一昔前なら、とうに死んでいた人間が、技術の力で生きている。機械ににつながれ生きている。
自分が自分であるということさえ分からぬまま――。
この十数年の間に医療技術はまた一段と進歩した。以前なら諦めるしかなかった病態も、新薬や新技術の登場により、劇的な回復を見るようになった。
命は延び、死はさらに遠のいたが、一方で、昔なら考えもつかなかった「おかしな生」を生み出す結果となった。
おかしな生――すなわち、生きているとも死んでいるともつかぬ肉体の存在である。
我という意識も無く、過去の記憶も無く、自身が生きているという認識さえない、肉体のみの生である。
医療技術を駆使し、生存期間を限りなく延長させることを「延命」という。
これにより肉体の死は回避され、人間は機械が正常に作動する限り、そして心臓が鼓動を打ち続ける限り、生き長らえることができる。
だが本人はもはや自分が誰であるかも分からない。
人間が人間たるに必要な思考も、自分に対する認識も、記憶も、一切を無くしたまま、ただ“存在”しているのだ。薬や機械によって。
命――それはかけがえのないものである。
だが人間の「生」を、“己”という自己認識の上に成り立つものと定義するなら、人間としての思考も意識も完全に停止し、自分で自分が誰であるかも分からない――ただ呼吸するだけ、脈打つだけの肉体として存在するに過ぎないなら、それも人間として尊厳のある「生」のうちに入るのだろうか?
医療技術を駆使し、生存期間を限りなく延長させることを「延命」という。
だが「命」と「生」に一つの境界線を引くなら、これは延命というより、「延死」である。
人為的に死の時期を先延ばし、ただ肉体の機能を人工的に維持しているに過ぎない。――しかも本人の意志とは無関係に。
某病棟には、機械でつながれて生き長らえている人がたくさんいる。
彼らの大半は70~90代であり、ほぼ全員が認知症をきたしている。
彼らは生命を維持する為、週に三度、機械につながれる。
認知症の為、彼らの手はベッド柵に固定され、時には鎮静剤を用いて眠らせることもある。
この処置を中断すれば、彼らは間違いなく数日の間に死んでしまうため、どんな状態にあろうと、決められた曜日に、決められた時間だけ機械につながねばならない。
たとえ彼らが処置を苦痛に感じ、もがき、うなろうと、抑制帯で両腕をベッドに固定し、処置を断行せねばならないのだ。
もはや自己の認識も無く、赤ん坊のように「快」と「不快」の感情しか表さなくなった彼らにとって、「生きる」とは一体なんなのだろう?
死を先延ばすことに何の意味があるのだろう?
そんな事を考えている間にも、あちこちのベッドからうめき声が聞こえ、手足をばたつかせる音が聞こえてくる。
「暴れないで!」――そう言って、抑制帯を括り直す。じいちゃんの枯れ枝みたいな腕に強く強く布切れを巻きつけける。
万一、機械を引っこ抜かれでもすれば、大変なことになるからだ。
それが終わると、今度はこっちから「う~、う~」と苦しみもがく声。もはや意識も無い人に、「あともう少しだから、頑張ろうね」と声を掛ける。――訳も分からぬまま機械につながれ、死を先延ばしされた人に、「まだ生きろ」と励ます。……何の為に?
もはや自分を取り戻すことも適わぬというのに?
あなた達も、五十年前なら自然に死ねただろう。
だけど今はそうはいかない。
機械が死を先延ばせる以上、何もせぬまま死んでもらうわけにはいかない。
本人や家族の了承が無い限り、死んでもらうわけにはいかないのだ。
死が遠くなった。
人間としての、また生物としての、自然な死が一段と遠くなった。
死や病に対する恐怖が、死とも生ともつかぬ「おかしな生」を生み出した。
そして人間は、そのどちらも選ぶ勇気を有していない。
生きている間に、考えることもなくなった。
楽に死ねると思ってるのだろう。
*
かくして今日も機械は回り続ける。
生きることも死ぬこともできない人々を生かし続ける為に。
彼らはなぜ自分が機械につながれ、こんな苦しい処置を受けねばならないのかも分かっちゃいない。
それでもやるのだ。
今、死なせるわけにはいかないから。
*
医療技術を駆使し、生存期間を限りなく延長させることを「延命」という。
だが、ここに含まれる「命」の意味を定義できる人間が、いったいどれ程いることか。
「延命」というより「延死」――枯れ枝のような身体をベッドに括り付けられ、「う~う~」うなるじいちゃんたちの姿を見ながら、この言葉をずっしり感じる今日この頃である。
初稿:1999年1月27日 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より