作品の概要
マーガレット・ミッチェル原作の映画『風と共に去りぬ』は、第一部と第二部から構成されています。
【第一部】
南北戦争の前夜。
アイルランド移民の末裔で、裕福な地主オハラ家の長女スカーレットは、強い意志をもった、勝ち気な美少女です。物怖じしない性質から、同年代の女性には敵視されていますが、年頃の男性にとっては憧れの的。地元の名士を集めたバーベーキュー・パーティでも女王の様に振る舞いますが、彼女の関心は長身の美青年アシュレー・ウィルクス、ただ一人。彼の愛を確信するスカーレットは、いずれ彼が結婚を申し込んでくれると心待ちにしていましたが、アシュレーが選んだのは、スカーレットとは対照的な、心優しいメラニーでした。それを知ったスカーレットは怒りにまかせてアシュレーの頬を平手打ちしますが、アシュレーの気持ちは変わりません。
そんな二人のやり取りを面白く眺める男がいました。封鎖破りの貿易で大儲けしている実業家のレット・バトラーです。レットは、炎のようなスカーレットの美しさに興味をもちますが、スカーレットはレットの侮辱を許さず、アシュレーへの当てつけに、メラニーの弟、チャールズ・ハミルトンと結婚します。
間もなく南北戦争が始まり、チャールズは病気で死亡。早くも未亡人となってしまったスカーレットは、メラニーの好意を利用して、アトランタに向かいます。メラニーと一緒にいれば、いつかアシュレーと再会できるからです。
しかし、スカーレットの思惑は外れ、アシュレーとメラニーの間に割り入ることはできません。それどころか、アトランタは北軍の進撃によって炎上し、スカーレットはレット・バトラーの助けを借りて、メラニーと生まれたばかりの赤ん坊と共に命からがら脱出します。
ようやく懐かしい我が家に帰り着いたものの、タラは焼け野原、美しかった豪邸も荒れ果て、メラニーや赤ん坊に食べさせるものもありません。頼りの父は、最愛の妻を亡くして半病人のようになり、二人の妹も我が侭ばかりです。
飢えと疲れから一度は大地に突っ伏し、打ちひしがれるスカーレットですが、彼女の体内には、アイルランド移民の先祖から受け継いだ逞しい血筋が宿っていました。生来の精神力を支えに、強く生き抜くことを誓います。
【第二部】
スカーレットは懸命に働き、綿花を栽培して、どうにか生活を建て直します。それでも金策に行き詰まると、復興事業で成功したフランク・ケネディ(妹スエレンの婚約者)を誘惑し、まんまと「ケネディ夫人」の座に収まります。
そんなスカーレットを好意的に見ていたレット・バトラーは、フランク・ケネディが争いに巻き込まれて凶弾に倒れると、早速、スカーレットを訪ね、今度こそ本気で求婚します。
スカーレットはレットの財力にすっかり魅了され、裕福な暮らしを享受しますが、彼女の心はいまだにアシュレーに繋がれていました。それを知ったレットとの夫婦仲は次第に冷え込み、愛娘ボニーの死をきっかけに亀裂は決定的なものとなります。
そうして、最後の望みであったメラニーも病気で世を去ると、スカーレットはアシュレーにすがりつき、それを目の当たりにしたレットは、ついに別れを決意します。そうなって初めてレットへの愛に気付いたスカーレットは許しを乞いますが、レットの気持ちは変わりません。追いすがるスカーレットを冷たく突き放し、遠く旅立って行きます。
一瞬、スカーレットは全てに絶望し、階段に伏して、激しく泣きじゃくりますが、再び先祖の血が沸き立ち、「タラに帰って、レットを取り戻す方法を考えましょう。明日に望みを託して」と愛する故郷に向かうのでした・・・
見どころ
ずっと以前にTV特番で紹介されたエピソードですが・・
第二次大戦中、日本軍が米軍の軍用機を撃ち落とし、貨物を調べたところ、二本の映画フィルムが見つかりました。軍用機は米軍キャンプの慰安に向かう途中だったようです。フィルムの一本はディズニー映画の傑作『ファンタジア』。もう一本は、『風と共に去りぬ』でした。
日本人が食うや食わずやで、ぎりぎりの戦いをしている時に、連中は、こんな素晴らしい映画を作って、アトランタ炎上を撮影する為に、ガソリンをがんがん燃やしている。こんな国に勝てるはずがない――上映会に立ち会った軍部の上官は敗戦を覚悟したとの話です。(もう一方の『ファンタジア』も色彩美溢れる名作ですね)
美術や衣装はもちろんのこと、CGも模型も一切用いない、圧巻のエキストラと臨場感は、まさに永遠の名画と呼ぶにふさわしい出来映えです。これが本当に第二次大戦前に撮影された作品なのかと目を見張るほど。21世紀になってから制作された文芸作品でも、これほどの気品と迫力に満ちたものは見当たりません。イエス・キリストの生涯とユダ・ベンハーの復讐を描いた歴史スペクタクル『ベン・ハー』もそうですが、『風と共に去りぬ』も、映画が国民の最大の娯楽で、米国の象徴だった時代の徒花と感じます。
