北斗の拳 名言集
ラ・ラ・ラオウ~は名セリフの宝庫
だがそれが一体なんになる!
死ねばなにごとも無
どんな死も汚れたヤセ犬の死とかわらぬ!
女戦士マミヤの村に現れた拳王ラオウ。
末弟のケンシロウは闘いを挑みますが、次兄のトキは彼を秘孔縛で制し、同じ剛の拳をもつ二人が相打ちになる前に、身をもって闘い方を示そうとします。
が、トキは死の病におかされた身、ラオウと闘えば死は免れません。
それを知りながら、ラオウに正面から挑み、北斗神拳の精神を教えようとするトキに対して、ラオウが吐くセリフです。
あくまで信念を貫こうとするトキの行動も、現実路線の兄貴にすれば、愚か者といったところでしょうか。
「美しき敗北」などありはしない。
「負け犬は負け犬。敗北はどこまでいっても敗北でしかない」――これもまた真実かもしれません。
戦わねば その震えは止まらぬ!
ラオウの軍勢が無抵抗の村を襲った時、村人達はいっさい抵抗せず、逆に水や食糧を差し出して、笑顔で応えます。
「なぜ抵抗せぬ?」ラオウが問いかけると、
「抵抗は相手の力を生みます。無抵抗は我々弱者の自分を守るべき唯一の武器なのです」と、村長は答えます。
するとラオウは子供を捕らえ、「ならば、その武器でこの小僧の命を守ってみよ!」。
捕らえられた子供は恐怖に震えながらも、必死に笑おうとします。
ラオウが「なぜ笑うのか」と問うと、「『何があっても笑っていろ、心を捨てろ』と」。
するとラオウは上記のように、子供に戦う事を教えるのです。
ただ笑いと媚びに生きて何が人間だ!
この言葉、一番好きですね。
上記のセリフは、ケンシロウとの闘いで傷を負ったラオウに対し、ユリアが、
「まだ闘おうというのですか? もう勝負はついたはずです」
と言った言葉に対して、ラオウが返すものです。
ケンシロウとラオウが再会して拳を交えている時、海の将リハクの計略により、建物の天井が崩れ、ラオウは重傷を負いますが、余力でユリアを奪い取り、自分の城へと連れ去ります。
しかし、傷を負ったラオウはそのまま意識を失い、気が付いた時には、傷口に包帯を巻かれて、ベッドに横たわっていました。
傷を手当てしたのは、ユリアでした。
本来なら、意識を失ったラオウを殺してしまってもよかったのに、ユリアは情けをかけて、ラオウを救ったのです。
その『情け』が屈辱である、とラオウは言っているわけですね。
この気持ち、すごくよく分かります。
二つを望むことはできぬ
このラオウの生き方はひとつ!
「哀しみを知らぬ男に 本物の勝利はないのだ」というケンシロウの言葉に、このままでは決してケンシロウに勝つことは出来ないと悟ったラオウは、哀しみを知る為に、ユリアを手に掛けようとします。
そうなって初めて「愛」を自覚したラオウは、一瞬、戦いを捨てて、愛を取ろうとしますが、やはり最後には「天を目指す」自分の生き様を選び、戦いへと赴くのでした。
かくしてケンシロウとの死闘に敗れたラオウは、自らの意志で天に帰ることを決します。
そして、最後の一言がこれ。かくありたいですね。
世紀末のボーイ・ジョージ : ユダ
今でこそ「キレイな男」も市民権を得ているけど、一昔前は奇異な存在でした。
今は至る所に、「キレイ」を目指すナルシスト君がいっぱい。
ナルシストは、自己満足だけで生きて行けるという意味ではとっても幸せだけど、いちいち、こうやって人に確認しないと安心できないカワイソウな人種でもあります。
同じ門下で拳を学んだ南斗水鳥拳のレイと、紅鶴拳のユダ。
レイの美しい動きに一瞬心を奪われたナルシストのユダは、「一生の不覚」に感じ、自尊心を傷付けられた報復として、レイに復讐を誓います。
自分より優れたものや強いものに対し、妙な憎しみを感じてしまうところが、いかにもナルシスト君。
でも、こういう心理は、誰の中にもあるかもしれません。
君は弟子たちに一体どういう教育をしてきたのか? : リュウケン
わたしは恐ろしい男をつくりあげてしまった!!
