映画『ハンナ・アーレント』 あらすじと見どころ
ハンナ・アーレント(2012年) - Hannah Arendt
監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ
主演 : バルバラ・スコヴァ(ハンナ・アーレント)
あらすじ
ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントは、ニューヨークの大学教授として教鞭を執っていたが、ナチス高官で、ホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴するうち、本当の悪とは何か考察するようになる。
アイヒマンは単なる小役人であり、大衆の無関心や思考停止こそが悪だと説くハンナの論説は、多方面からパッシングされ、仲間も去って行くが、ハンナは聴講生を前に、 「悪の凡庸さ」について力説する。
見どころ
本作の見どころは、極悪人と思われたアドルフ・アイヒマンが、何所にでもいるような小役人で、「命令されたことを遂行しただけ」と淡々と語る姿だろう。
罪悪感も戸惑いもなく、まるで書類に判子をつくように、何百万人を強制収容所に送り込んだ様子が、かえって戦争の恐ろしさを感じさせる。
ハンナ・アーレントの主張は、世間の感情を逆なでするものであり、ハンナ自身も四方八方から非難されるが、自説を撤回することなく、若い聴講生に『悪の凡庸さ』について講義する姿が素晴らしい。
聴講生に対する最後のスピーチは下記にアップされています。
字幕つきなので、自動翻訳にすれば、日本語でも大要は理解できます。
大衆の思考停止こそ社会的罪
『悪の凡庸さ』とは何か
アイヒマンの裁判に見入るハンナ。
「ユダヤ人虐殺に関わったナチスの男」について、多くの人は「悪魔のように凶暴な男」を想像していた。
ところが、法廷に出てきたのは、ごくごく普通の小役人。
残忍な権力者でもなければ、変態嗜好のサディストでもない。
世が世なれば、市役所の隅っこで黙々と判子をついていたような中年男性だった。
この落差に、ハンナの哲学が動き始める。
「私の部署ではない」
「命じられたから、やった」
そこに自身の意思は介在しない、だから罪ではない、という主張。
アイヒマンの答弁は、現代にも通じる話である。
やがて、ハンナは、「大衆の思考停止こそ、本物の悪である」という、『悪の凡庸さ』を打ち立てる。
西洋には伝統的な先入観がありました。
人間が行う一連の悪は、利己心から来るものであると。
ところが、今世紀に現れた悪は、予想以上に根源的なものでした。
今なら分かります。根源的な悪とは、分かりやすい衝動による悪とは違います。(注:憎いから殺す、欲しいから盗むという意味でなくて)
利己心による悪ではなく、もっと違う現象によるものです。人間を無用の存在にしてしまうことです。
強制収容所は被収容者に対して、無用の存在であると思い込ませ、殺害しました。
強制収容所での教えです。
”犯罪行為がなくても罰は下せる”
”搾取が利益を生む必要はない”
”労働が成果を伴わなくても構わない”強制収容所とは、いかなる行為も感情も、その意味を失う所です。
無意味が生まれる所とも言えます。こう仮定しましょう。全体主義の最終段階で、絶対的な悪が現れる。
人間的な動機とはもはや無関係。
だとすると、次も真実です。
もし全体主義がなかったら、我々は根源的な悪など絶対に経験しなかった。
ここで言われる「全体主義」を、「職場の雰囲気」に置き換えてみよう。
“食品の賞味期限を偽装しろ”という社長の指示について、
「社長、それはおかしいんじゃないですか」
「こんな嘘のラベル、私は貼りたくありません」
という疑問を口にすることができない。
「黙って、言われた通りにすればいいんだよ」
「会社つぶれて、食えなくなったら困るだろ」
「あいつ気取って、上申してる。バカじゃね」
目の前の『悪』を見て見ぬ振りし、「右向け、右」で誤った指示にも黙って従えば、悪に加担したのも同じこと。
こうした大衆の思考停止こそが、歴史的悲劇に繋がる、というのがハンナの主張だ。
ハンナ「彼はどこにでもいる人よ。怖いほど凡人なの。
知人「国家保安本部でユダヤ人課のトップだ。ただの凡人に務まるか!」
ハンナ「でも彼は国家の忠実な下僕と思ってたの。”忠誠こそ名誉” 総統の命令は法律よ。彼に罪の意識は全くない。法に従ったからよ。任務の遂行が養親より優先されたの」
企業の悪事でも、犯人を捕まえてみれば、普通の社長、普通の係員、ということが往々にしてある。
漫画みたいに、恐ろしく頭の切れる陰謀家が悪巧みを働くのではなく、上に指示された末端の社員が「ラベルを貼り替えるぐらい、いいじゃない」という感覚で、どんどん小さな違法行為を積み重ねていく。
