洗濯機の使い方を知っているのとは大きく異なるからだ。
また、ネットに大きな恩恵を感じる人と、そうでない人の乖離も大きく、PC&ネット通とそうでない人との会話は、さながら地球人と火星人の如くだ。
たとえば、昭和の時代、TVドラマ『特捜最前線』を欠かさず見ている人と、見ていない人の間に、それほど大きな開きはなかったが、「毎日SNSに入り浸り、PC、スマホ、タブレット、数種を使いこなし、各種セッティングも十五分ぐらいでクリア、新しいサービスが登場すれば、すぐに使ってみる層」と、「ネットは通話アプリとキュレーション系のみ、たまに楽天で買い物するぐらい」では考え方も価値観も大きく異なるし、情報源もライフスタイルも全く違っていたりする。その差異は、勉学、就職、福祉、マネープラン、ありとあらゆる分野に広がり、同じ国内に住みながらも、さながら地球と火星のような生活環境の違いを感じる。見た目は、似たような家に住み、似たようなグッズを持ち、似たような食生活をしているが、価値観やライフプランはまったく異なるのだ。
ITが登場した時は、「全員に、平たく」という思想だったが、高機能や多様性が生み出したのは、いっそうの分断や孤立であるような気がしてならない。ワンクリックで買い物し、当日受け取りする人がいる傍ら、ネット通販の存在はおろか、それを利用する為のデバイスさえ持っておらず(使い方が分からない)、いまだに重量のあるペットボトルや洗剤を購入する為に数キロ~数十キロメートル離れたスーパーまで買い出しに出かけるという層も確実に存在するからだ。
今、世界中、どこでも子供のIT教育に力を入れているが、職業訓練であると同時に、「IT社会の落ちこぼれを無くす」という側面も大きい。
これからますます届け出も、銀行手続きも、公報も、すべてがデジタル化され、無人化や自動化に大きく舵を切りつつある今、PC&ITが使えないのは、「足し算ができない」のと同じくらいネックになりつつあるから。
私の地元でも、学校からの通知は全てオンラインに切り替わり、子供たちは、一日一度はPCを立ち上げ、授業や学校行事に関する更新情報をチェックしなければ、学校生活に付いていけないシステムになっている。(情報を十分に得るには、PCでなければならないのがポイント。自宅にPCのない子供は校内もしくは図書館のPCを利用することが義務づけられている)
市民、一人一人にも、市の情報サイトにアクセスする為のIDが割り当てられ、いよいよ本格的に公的手続きの全面オンライン化が確立しつつあるし。
ITサービスを単なる『情報収集ツール』とみるか、『社会のインフラ』と考えるかで、公の取り組みも大きく違ってくる。
そして、数年後には、国家間の認識の違いが、ITサービスやデバイスの上で、はっきり目に見えるようになるだろう。