また、主演のヴィヴィアン・リーも、レット・バトラー役のクラーク・ゲーブルも、現代のハリウッド役者が逆立ちしても真似できない優美さで、存在自体が奇跡と言っても過言ではありません。
展開の早い現代映画に慣れた世代には冗長で、価値観の違いに違和感しか覚えないかもしれませんが、人類が叡知を結集して、こんな映画を作っていた時代があったのだと実感するだけでも価値があるのではないでしょうか。
名台詞『もう二度と飢えに泣きません』
『風と共に去りぬ』は「Overture(序曲)」「第一部」「間奏曲(Intermezzo)」「第二部」というオペラ形式の二部構成で、エンディングとしては、第二部のスカーレットの最後の台詞、、『Tomorrow is another day(邦訳:明日に望みを託して)』が圧倒的に有名ですが、私は、荒れ果てたタラの荒野から身を起こし、タラの赤い土を握りしめて、「I will never be hungry again(もう二度と飢えに泣きません)」と神に誓う第一部のエンディングの方が好きです。
南北戦争の終盤、北軍が南部の拠点アトランタに進撃し、町中が炎に包まれる中、レット・バトラーの助けを借りて、ようやく故郷タラに帰り着いたものの、愛するアシュレー・ウィルクスの家は無残に焼け落ち、彼の両親もすでに墓の下でした。
スカーレットの家は、北軍の司令部として使用されたこともあり、ようやく原型をとどめていましたが、財産も、調度も、家畜すらも北軍に略奪され、彼女に残されたものは、妻の死のショックで廃人のようになってしまった父ジェラルドと、無力で我が侭な二人の妹、出産で全ての力を使い果たしたメラニーと乳呑み児だけでした。
食べる物もなく、頼れる人もなく、途方に暮れながら庭を歩いていると、土に埋もれた大根が目に入ります。
スカーレットは貪るようにそれを口にしますが、あまりの不味さに胃の中のものを全て吐き出してしまいます。
あまりの惨めさに地に突っ伏し、号泣しますが、やがて生来の強さが頭をもたげます。
彼女の体内には、苛酷な開拓時代を生き抜いた、アイルランド移民の祖先の血が流れていました。
スカーレットはタラの赤い土を握りしめ、天を仰いで誓います。
As God is my witness, as God is my witness they’re not going to lick me.
I’m going to live through this and when it’s all over, I’ll never be hungry again.
No, nor any of my folk. If I have to lie, steal, cheat or kill.
As God is my witness, I’ll never be hungry again.私は神に誓います。
この大いなる試練に私は決して負けません。
家族に二度とひもじい思いはさせません。
その為には欺し、盗み、人をも殺すでしょう。
神を証人に誓います。
二度と飢えに泣きません!
それまでスカーレットといえば、逞しい父親と優しい母親の庇護のもと、ぬくぬくと育ち、一日中、考えることといえば、いかに美貌を保ち、若い男を籠絡するかという事だけ。貧しさも知らず、飢えも知らず、裕福なお嬢さんとして天真爛漫に暮らしてきました。
ところが、戦争で何もかも失い、頼りの父も妻を亡くしたショックで廃人のようになり、今度は自分が支えなければならない立場になります。
そうなって初めて、現実の厳しさを知り、自立した一人の女性として、人生に立ち向かう決意を固めます。
「その為には、欺し、盗み、人をも殺すでしょう」という台詞は、字面だけ見れば、非人道的ですが、この台詞が意味するのは、子供時代との訣別です。子供は純粋で、決して嘘をついたり、人を傷つけるようなことはしません。正しいことは正しいままに存在し、きれいごとで飾られたお菓子のような世界です。しかし、現実に生きるとなれば、正直だけでは通用しません。その為には、欺し、盗み、人をも殺すような気迫も必要です。彼女は現実社会に打ちひしがれて、子供のように自らを憐れむよりも、世の不条理を正面から見定め、逞しく生き抜くことを選んだんですね。
泣いても、その頬に涙を残さないスカーレット。
地の底に叩き落とされても、その都度、立ち上がり、真っ直ぐに頭(こうべ)を上げる力強さと、愛に関しては愚かしいほど無知なところが、スカーレットの魅力を永遠のものにしています。
「タラに帰って、レットを取り戻す方法を考えましょう。Tomorrow is another day(明日に望みを託して)」とにっこり微笑む彼女に、「敗北」の二文字はないのです。
物語の主題は『Survive(生き残る)』
ところで、この大作について「一番初めに書かれた一文」は、どの箇所かご存じですか?
