江戸川乱歩の『芋虫』~現代の老人介護を想う

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江戸川乱歩の『芋虫』

作品の概要

芋虫 (1929年) 雑誌『新青年』に掲載。初出時の題名は「悪夢」。

あらすじ

時子の夫は、戦争で両手両足を失い、顔にも深い傷を負う。
耳も聞こえず、口もきけず、まさに芋虫のごとく毛布にくるまり、息をしているだけの生活だ。

そんな夫を三年にもわたって献身的に面倒を見ている時子は、周囲から貞淑の誉れのように褒めそやされるが、心底ではすっかり疲れ切り、サディスティックな衝動に駆られることもある。

そして、とうとう自分を抑えきれなくなり、時子は思わず夫を傷つけてしまう。

その後、夫のとった行動とは……。

芋虫 江戸川乱歩ベストセレクション2 (角川ホラー文庫)
芋虫 江戸川乱歩ベストセレクション2 (角川ホラー文庫)

角川ホラー文庫は、片岡忠彦氏のイラストがよかったです。

江戸川乱歩 芋虫

時子の苦悩と現代の老人介護

『芋虫』を読んでいると、現代の老人介護のような既視感を覚える。

失礼を承知で書くが、重度の認知症で、寝たきりとなってしまった高齢者も、本当に芋虫のように食べて、寝て、息をしているだけ――自分が人間であることすら認識できず、何千日もの日々を、ずーっとベッドで過ごしている。また、そうした寝たきり老人を、何年、時には十数年にわたって、自宅で介護している人も、びっくりするほど多い。

当方も、訪問入浴のアルバイトを経験したことがあるので、寝たきり老人の壮絶さは身に染みて知っている。

バスタブを積んだ業務用トラックで近隣の町を回っていると、「ここにも」「あそこにも」、介護が必要な家が存在し、こんな小さな区画に、寝たきり老人をかかえた家が、いったい何軒存在するのかと、空恐ろしいほどだった。

本人も、看病する家族も、ほとんど家にこもりきりなので、世間の目には入らないだけで、今、こうしている瞬間にも、寝たきりの義父に粥をすすらせ、腰を揉み、オムツを取り替え、褥瘡ができないように二時間おきに体位を変え、体液の滲み出たガーゼを交換し……という、身体的にも、精神的にも、ぎりぎりの状態で介護に当たっている人が何十万人と存在する。

傍から見れば、これぞ現代の生き菩薩と頭が下がるほどだ。

だからといって、皆が皆、世間の称賛に心を慰められるわけではない。

看護師もそうだが、そこまで神聖視されたくないというのが本音だ。

何故なら、心の底では疲れ切り、「逃げたい」「やりたくない」「早く死んで欲しい」等々、激しいジレンマも抱えているのが当たり前だからだ。

『芋虫』となった夫を世話する時子もそう。

傍目には貞淑で、献身的な妻と思われているが、心の底には、今にもキレて、爆発しそうな不満と絶望が渦巻いている。

もっとも、この褒め言葉も、最初の間は、彼女の犠牲的精神、彼女の稀なる貞節にふさわしく、いうにいわれぬ誇らしい快感をもって、時子の心臓をくすぐったのであるが、この頃では、それを以前の様に素直には受け入れかねた。というよりは、この褒め言葉が恐ろしくさえなっていた。それを言われる度に、彼女は「お前は貞節の美名に隠れて、世にも恐ろしい罪悪を犯しているのだ」と真っ向から、人差し指を突きつけて、責められてでもいるように、ぞっと恐ろしくなるのであった。