アイヒマンも同じ、指令が下る度に、「ハイハイ」と頷き、何も考えずに任務を遂行したのだろう。
むしろ、迅速・確実に遂行することが、有能の証しと考えて。
一般に悪は、悪魔的、サタンの化身、そう見なされがちだ。
しかし、アイヒマンには深さがない。
彼は思考不能だったのだ。
上記のように、アイヒマン擁護ともいえる論文を発表したハンナの元には、批判、侮蔑、脅迫が殺到する。
だが、ハンナは臆することなく、若い聴講生を前に、特別講義を行う。
法廷の関心はたった一つ、正義を守ることです。
アイヒマンを裁く法廷が直面したのは法典にない罪です。
そしてそれはニュルンベルク裁判以前は前例もない。
それでも法廷の彼を裁かれるべき人として裁かねばなりません。
しかし、裁く仕組みも、判例も、主義もなく、”反ユダヤ”という概念すらない人間が一人いるだけでした。
彼のようなナチの犯罪者は人間というものを否定したのです。
そこには罰するという選択肢も、許す選択肢もない。
彼は検察に反論しました。何度も繰り返し、”自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意思は介在しない。命令に従っただけなのだ”と。
こうした典型的なナチの弁解で分かります。
世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
賞味期限の偽装も同じこと。
「社長に命令されたから、やった。自分は何も悪くない」は通用しない。
実際に、期限切れの日付をごまかした為に、食中毒で死者が出たとすれば、たとえ命令されたにせよ、それを事務的に行った者も当然、罪に問われる。
そして、そうした人が、十人、二十人と増えれば、全国のスーパーに賞味期限切れの食品が出回ることになる。
となると、悪いのは誰か?
「社長一人」ではないだろう。
ハンナの言う『悪の凡庸さ』は、無抵抗、無思考に陥った状態で、社会的罪にせっせと手を貸す大衆そのものである。
私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、「理解を試みる」のと「許し」は別です。
この裁判について文書を書く者には、理解する責任があるのです。
ソクラテスやプラトン以来、私たちは”思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。
人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。
それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
過去に礼が無いほど大規模な悪事えした。
私は実際、この問題を哲学的に考えてみました。
思考の風がもたらすものは知識ではありません。
善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
私が望むことは、考えることで人間が強くなることです。
危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう
戦死者に善人も悪人もない
先日、あるニュースサイトで、
というコラムを目にした。
(誰のコラムだったか、メモするのを忘れました。スミマセン)
コラムニストの指摘はまったくその通りで、中世期の戦争と第二次大戦は違うし、第二次大戦と未来の戦争も異なる。
固定されたイメージで戦争について語ると、現代における平和や反戦の意味も見誤るという点については大いに合点がいきますし、今後は『国家』対『国家』よりも、『民族』対『民族』、『○○派』対『反対派』、『持てるもの』対『持たざるもの』といった、思想や属性による争いが激化することは必至だ。
これもどなたかが書いておられた、「歴史上、戦争のない時代など、一度としてない。現代だって、砲弾が飛び交わないだけで、ずっと戦時中だ」という主張も、まったくその通りで、人類が地上の物資を奪い合う限り(食糧、エネルギー、鉱物資源、人手、等々)、夢に描くような平和は決して訪れない。
むしろ、何の問題もない状態の方が珍しいだろう。
戦争とは歴史の無慈悲なロシアン・ルーレット 映画『ディア・ハンター』でも書いているが、「戦争とは何か?」と問われたら、私は「ドイツ兵も、ソ連兵も、ユダヤ人も、無名兵士の墓に一緒に弔われることだ」と答える。
そこには、善人も、悪人もなく、ただ人の死があるだけだ、と。
私の居住区にもたくさんの無名戦士の墓があるが、それらの墓には、当然のことながら、氏名も、生年月日も、階級も、何も刻まれていない。
20㎝ぐらいの四角い墓石に、ソ連兵には赤い星、ユダヤ人にはダビデの星、ポーランド人には十字架のレリーフが刻まれているだけだ。
それが等間隔に、同じ様式、同じサイズで、整然と並んでいる。