スカーレットとレットの別れの場面に出てくる、
『彼女は二人の男を愛しながら、ついにその二人とも理解しなかった』
だそうです。
マーガレット・ミッチェルの、不幸にして別れた前夫への思いと、再婚した夫に対する気持ち……すなわち自分自身の心の叫びが、あの大作の萌芽となったわけですね。
私は「初めにスカーレットありき」の作品だと思っていたので、ちょっと意外でした。(キャラクター先導型・作者の意図とは無関係に、キャラクターが勝手に動き回り、物語を引っぱっていくパターン)
マーガレット・ミッチェルいわく、物語の主題は『Survive』(生き残る)ということ。
風が一瞬にして全てを運び去っても、地面に突っ伏して泣き続けるか、スカーレットのように立ちあがるか。人間の道は二つに一つです。
社会情勢はこれからますます厳しくなり、人も競争のふるいにかけられ、どんどん脱落していくでしょう。
21世紀は、誰もが食にありつけた20世紀と異なり、「個」の力で全てが決まる時代です。
その際、助けになるのは『知』に他なりません。
知識の量や成績の良し悪しではなく、物事を見極め、道を切り開いていく力です。
たとえ家財一式を失い、仕事も、地位も、何もかも失っても、自分の中に備わった『知』だけは誰にも奪い取れません。
見栄さえ張らなければ、知力を武器に、どんな時代も逞しく生き抜くことができるのではないでしょうか。
原作も、映画も、ラストの台詞は、Tomorrow is another day.
直訳すれば、「明日は、また別の日」
この台詞は、「明日は明日の陽が照るのだから」「明日に望みを託して」「明日は明日の風が吹く」、等々、様々に訳されてきました。
今日はどれほど惨めでも、明日は明日の風が吹き、また新たな陽が昇る。
これほど希望と決意に満ちた台詞もなく、スカーレットというキャラクターの全てが凝縮されているような気がします。
Tomorrow is another day――
さて、皆さんなら、どう訳しますか?
初稿 1999年5月30日
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【感動のラスト】 愛は終わっても、人生は続く
引き合っては別れ、別れては再会し、運命のコマのように激動の時代を生き抜いたスカーレットとレット・バトラー。
二人はついに結ばれ、幸せな結婚生活を送りますが、メラニーが逝去した時、アシュレーの腕の中で泣き崩れるスカーレットを見て、あれほど激しかったレット・バトラーの愛もついに醒めてしまいます。
スカーレットは、その時に「アシュレーが本当に愛しているのは私ではなく、メラニーだった。私はずっと幻を追ってきたんだわ」とようやく真実に気付き、レットの姿を求めて、家に帰り着きますが、レットはすでに荷造りを始めていました。
スカーレットは必死の思いで「今、やっと分かったの、あなたを愛しているわ」と告げますが、レットの気持ちは変わりません。
「あなたが居なくなったら、私はどうすればいいの」と泣きすがるスカーレットに、「Frankly,my dear, I don’t give a damn(オレの知ったことか)」と言い捨て、出て行ってしまいます。(damnは、永遠の罰とか、地獄に落とすといった、非常に激しい意味があります。公開前、このセリフを入れるかどうかで、制作サイドはずいぶん迷ったそうです)
階段で泣き崩れる彼女の耳に聞こえてくるのは、父やアシュレイの声です。
「タラこそ君の命だ。土地こそが生きる価値だ」
原作では、第1部のエンディングの前、戦争で何もかも失って、力無くベッドに横たわるスカーレットの耳に、誇り高きアイルランドの祖先が幻の声となって彼女を励ます場面が登場します。映画には描かれませんが、原作を読めば、二つの場面が密接に繋がっていることが分かります。
ここでも、生来の強さが頭をもたげ、「そうよ、タラに帰りましょう。故郷に帰って、レットを取り戻す方法を考えましょう」と希望に瞳を輝かせるスカーレット。
愛は終わっても、人生は続きます。
近年、アメリカの作家によって、続編「スカーレット」が公開されましたが、私は読んでないし、TVドラマを見ることもないです。(最近になって、『レット・バトラー』という第二の続編も登場しましたが……
)
私にとって、スカーレットの物語はここで終わりです。
レットとの愛も終わったのではないか――というのが、淋しいですが、私の結論です。
書籍とDVD
小説『風と共に去りぬ』 大久保康雄・訳