一子相伝が掟の北斗神拳。
その伝承者に末弟のケンシロウが選ばれた時、長兄ラオウは「拳を捨てよ」と命じる師リュウケンに対し、
「俺は誰の命令も受けぬ。たとえ神の命令でもな」と答えます。
(その前に、リュウケンに『その拳で何を目指すか』と聞かれ、『目指すは、天』と答える場面もありました)
「そんなことは神が許さぬぞ」
「ならば神とも闘うまで!」
断言するラオウに、
「恐ろしい男よ……わしは恐ろしい男を作り上げてしまった……」と、リュウケンは自らラオウの拳を封じ込めるべく戦いを挑みます。
この一言に、世の親の嘆きみたいなものを感じますね。
自分では理想通りの強い男に育てていたつもりが、どこがどう狂ったか、とんでもない独裁者を作り出してしまった。
しかし、その萌芽は成長過程で見えておったろうに。
リュウケンは自らを省みる間さえ与えられず、ラオウに倒されてしまいました。ナンマイダ。
それが無想転生。
北斗神拳の究極奥義「無想転生」。
それは哀しみを背負った人間のみがなしうる、最強の技。
武論尊は敬虔な仏教徒なのか? と思わずにいないこのアイデア。
「無より転じて生を拾う」という思想はいいですね。
最後に正統派ヒーローの一言 : ケンシロウ
だが 俺の中には長兄ラオウへの想い ユリアへの想いが生きている。
天地が砕く剛拳も この一握りの心を砕くことはできぬ!!
ラオウとの死闘の果て、二人は意を決して最後の一撃を交わします。
しかし、地に倒れたのはラオウの方でした。
「ば……ばかな。このラオウの全身全霊の拳が……」
と自問するラオウにケンシロウが答えるのが上記のセリフ。
作者のメッセージの中核が、この一言に凝縮されているなあと思いました。
と同時に、最初は単なる格闘漫画から始まったものが、作者の思い入れによって、どんどん高みに上っていった過程が伺える一場面でもあります。
私がこの作品に惹かれたのも(ラオウの死闘編までですが)、こうした深い精神性に支えられているからなんですね。
それだけに、下手に人気が出て、取って付けたような続編が作られたことがまことに惜しい!
ユリアを抱いて荒野を去っていったケンシロウがその後、どうなったか、もちろん興味がないわけではないけれど、ラオウに勝る適役が現れなかった事と、その後の闘いに深い精神性や意義が見えなかったことが、続編を急速に萎ませてしまった要因ではないかと思います。
それでも、通して読む価値はあります。
最後の方で、暴君だったはずのラオウがまるで神様のように格上げされていたのが少々気になりますが。
……というか、いったい、どこの女に子供(リュウ)を産ませたのだ???
この謎だけは、解いて欲しかったッス。
ラオウと寝た世界一勇敢な女性に、乾杯。
たっぽい、たっぽい ヾ(´∀`*)ノ
壮大な兄弟喧嘩 ~同じ道を進めば、同じ宿命を背負う 兄弟ならば、違う道を歩むがよい!
『北斗の拳』が少年ジャンプ読者の心を鷲づかみにしたのも、誰の胸にも覚えのある、壮大な兄弟喧嘩を描いているからでしょう。
暗殺拳「北斗神拳」は、その恐るべき破壊力ゆえ、一子相伝の秘拳として伝えられてきました。
伝承者争いに敗れた者は、記憶を奪われたり、身体を不具にされたりして、拳を封じられるのが定めです。
核戦争によって世界が荒野と化すと、北斗神拳の伝承者ケンシロウは、町にはびこる悪党どもを倒しながら、生き別れになった最愛の女性ユリアの面影を求めて、一人旅を続けます。
そんなケンシロウの前に、かつて伝承者争いをした三人の兄弟が立ちはだかります。
ケンシロウに敗れた事を恨み、暴挙を繰り返す三男ジャギ。
心技共に優れた北斗神拳の使い手でありながら、死の灰を浴びて、病の身となった次男トキ。
そして、世界最強を自負し、この世の全てを手中に収めようとする長男ラオウです。
死闘の末、ケンシロウは兄のラオウに打ち勝ち、真の伝承者となるのですが、その過程で語られる心情や、兄弟間の葛藤が実に面白いんですね。
特に興味深いのが、三男ジャギの恨み節。
『兄より優れた弟なんて~~』
負けん気の強いジャギは、弟のケンシロウが伝承者に選ばれたことが許せません。
恨みと嫉妬から、暴虐の限りを尽くし、ケンシロウに復讐しようとします。
