ベートーベンは楽聖である。私がベートーベンを好きになれないのは、野球のジャイアンツ、相撲の大鵬を好きになれないのに似ている。それは、すでにできあがった権威であり、ゆるぎない古典だからである。ダ・ダ・ダ・ダーン。「このように運命は戸を叩く」とベートーベンはシントラーに語っている。
だが、運命はノックしたりせずに入ってくるのではないか。と私は思っていたのだ。大仰な予告や前ぶれ、ダ・ダ・ダ・ダーンとやってくる運命のひびきは、運命そのものをつかまえた! と思いこむ傲岸さであって、ほんものの運命の力は正体をあらわすことなく、いつのまにか歴史を記述している。ベートーベンに独占私有される「運命」とは何の謂いぞ!
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しかし私にはいくつかのシンフォニーから共和主義を感じることなどはできない。あの、荘重な曲想の底を流れているのは、「音による支配」「楽器が生み出す権力」をさえ思わせる。
『ベートーベン』に関しては、全てに同意はできないけど、すでにできあがった権威であり、ゆるぎない古典だからという主張は理解できる。
クラシック音楽に限らず、古典とか名作とか言われるものには、感動と賞賛を強要する一面がある。「この名作の価値が分からぬお前は無知無教養」みたいな話だ。だが、人には作品との相性があり、何回読んでも退屈にしか感じられない本もあれば、途中で寝てしまう楽曲もある。古典だから、名作だから、『感動すべき』というのは、権威のファシズムであって、芸術ではない。人がそれを名作と感じるなら、無名の作家が書いたものでも、年に一冊しか売れない本あっても、名作に違いない。権威の格付けと感動は、まったく別物なのだ。
とはいえ、名作に関する定義が曖昧だと、商業主義や身内主義に則ったものでも名作となり得るし、カラスを白鳥と勘違いする人も出てくる。そういう意味で、見る目のある人による作品の格付けは必要だし、多くの見る目のある人が太鼓判を押すなら、それは揺るぎない名作なのだろう。
だとしても、格付けされた作品の、得も言われぬ威圧感は何なのか。
自由な表現たる芸術作品が、格付けによって、ファシズムに傾くのも皮肉な話である。
わたしがもし、ベートーベンをうらやむとしたら、それはただ、彼が聾者だったという一点にかかっている。「盲目には彼らだけの見る夢があるように、聾者にも聾者だけにしか聞けない音楽があることはすばらしいことである」
そして、こう締めくくろう。
「言葉を巧みに操れるのは素晴らしいことだ。一方、舌たらずにしか書けない、ユニークな詩の世界もある」。