そして、ハロウィン後の『死者の日(11月1日)』になると、近所の人が善意で花やキャンドルを供え、どこの誰であろうと、同じように死を悼む。
戦争とは良き家庭人によって行われるもの
いつの時代の、どこの戦争もそうだが、戦争というのは、良き家庭人、良き父親、良き夫である人によって行われるものだ。
マッドマックスみたいに、日頃からクレイジーな連中が、国の一大事になると、ヒャッハーと襲いかかってくるわけではない。
上官の命令が下れば、普通の人でも住宅地を破壊し、丸腰の市民に銃を向ける。
世の中全体が、そのような流れになれば、もう誰にも止められないし、次第に疑問にも思わなくなるものだ。
巨大な社会悪は、決して一人によってなされるものではなく、それに追従する部下がいて、命じられるがままの大衆がいる。
本当に危ないのは、過激なリーダーではなく、むしろ黙って従う大衆の方だろう。
常に、疑問と危機感を持つこと。
それだけが私たちを正しい方向に導いてくれる。
経験と共に、人が賢くなることを祈りたい。
関連する記事
ナチス残党の検挙に執念を燃やす検事フリッツ・バウアーは、アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという密告の手紙を受け取る。様々な証拠から、その人物がアイヒマンと確信したバウアーはイスラエルの諜報機関と協力し、アイヒマンの身柄確保に全力を尽くす。なぜ戦犯は裁かれなければならないのか、バウアーの名言を紹介。
なぜ戦犯は裁かれねばならないのか ~映画『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』
クラクフで起きた壮絶なユダヤ人迫害と、自社の工場に従業員として雇うことで一人でも助けようとしたドイツ人実業家オスカー・シンドラーの苦悶を描く戦争ドラマの傑作。リーアム・ニーソン、レイフ・ファインズ、ベン・キングスレーらの演技も素晴らしい。
映画『シンドラーのリスト』とオフィシエンチム戦争博物館(アウシュビッツ収容所)の記録
『考えない大衆』が世界を破滅に招く
追記:2017/12/14
2017年、核廃絶を訴える『ICANN-核兵器廃絶キャンペーン-』がノーベル平和賞を受賞した。代表のサーロー節子さんのスピーチの中でも『悪の凡庸さ』という言葉が使われているので、改めてその意味を考えてみたい。
ちなみに、英語で『悪の凡庸さ』は 『the Banality of Evil』と表される。
『イェルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』 Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil
核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムの不可欠の一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。
これに対比するように、橋下徹氏が下記のようなコメントを出している。
核兵器廃絶が絶対的な目的なのではない。戦争のない世界にすることが目的だ。核兵器廃絶は戦争のない世界にするための一手段だ。そして戦争のない世界にすることに責任を持つ者は、その目的を達成するために手段の相当性をきっちりと検証する。本当に核兵器廃絶という手段によって戦争のない世界が実現できるのか、と。ところが戦争のない世界を実現することに責任を負わない者は、自分の持論である核兵器廃絶をとにかく叫んでしまう。それによって仮に戦争が起きたとしても知ったこっちゃないからね。
大阪府政、大阪市政における改革議論のときでも同じような状況だった。責任を負っていない役人や有識者、それに議員の主張は、いつも無責任な主張ばかり。その主張を実行したときにどうなる? という点について深い考察がない。
ところが今のところ、核兵器が廃絶された後に世界がどうなっているのか、大国・強国間で大戦が勃発しないのかをしっかりと論証したものは見当たらない。あたかも核兵器が廃絶されれば地球上にパラダイス(楽園)が訪れるかのごとき主張ばかりだ。
ここで重要なのは、誰かが世界平和の理想を説くと、必ず現実論を持ち出す人がいて、またそれに追従する大衆が現れる、ということだ。
たとえば、近年、ドイツで大ヒットした映画『帰ってきたヒトラー』では、「もし現代にヒトラーが現れたら」という歴史のIf(もしも)をコミカルに描いていた。
大衆が再びヒトラーを支持するなど有り得ないと誰もが思っているが、結果は逆だ。