ジャギの仕返しは極端ですが、兄弟でも、姉妹でも、“きょうだい”のある人なら、この心理は我が事みたいに理解できるのではないでしょうか。
たとえば、実社会においては、兄弟横綱で一世を風靡した『若ノ花・貴ノ花』が例に挙げられます。
相撲通でなくても、兄の若ノ花より、弟の貴ノ花の方が、力士としては上なのは明白でした。
というより、幼少時より真剣に力士を目指した貴ノ花と、たまたま横綱一家に生まれたから力士になった若ノ花の、気持ちの差が現れたというべきでしょうか。(もちろん、推測ですが)
兄の若ノ花があっさり相撲界から身を引いたのも頷ける話で、人にはそれぞれ自分に適った道があります。
『北斗の拳』でも、ラオウがこう言ってます。
「同じ道を進めば、同じ宿命を背負う。兄弟ならば、違う道を歩むがよい」
本当にその通りです。
初稿:2000年12月22日
きょうだいは平等に愛せるか
大人気の『北斗の拳』も、ラオウとの死闘編が完結すると、少しトーンが変わり、『金色のファルコ』や『修羅の国』や『ラオウの息子リュウ』など、後からとって付けたようなエピソードが多くなりました。最後もたたみかけるように終了して、伝説的漫画の最終話とは思えないほど、あっさりした印象を受けたものです。
(一説によると、ラオウとの死闘で連載を終了する予定だったが、あまりの大人気に、やめるにやめられなくなったという話)
しかし、後半のエピソードにも、今も心に焼き付いて離れない話があります。
それが『老王アサムと三人の息子』の話です。
この回だけは、久々の巻頭カラーで、読者の関心も盛り返したことを窺わせます。
老王アサムと三人の息子
サヴァ国の老王アサムは拳の達人で知られていました。
近隣の蛮族から豊かな国を守り、国民の信望も厚いです。
アサムには三人の息子がありましたが、いずれも引かず譲らずの強情で、跡継ぎの座をめぐって兄弟喧嘩ばかりしています。
彼らに国を託せば、必ず内乱になり、国民を不幸にするばかりか、あっという間に蛮族に攻め込まれ、国も滅ぼされてしまうでしょう。
老王アサムは、今も無敵であることをアピールする為、不治の病を必死に隠して、毎日、国民の前で獰猛な野獣と戦って見せます。
しかし、寿命が尽きるのも時間の問題であり、父の苦しみを見かねた王女サラは、偶然出会ったケンシロウに「どうか父を助けて下さい」と懇願します。
流れ者のケンシロウは黙って通り過ぎようとしますが、アサムの懸命な姿を見て、「こんな時代に、まだこのような漢(おとこ)が――この国にはとどまる価値があるかもしれぬ」とサラの願いを受け入れます。
それを知ったアサムは、「どこの素性とも知れぬ男に、我が秘密を知られて、黙って帰すわけにいかぬ!」とケンシロウに拳を振るいますが、逆にケンシロウに諫められ、愚かな息子たちの生い立ちを語り始めます。
息子たちが幼い頃、アサムは占い師から、
「あなたの息子たちはそれぞれが帝王の星を持っている。このまま生かしておけば、国は三つに割れ、災いが起きるでしょう。今のうちに一人を選び、残りの二人は殺すのです!」
とお告げを受けます。
しかし、アサムは「国王といえど、父だ!」と占い師の助言を撥ね付け、息子たちを徹底して平等に育てます。
三人を平等に扱えば、兄弟仲よく力を合わせ、立派な後継者になると信じたからです。
息子らは母を亡くして淋しい思いをしていることもあり、アサムは、玩具も、愛情も、時間も、何もかも平等に分け与え、たとえ末っ子が長兄にお菓子を多めに与えようとしても、「弟だからといって遠慮することはない。お前も兄も平等なのだ」と徹底して三等分を貫きます。
その結果、息子たちは、引くことも譲ることも知らず、常に平等を主張して奪い合う、傲慢な人間に育ってしまいました。
もはや父の忠告を受け入れることもなく、アサムも為す術がありません。
そんな老王の哀しみを知ったケンシロウは、ある日、息子たちの前に現れ、「この国はオレがもらう」と宣言します。
「そんなことはさせぬ!」と息子たちは激怒し、ケンシロウに襲いかかりますが、拳で敵うはずがありません。
長兄が殺されそうになった時、初めて兄弟は力を合わせ、命乞いをします。