言わずとしれた世界名作文学の金字塔。
「聖書」に次いで、世界で最も読まれている永遠のベストセラー。
映画だけでも十分楽しいですが、原作を読めば、さらに踏み込んだ登場人物の心理や人間関係、歴史的背景や当時の価値観が理解できます。
ファンでなくても一度は読むべき名作。
現代新訳もリリースされていますが、私はクラシックな大久保 康雄 訳をおすすめします。
映画『風と共に去りぬ』
動画配信サイトでも気軽に視聴できますが、どうせなら「字幕版」「吹替え版」の両方を堪能したいもの。
特に大塚明夫氏のレット・バトラーは秀逸です。
【キャスト】
スカーレト・オハラ:ビビアン・リー(日野由利加)、レット・バトラー:クラーク・ゲーブル(大塚明夫)、
メラニー・ハミルトン:オリビア・デ・ハビランド(平淑恵)、アシュレイ・ウィルクス:レスリー・ハワード(原 康義)
英語で読み解く
より作品への理解を深めたいなら、オリジナルの英文を紹介しているこちらがおすすめ。
名セリフや時代背景を解説しながら作品をひもとく1冊。映画の中から興味ある会話部分を抽出し紹介すると共に、それにまつわるエピソードや歴史情報をちりばめている。
『細かいシーンの解説やシーンごとの会話が良く説明されてあり、この本を読み終えた後に、映画を見ると、ヴィヴィアンリーや、クラークゲーブルの演技力の高さを改めて感じ取ることができる。(amazon.comより)
映画のシナリオからは味わえない、マーガレット・ミッチェルの本物の魅力に触れてみて。
『風と共に去りぬ』上映禁止に寄せて : 『差別的表現』と『差別を表現すること』は異なる
昭和の頃は、『地球が回り続ける限り、”風と共に去りぬ”も世界のどこかで上映され続ける』と言われていましたが、それも怪しくなってきました。「人種差別的である」という理由から、上映禁止やプロテストの対象となっているからです。
確かに、映画も、原作も、特定の人種を侮蔑するような描写が少なからず存在します。
映画のドキュメンタリーでも、黒人奴隷プリシーを演じた女優さんが、「いかにも愚か者のように演技しなければならないので、辛かった」とコメントしておられたのが印象的でした。
こうした価値観の変移は『風と共に去りぬ』に限ったことではなく、昭和の文学や漫画などにも多数見受けられます。スケベな課長さんが女性事務員に卑猥な言葉を投げかけたり、男性コーチが女性選手の入浴中に説教に訪れたり(女性がキャ~と叫んで胸元を隠すのが一種のギャグだった)、当時は当たり前のように描かれていたことも、21世紀においては完全にNGですし、熱血先生が生徒をビンタしたり、コメディアンが乞食の真似をしたり、今となっては「よくこんなものを平気で見てたな」と思うことしきりです。
だからといって、当時の原作者が、あからさまに差別意識をもって創作したわけではなく、時代の移り変わりと共に、読者の受け止め方も180度変わった、そのひと言につきます。差別的表現というよりは、「それを差別と見なすようになった」、社会の側の問題です。
『風と共に去りぬ』においては、奴隷娘のプリシーや世話係のマミーなど、黒人奴隷の描き方が問題視されていますが、『差別的表現』と、(史実や社会問題として)『差別を表現すること』は別ですし、何から何まで問題視して、元から差別はなかったものとして目を塞ぐのは、かえって歴史的真実を捻じ曲げる結果になるのではないでしょうか。
一方、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』のように、日本人女性に対する酷い偏見が満ちあふれていても、一向に問題にならないケースもあります。
中国の女装スパイと英国外交官の異質な愛を描いた映画『Mバタフライ』では、ヒロイン(♂)のソン・リリンが、白人外交官のルネ・ガリマールに「白人の娘が東洋の男のために死ねば、なんて馬鹿な女と笑われるだけ。東洋の娘が西洋の男のために死ぬと美しいわけね」と揶揄する場面がありますが、まさにその通り。
差別の対象など、実はどうでもよく、誰かが「差別だ」と叫べば、右に倣えで一斉にキャンセル・カルチャーに走り、作品の価値も、文化的意義も、何も考えずに、存在そのものを消し去っているように感じます。
『差別的表現』と『差別を表現すること』の違いも分からない国民が、果たして自国の文化を守り通すことができるのか。
『風と共に去りぬ』に対する扱いが未来を左右するような気がします。
追記 2020年6月14日
歴史スペクタクルの金字塔。