頭では、「こうあるべき」と分かっていても、病人の世話に人生を閉ざされたら、誰だって恨み、またそんな自分を責めたりもする。

だが、そんな苦悩を口にすることは、社会的にも、人間てきにも、決して許されない。

大声で叫びたい時も、ぐっと押し堪え、ひきつった笑顔を浮かべるしかない。

なのに、周りからは、「立派だ」「偉い」と褒めそやされれば、だんだん白々しくなり、そんな自分自身が嫌になる。

こんな状態で、何年も聖母でいられる方が、どうかしている。

『芋虫』の面白いところは、時子=介護者の屈折した心理がストレートに描かれている点だ。

次の一文も、現場を経験した者なら、一度は感じる想いである。

再び床に這入って、夫の顔を眺めると、彼は依然として、彼女の方をふり向きもしないで、天井を見入っているのだ。
「又考えて居るのだわ」
眼の他には、何の意志を発表する器官をも持たない一人の人間が、じっと一つ所を見据えている様子は、こんな真夜中などには、ふと彼女に不気味な感じを与えた。どうせ鈍くなった頭だとは思いながらも、このような極端な不具者の頭の中には、彼女たちとは違った、もっと別の世界が開けているのかもしれない。彼は今その別世界を、ああしてさまよっているのかも知れない。などと考えると、ぞっとした。

寝たきり老人も、いっそ「人間ではない何か」と割り切ることができれば、介護者も楽なのだ。

もし、相手が牛か馬なら、「どうせ何も考えてないんだし」と無視することもできるからだ。

だが、普通の介護者は、人間の尊厳というものを第一に考えるし、またそうあるべきという責任感もある。

そして、相手が人間ということを意識するから、ますます不満や不気味さがつのる。

物も云えないし、こちらの言葉も聞こえない。自分では自由に動くことさえできない、この奇しく哀れな一個の道具が、決して木や土で出来たものではなく、喜怒哀楽を持った生きものであるという点が、限りなき魅力となった。その上、たった一つの表現器官であるつぶらな両眼が………ある時はさも悲しげに、ある時はさも腹立たしげに物を云う。しかもいくら悲しくとも、涙を流す外には、それを拭うすべもなく、いくら腹立たしくとも、彼女を威嚇する腕力もなく、ついには彼女の圧倒的な誘惑に耐え兼ねて、彼も亦異常な病的興奮に陥ってしまうのだが、この全く無力な生きものを、相手の意にさからって責めさいなむことが、彼女にとっては、もう此上もない愉悦とさえなっていたのである。

直裁的な描写はないが、三十過ぎの女盛りの時子が『夫』を失って、レディ・チャタレイのような状態に陥り、日頃の不満をある形で解消するようになったのは容易に想像できる。
(参考 肉体の声に耳を傾け、自分に素直に生きる D・H・ロレンスの名作 『チャタレイ夫人の恋人』

そうした情景は、イラストレーターの丸尾末広氏が『芋虫 (ビームコミックス)』で生々しく描いておられるので、機会があれば、一読して欲しい。

そうして、時子もついに心の糸が切れ、発作的に夫を傷つけてしまう。

その傷が元で、夫は発熱し、一晩、悶え苦しむ。

時子は我に返り、病人の胸に指先で「ユルシテ」と幾度も書いて見せたりするが、夫は何も応えない。

そうして、時が過ぎ、衝撃の結末がやって来る。

だが、芋虫の夫が最後に残した言葉は、実に意外なものだった。

その一言に、人間の崇高さを感じる人もあれば、夫婦愛を垣間見る人もあるだろう。

乱歩の小説が、単なる怪奇小説ではなく、人間の深部を描いた芸術と高く評価される所以でもある。

ここからは筆者の推測だが、この事件の後、時子が自由を得て幸せになったかといえば、決してそうではなく、自身の発作的な行為と、ドボンという音に一生苦しめられるだろう。

皮肉な話だが、介護は、相手が消えてなくなるより、悔いを残さないことが一番重要だ。

いろいろ躓いても、「負けずに、やり遂げた」という達成感こそが、介護者の真の救いとなる。

介護者の努力が報われたかどうかは、周りの称賛や感謝よりも、相手が亡くなった時に、本人自身が一番実感するものではないだろうか。

丸尾末広氏の『芋虫 (ビームコミックス)』より
江戸川乱歩 芋虫

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初稿 2011年10月20日

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