エロスとプシュケの寓意 ~ギリシャ神話より
ある国の王と女王の間に三人の娘がありました。
皆、それぞれに美しい娘でしたが、わけても末娘プシュケの美しさは、美の女神アフロディーテにも引けをとらぬほどでした。
ところが、プシュケの思い上がりに腹を立てた美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)は息子エロスを呼び出し、プシュケに下賎でつまらない男に恋させるよう命じます。
エロスはさっそく甘い水と苦い水を琥珀の瓶に汲み分け、矢筒の先に下げて、眠るプシュケの側に舞い降りますが、プシュケの美しい寝顔をみるうちに、エロスは悪戯するのが気の毒になってしまいます。
そうして、ふとプシュケが目を開いた瞬間、エロスは誤って恋の矢で自分を傷つけてしまいます。
一方、王と女王は、プシュケに一向に花婿が現れないのを案じ、アポロンに神託を伺います。
しかし、そのお告げは、『プシュケは人間の花嫁にはなれない。未来の夫は、山上に住む、神でも人間でもない怪物だ』という恐ろしいものでした(プシュケを渡したくないエロスがアポロンに頼んで、偽の神託を告げさせたと言われています)
王と女王は神託に従い、泣く泣くプシュケを山に置き去りにします。
すると、西風ゼピュロスがプシュケを優しく抱き上げ、山の上の美しい宮殿へと運んでいきました。
夫は夜になるとプシュケの前に現れ、明けないうちに去って行きました。
夫は決して姿を見せませんでしたが、とても優しく可愛がってくれるので、プシュケも心から慕うようになりました。
しかし、プシュケは、一目夫の姿が見たくてたまりません。
「どうかお姿を見せて下さい」と夫に懇願すると、夫は答えます。
「僕の愛に疑いでもあるのかい? 僕はただお前が愛してくれさえすればいいのだ。僕にとっては神と崇めてもらうより、お前と同じものとして愛してもらいたいのだ」
そんな、ある日、プシュケの姉たちがやって来て、プシュケに言います。
「お前の夫はきっと恐ろしい怪物で、いつかお前を食べてしまうつもりなのよ。夫がすっかり寝入ったら、明かりを点けて、その姿を確かめるの。もし怪物だったら、その頭をすぐに切り落としなさい」
夫を信じきっていたプシュケも、姉たちにいろいろ言われるうちに、だんだん疑うようになります。
ある晩、夫が寝入ると、プシュケは小刀を持って、夫の姿を明かりで照らします。
ところが、そこに眠っていたのは恐ろしい怪物などではなく、白い翼をもった、この上なく美しい神様でした。
プシュケが夫の姿をもっとよく見ようと、明かりを近づけると、彼の肩に蝋が滴り落ち、エロスは驚いて目を醒まします。
彼はじっとプシュケを見つめると、白い翼を広げて窓から飛び出しました。
エロスの後を追って、プシュケも窓の外に飛び出しますが、翼のないプシュケは地面に落ちてしまいます。
すると、エロスは飛ぶのを止めて、泣いて悲しむプシュケにエロスは言いました。
「愛と疑いは一緒にいられないのだよ」
プシュケは昼も夜も夫を探し回ります。
そしてエロスの母であるアフロディテを訪ねると、女神は怒って彼女に言いました。
「あの子はお前に受けた痛手が元で、まだ病に臥せっているよ。お前がもう一度夫と一緒になりたいなら、私の言いつけを聞いて、うんと仕事をしなければならない」
アフロディテがプシュケに課した仕事は、どれも大変なものばかりでした。
プシュケは途方に暮れますが、他の神様たちが力を貸してくれたので、何とか片づけることができました。
それでもアフロディテの怒りは収まりません。女神は一つの箱を手渡して、彼女に言います。
「これを持って冥府の女王ペルセポネの所に行きなさい。病に伏せる夫のために、彼女の美しさを分けてもらってくるのです」
死を覚悟して冥府に向かったプシュケは、無事に務めを果たし、帰路につきます。
しかし、どうしても箱の中身が見たくなったプシュケは、言いつけに背いて箱を開けてしまいました。
箱に入っていたのは美しさではなく、冥府の眠りでした。
眠りに憑かれたプシュケは、道の真ん中に倒れてしまいます。
一方、すっかり傷が癒えたエロスは、女神の目を盗んで部屋の窓から飛び出すと、プシュケを探し求めます。
やがて眠りにつかれたプシュケを見つけると、エロスは眠りをかき集めて箱の中に閉じ込め、プシュケを軽く矢で突ついて目覚めさせました。
そして大神ゼウスの所に連れ立ち、二人を永遠に結び合せるよう嘆願します。
ゼウスは不老不死の霊酒をプシュケに授けると、言いました。
「これを飲んで神体となり、エロスと永久に結ばれるがよい」
