10代から20代にかけて、いつもお腹が空いていたのを今も思い出します。
食べても、食べても、すぐにお腹が減って、「お腹空いた……」って、食べ物のことばかり考えてた時もありました。
年寄りになると基礎代謝も激減して、空腹もめったに感じなくなるけれど、若い時分の空腹感って半端ないですよね。
何もしなくても、仕事がなくても、とにかくお腹が減る。
藤子不二雄さんのマンガにも、「無職でも、お腹が減るんだな」と空腹の自分に腹を立てている描写がありましたけど、まさにそれ。
若い時分は生きてるだけでお腹が減るのでス。
もちろん、町に行けば、コンビニでも、スーパーでも、何でもある。
カップラーメン、菓子パン、ハンバーガー、ほかほか弁当。
一食で空腹を満たす食べ物はいくらでも売ってます。
でも、本当に食べたい食事って、そういうのじゃないのね。
犬みたいにがっついて、空腹を紛らわせても、精神的な飢餓感までは満たされない。
なまじ健康的な食事がどういうものか知っているだけに、ワンコイン・フードって、一時の満腹とは裏腹に、余計で惨めさや貧しさを感じさせる側面がある。
でも、ちゃんとした食事をとるには、金ない、ヒマない、元気ないで、結局、ほか弁で済ませてしまう。
その劣等感や敗北感みたいなのが、いっそう生きる意欲を削いで、ごろごろと坂道を転げ落ちていく。
ワンコイン・フードのデフレスパイラルは、今も変わらないかもしれません。
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今、ちょっとした田中角栄ブームらしいけど、角栄の腹心だった早坂茂三の著書に「角さんという人は、『お前、飯食ったか』と気軽に声かけし、気前よく奢って、若い人に感謝されていた」というエピソードがあります。自分自身も貧しい寒村に育って、空腹の辛さを知っていたからだろう、と。
それと同じで、私もよく目上の方にご馳走になりました。
「オレは金持ちや。お前ら、感謝せえ」というのではなく、「あんたらもお腹が空いたやろう。いっぱい食べて、しっかり勉強して、立派になるんやで」みたいな若者への労りです。
それをしてくれたのは、団塊よりもう一つ上の世代、まさにリアル戦時中の方で、すでにこの世にはいらっしゃいません。
それこそ野菜の根っこをかじって育ったような、凄まじい子供時代を体験された方が、私の若い頃にはまだあちこちにおられて、高度成長期でようやく人並みな生活を手に入れて、その余力で若い子にご馳走してくれるような感じでした。
その時は、そうしてもらう意味が分らなくて、出されたものを夢中で食べて、後で「あんなに食べてよかったのかな」「なんか悪かったネ」と友だちとしんみり語り合ったり。
でも、そんな風に労りの気持ちで美味しいもの──それもビンボな若者の口には到底入らないような精進料理やフランス料理のフルコース──をご馳走になった記憶って、いつまでも忘れられないものです。
その方たちに直接返すことはなかったけれど、次に自分がそういう立場に立ったら、あの時の恩返しする気持ちで、他の人に自然とそういう事ができるようになりますしね。(そんな風に、代々、返していけたら、その方たちも本望なのかな、と、私の中で勝手に考えているのですが)
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今は「上司と飲み会なんか、気持ちワルイ」「おっさん、おばはんとご飯食べても、何も楽しくない」で、先方の奢りでもお断り、の人が増えているのでしょうか。
確かに、目上の人との食事は緊張して、話も合わないし、気疲れする方が多いと思います。
一方、若者にそう思わせる中高年が増えているのも情けない話ではあります。
でも、私が記憶する限り、奢り、奢られの中で、世代の離れた人とどう向き合うか、フォーマルな席ではどう振る舞うべきかを学んだし、また、目上の方も、「若者のプライドを傷つけないスマートな奢り方」を、よく考えて下さっていたと思います。
自分の小遣いでは到底来られないような高級な店で、いささか惨めな気分で食事したとしても、それは自分自身の感じ方の問題であって、先方の気遣いまでもが否定されるわけではないですからね。
そんでもって、先方も、目の前の若い子が羞恥心を感じているのは重々承知ですし、それも込みで、社会勉強の一環として、上等な席に招待してくれる。そこには、「次は自分の稼ぎで来なさい」という願いもあります。
今は「奢り・奢られ」の価値観も変わって、こういうイニシエーション的な食事会も減っているのかもしれませんが、私は、若い時分に、どれだけ「大人の優しさ」に触れるかで、将来も大きく違ってくると思っています。
高級飯をご馳走してくれる=優しい、という意味ではないですよ^^;
やはり、若いですから、エスカルゴの食べ殻をそのまま皿に戻したり、一流の食事処で「お吸い物の具が少ないなあ」と言うてみたり(具だくさんの味噌汁と勘違いしてる)。学生同士のノリで、「おっちゃん、すげー」みたいな喋り方をしてしまうこともある。
失敗も多いけども、女将や料理長が笑いをこらえながら「これもお上がり」と大盛りにしてくれたり、目上の人がさっとフォローして下さるような体験がいつまでも胸に染みるのです。
そんでもって、おじちゃんの方も若い人にご馳走しながら、「オレも大成した」という実感が得られるのかもしれません。
残念ながら、今のおじさん世代は「ひもじさ」を体験している人の方が少数だろうし、おじさん自身が、自分のおっさん世代を徹底的にバカにしてきた世代でもありますから、以前のように「若い人にスマートに奢る」人がどれほどいるかは分りません。
だからといって、皆が皆、無頓着とは思いませんし、これからも機会があれば、「世代間の奢り・奢られ」を体験して欲しいなと思います。おっさんも、若い人も。
繰り返しになりますが、若い時分、お腹が空いて、精神的にもひもじくて、無力で不安な時代に、目上の人に優しい気持ちで奢ってもらった食事というのは、一生忘れられないものです。
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