死ぬことと生きること 『病院は社会の縮図、そして人生の縮図』

分娩に立ち会った次の日の朝、 いつものように白い洗面器にぬるま湯をはり、一番最初に洗面介助をした重症のおばあちゃんの個室に運んで行くと、すでに名札が外され、部屋は空になっていた。

「あの……あの方、部屋を替わられたんですか?」

と看護婦さんに聞くと、

「ああ、**さんね、夕べ、亡くなったのよ」

私はワゴンを押してユティリティに引き返すと、洗面器のぬるま湯をざっとシンクに流した。

あれから私は多少上手におばあちゃんの顔を拭けるようになっていた。

最初の時に感じた怖さも、戸惑いもかなり克服し、 骸骨のように落ち窪んだ顔に、普通に話し掛けるまでになっていた。

だけどもうケアする事もない。 この世から永久に失われたのだから……。

『病院は社会の縮図、そして人生の縮図』――

まさにその言葉通りだった。

昨日は誕生、今日は死。

この一つのフロアに、今から生き始める生命と、 明日には消えるかもしれない生命が、同じ時の流れの中に等しく存在している。

今日、祝福された生命も、いつかは終わる運命にあり、 それは誰の上にも等しく定められいるのだ……。

だとしたら、人生なんてあっという間かもしれない。

今、この身に流れる「一瞬」も、次の瞬間には「過去」となり、 永久に自分から遠ざかってしまう。

時間も一度きり、生も一度きり、 ならば、その「一度」の中で、どれだけの事が出来るか―― それこそが人生の本当の価値ではないのだろうか。

そう気付いた時、私は自分の命も人生も、 たまらなく愛しく感じられた。

この世のどんな財宝よりも貴重で大切なものに思えた。

そして自分が死に際した時、 「ああすれば良かった、こうすれば良かった」 とジタバタ後悔するような、無駄な生き方だけは絶対にするまい、と決心したのだった。

『己が魂に忠実に』―― この日、痛感した事は、今日の日まで少しも揺らぐことはなかったし、多分、最後の日まで変わることはないだろう。

どんな場面に遭遇しても、「生きるのは“私”」「選ぶのも“私”」である。

世の中には、ありきたりの杓子定規で人を測り、 人の生き方や個性に難癖付けるのが好きな人がいるが、そんなものに惑わされる必要は全く無い。

なぜなら、その人たちが自分の人生を代わりに生きてくれるわけでは ないからである。

人の価値観など千差万別、 世の中では正当とされている事が、自分には全く当てはまらないこともある。

となると、最終的に自分が納得するか否かが、全てを決定づける鍵となる。

いくら他人が「料理はやっぱりフランス料理のフルコースよ」と言い張っても、 自分が「サバの煮付けが一番」と思ってるなら、 堂々とそれを食しておればいいのである。

ところがこの単純な原理を貫くのが、実は一番難しい。

どうしたって人間は安心欲しさに群れたがるからである。

群れの色に染まっておれば、まず間違いはない。

自分だけが浮き上がって、気恥ずかしい思いをすることもない。

人間は、気弱な白子(アルビノ)でいるよりは、 自分の肌を染め替えてでも、群に収まっていたいものなのだ。

だが、どんなに巧みに肌を染め替えても、決して騙し通せないものがある。

それが『魂』だ。

肌の下で生き生きと息づく、自分の内なる心の声だ。

これだけは決して偽れないし、騙せない。

たとえ他人は黙っても、心の声だけは終生、自分の耳元で囁き続ける。

そしてその声が、何の曇りも無くはっきりと聞こえる瞬間――

その声しか聞こえない瞬間――

というのが、人生の終末期であると私は考えている。

年度末になると、経理マンが収支の総決算をやるように、 人間も必ず人生の総決算を迫られる時が来る。

自分の人生の帳簿を洗いざらい見詰め直した時、 思わぬ赤字を発見して、それを取り戻そうとしても、 その時にはたいがい遅いのである。

人間、生まれる時も一人なら、死ぬ時も一人だ。

あの世に持って行けるものなど何一つない。

この世でどんなに立派な豪邸を建て、どんなに立派な肩書きを得ようと、 死ぬ時は我が身一つである。

結局、自分の本当の財産というものは、我が身の中にしか無いということを、人はもっと自覚するべきだろう。

そして、その我が身の中に、内なる声があり、人生の帳簿がある。

これだけは死ぬ瞬間まで自身から切り離せない。

だからこそ偽ってはならないし、粗末にしてもならない。

いつもそれを充たしておいてやる必要があるのである。

『己が魂に忠実に』――

それは、欲望のままに、勝手気ままに生きろ、という意味ではない。

どんな時も自分の内なる声に耳を傾け、 人生の帳簿に一つでも多くの財産を貯えることが、 結果的にはその人の人生を勝利と成功に導く――ということだ。

もし、明日自分が死ぬと想定して、これまでの出来事を思い起こした時、 全てについて「All Right」と答えることができるだろうか?

辛苦に対しても、『これが生だったのか、よしもう一度』 と微笑むことができるだろうか?

幸福の原理など、実は非常に単純に出来ていて、 私たちはただ、外の雑音に惑わされているに過ぎないのである。

初稿: 99/04/27 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より 

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