そうして、ようやく父アサムの哀しみを知った息子たちは、心を入れ替え、長兄を中心に、三兄弟が力を合わせて国を治めることを誓います。
その姿を見届けたアサムは、王女サラの腕の中で、幸せな気持ちで息を引き取ります。
兄のお下がりを弟が着ることはできない
エピローグ。
末っ子のサトラは、国を兄に任せることを決意し、恋人の待つ隣国へと旅立ちます。
「弟は、兄のお下がりを着ることができるが、兄は、弟のお下がりを着ることはできぬ」
という言葉を残して……。
きょうだいは平等に愛せるか
ジャギの「兄より優れた弟なんて~」の復讐譚にもあるように、きょうだいというのは、友人であり、ライバルであり、傍が思うよりずっと複雑なものです。
時に憎み、蔑んだとしても、何の不思議もありません。
むしろ、いつも仲よく、理解し合うほうが難しいほどです。
また、大人の目には平等に見えても、きょうだいの間には歴然とした上下関係があるものです。
弟より兄、妹より姉の方が、一日の長があり、周りにもそのように見られたいのが人間の性分です。
長として頼られ、格を大事にされるからこそ、上の子も下の子を慈しむことができます。
それを理解せず、何でも平等主義で、上の子の格を踏みにじれば、兄が弟を恨み、姉が妹を妬むのは当然です。
上が屈折すれば、下もいわれのない憎しみを受けて、苦しむことになります。
きょうだいを上手く育てるコツは、兄(姉)の格を尊重することです。
弟に兄の名前を呼び捨てにさせたり、人前で上の子の欠点を平気であげつらったりすれば、上の子も面目が立たなくなり、下の子や親を恨むようになります。
きょうだいの間にも歴然とした上下関係があり、これを無視して、平等主義を持ち込めば、心が屈折するのも当たり前なんですね。
老王アサムと三人の息子のエピソードが読者の心を打ったのも、きょうだい育児における平等主義に一石を投じたからでしょう。
平等は、一見、正しいことに思えますが、人にはそれぞれ立場と自負心があり、それを無視して表面だけ平らにしても、決して上手くいきません。
むしろ心をこじらせ、きょうだい間に憎しみを生むだけです。
「弟は、兄のお下がりを着ることができるが、兄は、弟のお下がりを着ることはできぬ」という言葉にもあるように、きょうだいにも、それぞれ格があり、格を尊重してこそ、初めて尊敬や慈しみの気持ちも生まれます。
上下の格や自尊心を無視した平等主義は、かえって不平等であり、皆を不幸にするのではないでしょうか。
初稿:2009年2月13日
腰から下が繋がったシャムの姉妹ユーシーとユージー。一方は美しく、一方は周囲から軽んじられていた。分離手術を受けた後、姉妹に訪れた運命とは――。姉妹の葛藤を描く萩尾望都の名作。
Slump / ラオウが教えてくれたこと
メルマガ『Clair de Lune』より(1999年)
迷った時、落ち込んだ時、行き詰まった時……etc
日常の処理能力を超える問題が生じた時は、
とにかく具体的に行動するに限る。
布団の中でウンウン唸っていても駄目だ。
職探しで困ってるなら、求人誌を買いあさる。
とにかくハロー・ワークに行ってみる。
行政の窓口に電話してみる。
図書館で、仕事関連の本を借りまくって読む。
「駄目だ、駄目だ」と嘆いている間にも、いろんなactionを起こせるものだ。
もちろん、すぐに結果は出ない。
すべてが良い方向に転ぶとも限らない。
大半が無駄足に終わることもあるだろう。
それでも、日々の小さな行動の積み重ねが、自身への信頼につながり、明日また行動する力につながる。
少なくとも、自己嫌悪に陥らずに済む。
私は一度、敷金の返還をめぐって不動産屋と徹底抗戦したことがあるけど、そりゃもう壮絶な闘いでしたよ。
向こうは、私が「女一人」だと思って、言いたい放題やりたい放題。
身に覚えのないトイレの修理費の請求書を突きつけられて、
怒髪天をつく思いをしたものです。
私は身に覚えのない修理費など、びた一文払う気はなかったし、不動産屋がいくら「とりあえず敷金の一部を振り込ませてもらいます」と言っても、絶対に受け取らなかった。
だって、修理費を差し引いた敷金を受け取るということは、私が修理費を出すことに同意したも同じこと。