大衆はヒトラーの圧倒的なスピーチに魅了され、たちまちメディアに人気者となる。難民問題に揺れるドイツ国内において、排斥的な主張は、疑問や不安を抱く大衆にとって、今なお心を揺さぶるものだ。頭では「人類、みな平等」と理解していても、現実に、自分たちの生活が脅かされ、治安が悪化すれば、多くの人は再び排斥的な考えに共感するようになる。経済の立て直しや外交において、強い手腕を持つ者に魅力を感じ、その一人に国家の未来も庶民の幸福も託してしまう心理は、第二次大戦の頃と何ら変わりなく、破滅の萌芽は今もなお大衆の中に潜んでいるのである。
核廃絶についても、全面的に廃止を訴えるICANはお花畑で、橋下氏の主張こそ現実に沿っていると考える人も少なくないだろう。
実際、『危機はそこに迫っている』と言われたら、誰も否定はできないし、それに抗う術もない。
実際問題、ポーランドもNATOに加盟しているから、ロシアも安易に越境しないだけで、NATOもポーランド国軍も武力を捨てれば、明日はどうなるか分からない。ロシアに限らず、豊かで領土を求める勢力は至る所にある。それらの動きを封じているのは、NATOであり、国軍だと言われたら、実際、その通り。武力は罪と分かっても、存在を望まぬ者は希有だろう。
歴史はある意味、ジレンマとの闘いである。平和か、武力か、微妙なバランスの中で、『何も無い時期』を保ってきた。人類が賢くなったから戦争が起きないのではなく、武力、経済、個々の利害、等々で、かろうじてバランスを保っているだけで、世界は今でも引き金に指をかけている。大昔のように領主一人の判断ですぐに軍隊が動くのと異なり、今は民意や世論が大きな力を持つようになっただけで、必ずしも正しい方向に向かっているわけではない。
そして、世の中が極端な方向に傾きかけた時、抑止力となるのは大衆の力である。現代、多くの国々では、国家元首を批判しただけで直ちに首が撥ねられるわけではないし、逮捕されたからといって中世の拷問がくわえられるわけでもない。人権が機能する国なら裁判も受けられるし、弁護士もつけられる。そういう面では、社会制度も大衆の意識も大きく進歩しているし、第二次大戦のように世界中が一気に武力一色に傾くこともないだろう。
だからこそ、個々が考え、判断せねばならない。ハンナ・アーレントやサーロー節子氏が説く『悪の凡庸さ』とは、思考の放棄と追従である。
橋下氏は、『戦争のない世界を実現することに責任を負わない者』というけれど、責任は国民一人一人が負っており、大衆は平和を脅かす極論に対してNoを突きつけることもできれば、危険な人物を選挙で落選させることもできる。政権とは、それを支持する多数があればこそ成り立つ話であって、誰も支持しない政党は権力にはなり得ない。
言い換えれば、『民意こそ力』であり、大衆一人一人にまともな思考力があれば、大きく道を違うこともないのである。
『武力』に対しても全く同じだ。
よほどの過激思想の持ち主でもない限り、武力行使や核兵器保持について全面賛成する者は少数だろう。
誰もがその危険性を知り、絶対的理想が何であるかを知っている。にもかかわらず、「消極的に支持せざるを得ない」、そこに現実の難しさがある。
だとしても、『理想を掲げること』にどんな間違いがあるというのだろう。
「だって、現実はこうだから」と、皆が妥協し、理想の実現を諦めてしまったら、それこそ終わりではないか。
『確証を示せ』というが、確証がなくても、戦争自体が罪であり、人類に悲劇しかもたらさないことは誰もが知っている。平和を愛し、暴力を憎む気持があればこそ、多くのリーダーが理想の実現を目指して様々な交渉を重ねている。数百キロメートル先で外国軍が侵攻し、政権が転覆するような事態にあっても、それでも最後まで平和的解決を目指す。その信念があればこその政策であって、確証があろうが、なかろうが、『人類がその一点に向かって努力する』、それこそが社会正義である。
本当に罪深いのは、上記のような現実論に負けて、極端な考えに追随することだ。
核廃絶に限らず、賄賂、談合、口利き、裏取引、等々、「だって、そうしないと業界が回らないから」という必要悪に支えられ、正義に逆行する慣習は至る所にある。
だが、そこで開き直ってしまったら、何をも正すことはできないだろう。
理想を通して現実の歪みを知り、歪みを正そうとするから社会も進歩するのであって、そうした行動の基本となるのは、やはり大衆一人一人の思考力であり、まともな感性である。
その思考力を放棄するなと訴えかけているのが、ハンナ・アーレントとサーロー節子氏であり、私たちは、どんな時も「もっともらしい現実論」に敏感であるべきだろう。
「有名人がこうだと言ってるから」「皆が支持しているから」、等々。
よく考えもせず、抗いもせず、ただ上の言うことに付き従うだけなら、書類に判子をつくようにユダヤ人虐殺を遂行したアイヒマンと変わりない。
私たちは、どんな時も、理想を諦めてはならないのである。
2014年11月28日