神体となったプシュケには美しい蝶の羽根が生え、二人の間には「悦び」という名の娘が生まれました。
【コラム】 『蝶』は魂の昇華の象徴
エロスとプシュケの伝説は、「愛(エロス)が魂(プシュケ)を求め、永遠に結ばれる」という寓意を表わしたものです。
ギリシア語には、「愛」を表わす言葉が四つあります。
エロス(欲望の愛)、フィリア(友愛)、ストルゲー(親子の愛)、アガペー(神的な愛)です。
プラトンの説によれば、エロスとは「自己充足を求めて、自己を充たしてくれるものを無限に追求して行く情熱(パトス)」であり、「精神的な価値のあるイデア(価値、形相)を探求してやまない欲求的愛」とされています。
それは絶対的で無条件のアガペーと違い、自分にとって価値あるもののみを愛し、価値が無いものは愛さない、あくまで自己充足的な愛です。
エロスの愛(欲望)は、魂(プシュケ)と結びついて、初めて本物の悦びを得るということを、この寓話は説いています。
ギリシア語の「蝶」は「Psyche(プシュケ)」であり、「霊魂」を意味します。(英語のPsychic(精神的な)やPsychology(心理学)の語源。原義は“呼吸”、次に“魂”)
蝶がサナギから美しく変容するように、人間の魂も、蝶(プシュケ)のように、数々の困難で浄められた後、美しく生まれ変わって、永遠の幸福を得ます。
美術作品では、プシュケは蝶の翼がついた乙女で表現されています。
↓ この絵はプシュケがさらわれる場面を描いているので、白い翼の男性はエロスではなく、ゼピュロスです
愛の詩 ~愛の姿は見えないもの
エロス(愛)は、何処からともなく舞い下りて、
プシュケ(魂)を優しく抱く。
その姿は見えないけれど、愛はいつでもそこに在る。
ところが姿が見えないだけに、人は不安になる。
ついその存在を疑い、愛の姿を確かめたくなる。
そうして疑いの灯をかざし、その姿を確かめようとすれば、
愛はたちどころに飛び去ってしまう。
疑えば、愛は去り、
愛すれば、疑いは消える。
目には見えない愛を信じることの難しさ……
人はいつだって目に見える証が欲しい。
目で見て、手で触れて、
いつもその存在を確かめていたい。
目に見えないからこそ、心にしみるのだけれど
初稿: 1999/07/25 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より
エロスとプシュケに関する書籍
ギリシャ神話の本はたくさん出ていますが、絵画と合わせて知りたいなら、こちらの本がオススメ。
学術書のように堅苦しくなく、マンガ感覚ですらすら読めます。
登場する神々のイラストも可愛いし、ピックアップされている絵画も、美術ファンなら是非とも抑えておきたい名画ばかり。
これを一冊読めば、ギリシャ神話はもちろん、美術鑑賞の基礎的な知識も身に付きます。
【amazonレビューより】
ギリシャ神話を中心に、北欧・ケルト神話の主なエピソードをシンプルなイラストや漫画で表現してあります。
特に西洋のルネサンス周辺の絵画ではこれらの神話をテーマにしているものが多いので、それらもあわせて取り扱っています。
「あの絵のこの人物はこういう人なのか!」
「この絵のこんな虫一匹がこんな意味を持っていたとは……」ということになります。
ルネサンスの絵を見て「??」となっていた人や、「ギリシャ神話って複雑で読む気がしない」と思っていた人に読んでほしい一冊です。
ギリシャ神話のエピソードを元に、西洋絵画の名画を紹介。
解説も一つのテーマに数百字程度で、学術的ながら、非常に読みやすい案内書に仕上がっています。
【amazonの解説】
本書ではギリシャ・ローマ神話をはじめ、伝説・歴史・文学にいたる絵画の主題を網羅、物語の主人公たちは何をしたのか、その主題を画家はどう表現しているか、を「名画」と「物語」と「解説」で一目で確認できるように展開。主題を通しての西洋美術の理解に、美術作品を通しての西洋文化の理解に、展覧会や海外旅行に、美術を愛する万人必携の1冊。
ウィリアム・ウォーターハウスをはじめ、ラファエル前派の絵画に興味をもったら、この本がおすすめ。
様々な神話や伝説に基づいた、幻想的で美しい大人の絵本です。
水の女 溟き水より From the Deep Waters (〓.T.Classics)
ギリシア神話の本も数ありますが、読むなら岩波文庫のトーマス・ブルフィンチがおすすめ。
訳文が古くさいというレビューもありますが、古典文学の素養があり、クラシックな文体に馴染んでいるなら、これがベストです。
初回公開日 1998年11月24日