それに一端受け取ってしまうと、残りのお金(修理費の分)を請求しにくくなり、そのまま押し切られる可能性大だからだです。
不動産屋は引越し先まで押しかけてくるわ、一時間おきに電話してくるわで、失礼千万。
正直、恐ろしかったですね。身のキケンを感じましたもん。
だけど私もびた一文払う気なかったから、消費者センターに電話かけたり、行政の窓口に相談に行ったり、不動産屋の本社に訴えたり、いろいろやりましたよ(笑)
そのうち、最初に契約した時の担当者の居所が分かり、仲介に入ってもらって、やっと全額返還にこぎつけたのです。
向こうも、「女一人」がここまでやるとは思ってなかったんでしょ(笑)。
私が泣き寝入りして、折れるのを期待してたみたいでね。
仲介が入った時には、手の平かえしたように謝りたおしてましたよ。
徹底抗戦すること八ヶ月。
時には途方に暮れて、床に突っ伏して泣いたこともあったけど、「私の方が正しい」という絶対的な自信があったから、一歩も譲りませんでした。
で、勝因は何かと言うと、やっぱり具体的に行動した事なんですよね。
女学生みたいにワアワア泣いてるだけなら、身に覚えのない6万8千円の修理費を払って、今だに屈辱に震えてたような気がします。
もちろん不動産屋相手に女一人で闘うのはとても恐かったけど、恐怖って闘ううちに克服されるものなんですよ。
私の大好きな漫画『北斗の拳』では、拳王のラオウが「無抵抗」を教え込まれた子供に向かって、こう言います。
「小僧!怖くば、俺の腕を引きちぎってでも抗え!
戦わねば、その震えは止まらぬ!」
どんな人間も、トラブルや未知の物事には恐怖を感じるものですが、逃げて逃げて逃げまくり、泣いて泣いて泣き暮らすより、腹くくって立ち向かっていった方が、必ず良い結果に結びつくんですよ。
人間って、行き詰まった時にはどうしても閉鎖的になりがちだけど、これをやると何もかも流れが止まってしまうんだよね。
何でもいいから、とにかく動くこと。具体的に行動すること。
それが必ず突破口になる。
突破口にならないまでも、心と身体の生産活動を維持してくれる。
Actionだけが、心のモヤを取り払ってくれるんですよ。
私もさあ、今日という今日は疲れ果てて、(くっそー、今日はテレビでも見て、ぼ~っとするか)と思ってたのだけど、
金曜ロードショーの『陪審員』が面白くもなんともねえの!
せっかくビデオまで回して期待してたのに、
「なんなの、このくだらなさは……」の世界 (-。-)y-゚゚゚
で、結局、ビデオを止めて、パソコン開いて、ごちゃごちゃいじってるうちに、「メルマガでも書くか」という気になった。
……そうやって書き始めると一気なんだよね、これが。
書いてるうちに、涙も止まってしまった。
神様、アタシに「書く」という趣味を与えて下さってありがとう。
初稿:1999/05/30
書籍の紹介
「199X年、地球は核の炎に包まれた。だが人類はまだ死滅してはいなかった・・」 (有名なイントロ)
戦後、荒野と化した世界を、暴力が支配する時代、一子相伝の暗殺拳、『北斗神拳』を受け継ぐ男ケンシロウが、弱き者を救うため、悲劇の村に現れる。
『世紀末覇者』をめぐる、北斗の三兄弟の壮絶な闘いなど、時代を超えて読み継がれる、格闘マンガの金字塔。
文句の付けようのない作品だけども、惜しむらくは後半。
取って付けたようなケンシロウの兄弟キャラが登場したり、新しい拳士が登場したりと、前半とトーンの違う部分も多く、ラオウが死んだ時点で終了すれば良かったのでは……と思うことしきり。
あまりの人気の凄さに、やめるに、やめさせてもらえなかったんだろうと推測。
全巻買い揃えるのは非常に勇気が要ったけども(レジに持って行くのが恥ずかしかった)、買っただけの価値はあった。
今でも、空で言えるセリフがたくさんある。
私が、この作品を読んで一番考えさせられたのは、「人生、やっぱり勝たなきゃダメ」ってことだ。
「勝つ」=「相手より優れる」ではなく、自分自身に勝つということ。
自ら溺れ、あきらめ、引き下がるような負け犬にはなりたくない。
そういう心意気(北斗風に言えば、覇気)を教えてくれた、青春の一冊である。