『父(神)よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分かってないのです』はイエス・キリストの有名な言葉です。
ローマ兵に捕らえられ、裁判にかけられたイエスは磔刑に処せられます。
イエスの周りでは、ローマ兵や議員や民衆がイエスを嘲弄し、「本当に救世主なら、自分自身を救ってみろ」と詰ります。
しかし、イエスはそんな人々を憎むのではなく、「父(神)よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです』と慈愛の言葉を口にします。
『新約聖書 共同訳全注 (講談社学術文庫) 』による記述は次の通りです。
「されこうべ」(ゴルゴダ)と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエススを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
(そのとき、イエスは言った) 「父よ、彼らをゆるしてやってください。何をしているのか知らないのです」。
人々はくじを弾いて、イエススの服を分け合った。
民衆は立って眺めていた。
議員たちも、あざ笑っていた。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うがよい」
兵士たちもイエススに近寄って来て、酸っぱいぶどう酒を突きつけながらあざけった。
「もしお前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」
イエススの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。ルカスによる福音書 第23章32-49節より
一般に、他人に不条理な仕打ちをされ、嘲られたら、憎み、呪い、復讐を誓いますね。
しかし、イエスはそうはしませんでした。
逆に、「彼らを許し給え」と無償の愛を注ぎます。
映画『ベン・ハー』でも、キリストの磔刑に立ち会った商人バルタザールが、イエスの愛と潔さに胸を打たれ、「これから始まるのだ」と奇跡の始まりを予感します。
主人公のユダ・ベンハーが、最後には旧友で宿敵でもあるメッセラを許し、愛する家族の元に戻ったのも、イエスの立派な態度に心を打たれたからです。
憎悪は憎悪しか生みません。
どちらかが許さない限り、憎悪の連鎖は果てしなく続きます。
「彼らをお許しください」は、それを断ち切る愛の智恵です。
他人に喧嘩を売られても、「父よ、彼らをゆるしてやってください。何をしているのか知らないのです」と唱えることで、少なくとも、憎悪の連鎖から抜け出すことはできます。
なぜなら、彼らが愚かなことをするのは、無知だからです。
責められるべきは無知であり、人ではない――というのが、愛の本質です。
【小説】 父こそ、我が指針 ~何を選び、どう信じるか
『海洋小説 MORGENROOD -曙光』では、最愛の父を亡くしたヴァルターが、エクス=アン=プロヴァンスの母の実家を訪れ、初めて自分の出自を知ります。
さながらヴァルハラ城のように壮麗な建物を見るうち、自分も王族の一員なのだと漠然と理解しますが、母の親族は冷淡そのもので、自分の父が教え諭してきたことは間違いだったのかと心が揺るぎます。
そんな時、中庭で「自分の従兄」と称する人物に出会います。
その馬鹿っぷりに唖然としたヴァルターは、父を信じることの意義を、改めて自分に問い直すのでした。
父の教えを胸に繰り返すうち、ヴァルターは自分の手も足も、髪の毛一筋さえも、父の精神で出来ていることを理解した。いかなる理由で母が出自をごまかし、父が偽りの愛の物語を語って聞かせたのかは知らないが、阿呆面の従兄を見ればその理由も窺い知れる。あんなのが自分の親族と知って、誇りに思う人間はいない。孫が訪ねても、顔も見せない尊大な祖父母もだ。
彼は空疎とした庭園を歩きながら、一つの真理を悟った。
父の教えが絶対的に正しいか否かの問題ではない。自分が何を選び、どう信じるかだ。そして、その答えは天の青さより明白である。
ああ、何を迷うことがあるだろう。
父が言ったことは本当だった。「いつでもお前と共にある」白い雲間、海の果て、風にそよぐ野の花にも、父の教えは生きている。
《父こそ我が指針》
そう信じられることが、自身の最大の財産に思えた。