『家出のすすめ』は自立のすすめ
これがわたしの最初の提言です。
《家出のすすめ》 角川文庫
これがかの有名な『家出のすすめ』の最初の一文だ。
良識ある人が見れば、「母親を盗むとは何事か!」とさぞかしお怒りになるかもしれないが、よくよく読んでみれば、「親子関係は宿命的に作られたもので、絶対ではない。どうしても親が重ければ、一度、精神的物理的に距離を置き、新たな関係を構築すればいい」という話であって、「親なんか棄てろ、縁を切れ」とそそのかしているわけでは決してない。
その家出哲学は、大人対子供の諍いではなく、あくまで自立した人間の、一対一の関係に基づいている。
誰でも、わかれた奥さんには月々お金をはらうものです。それと同じように、自分を育ててくれた親にはたっぷりお金はあげた方がよろしい。(たっぷり、というのは自分の収入に応じて、自分と同等の生活ができる程度、ということです)
と付け加えており、現代のドライな家族関係に比べたら、ずいぶん孝行だ。
にもかかわらず、あの時代、センセーショナルに受け止められたのは、「他人の母親を盗みなさい」とか「精神的にはきっぱりと縁を切ることです」とか、昭和の親世代が見れば卒倒するような表現がなされていたからだろう。
実際、自分自身が親になって読み返してみれば、頭のてっぺんをガツンと殴られるような衝撃を覚えるものだ。十代の頃は「いい気味」と思えた文章も、立場を違えば、これほどまでに印象が違うのかと、改めて親子の宿命みたいなものを思い知らされる。
しかし、本書をじっくり読めば分かるが、寺山氏のスタンスは一貫して『孝行』を貫いており、親を侮蔑するようなところは一切ない。寺山氏にとっては、親の期待や執着心も文芸のテーマであり、詩や戯曲に書くことによって、自分自身も浄化を求めているように感じる。
自親に対しても、どこか理解できるところがあるから、過激な表現もできるのだろう。腹の底まで憎悪していたら、コラムの題材にもならないだろう。
寺山氏が言うように『家』というのは、子供にとっては、偶然によって作られた宿命だ。「子供は親を選べない」と言うように、きょうだい、生を受けた場所、社会環境、生まれた時代、すべてが偶然の産物だ。
自らの意思で夫婦となり、暮らしを形作っていく両親とは大きく異なる。
だが、生まれた時は一人で着替えもできない子供も、やがて物事を知り、処世の術を身につける。
宿命を変えるのは無理でも、住まい、仕事、友人などは自分で選ぶことができる。
成長に応じて、自分に合った暮らしや人間関係を求めるのは当然のことで、そもそも子育てとは子供と別れ行く道ではないか。
親子関係も絶対ではないのだから、近づいたり、離れたりしながら、程よい距離感を見出せばいい。
それが無理なら、一度、宿命の場である「家」を出てみてはどうかと提案しているのが本書だ。
その上で、他人の母親を盗めばいい。近所のおばさんでも、職場の上司でも、母親代わりとなる人を見つけて、実母からは得られなかった愛や理解を体験すればいい。広い世界に飛び出して、いろんな物事を経験するうちに、親を見る目も変わるだろう。
『家出のすすめ』は自立のすすめであり、親との断絶を仄めかしているわけではない。
むしろ精神的・物理的距離は互いの怒りを鎮め、方向転換するきっかけを与えてくれるのではないだろうか。
24時間、ネットに繋がれた現代において、精神的・物理的距離を置くのは難しいかもしれないが、だらだらと反発を繰り返し、宿命に縛られて憎悪するよりは、生活の場だけでも離した方がいいかもしれない。
愛とは遠く離れて初めて実感するものだからだ。
そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか。
ー 寺山修司
家出と度とは別のものだよ
寺山修司から高校生へ―時速100キロの人生相談では次のようなことも述べている。
悪い意味での家出とか、よい意味での家出とかいった区別もありません。
そのことは、「家」という幻想の形骸(かたち)を撃つ行為です。
何よりも、実践です。
「一般的概念しかもってないオレ」などと甘えてはいけない。
一般的概念を越えるときに、初めてあなたが、あなた自身になれるのです。
寺山修司から高校生へ―時速100キロの人生相談
『家出』という言葉はレトリックであって、どんな表現をしようと、寺山氏が言いたいことはただ一つ。
もやもやするなら、その場を離れて、自分の力で生きてごらん。
そのうちに、いろんなことが分かってくる――といったところ。
うだうだ文句を言うだけで、何もしないのが一番救いがない。
新しい扉も、最善の方法も、みな行動の先に見えてくるものだ。