妻とは社会的存在であり、互いに社会的責任を果たす義務があります。
同棲か、結婚か ~結婚とは女性の権利を守る社会制度である
メルマガ発行中、二十歳の女性から、こんな質問をされたことがあります。
「同性と結婚って、どう違うんですか? 私は今、留学中に知り合った彼氏と一緒に暮らしているんですけど、『結婚と大して変わらないね』といつも言っています」
同棲と結婚では社会的責任や法的立場が全く違うことを説明して、納得してもらったのですが、未婚女性には、社会制度としての結婚の重みはなかなか分かりづらいかもしれません。
私も独身時代、結婚に関するコラムを読んでいて、『妻とは社会的存在である』という言葉に衝撃を受けたのですが、自分が実際に結婚すれば、その意味がよく分かります。
車を買うのも、銀行口座の開設も、入院の手続きも、子供の養育も、何から何まで夫と妻は法的に一体。たとえ互いに愛想を尽かしていても、『夫』と『妻』である限り、法的立場は変わりませんし、学生恋愛みたいに、「飽きたから、どうでもいいです」という訳にいかないんですね。
一見、束縛に感じるかもしれませんが、社会的存在としての妻の権利が保障されているから、結婚後も安心して暮らせるのであって、もし法的に守られてなければ、もっと多くの女性が路頭に迷っているでしょう。
愛し合う二人が一緒に暮らすのに、あえて『結婚』という社会制度を取り入れるのは、相手に対する責任の表明であり、互いの法的立場を明確することでもあります。
「二人が楽しければいいじゃん」みたいに、結婚という制度を軽々しく考える人に誠意はありません。
結婚とは、パートナーに対して、社会的責任を果たすことです。
エルトン・ジョンの同性婚から考える結婚制度
数年前、世界的なシンガーソングライターのエルトン・ジョンが、長年の同性愛パートナーである45歳の男性と法的に認められた結婚式を挙げ、大勢のファンから祝福されました。(※ 2005年、映画プロデューサーのデヴィッド・ファーニングと、同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法(英国)で事実上の同性婚をした件)
これも単なるイベントではなく、相手に対して社会的責任をもつ意味が大きいと思います。
もし彼らが「愛し合っているだけで幸せ」なら、わざわざ結婚する必要はありません。
そこで『結婚』という社会制度を取り入れるのは、法的に守られるのと、そうでないのは、大きな差異があるからです。
エルトン・ジョンほどの大物になれば、財産も莫大ですし、楽曲の権利に絡む問題もあります。
いくらエルトン・ジョンの最愛の人でも、「法的に何ものでもない」なら、財産分与やその他の社会保障について、どれほど権利を主張しても、それが認められることはありません。
しかし、法的に認知されたパートナーであれば、その権利は保障されます。
いわば、エルトン・ジョンは、長年尽くしてくれたパートナーに対する感謝と責任の気持ちから、『結婚』を選択したわけですね。
一方、同棲はどれほど愛し合おうと、何年暮らそうと、法的には何ものでもありません。
口約束の借金と同じ、義務を果たす必要もなければ、相手を保護する必要もありません。
法的には、愛など、何の意味もないんですね。
そう考えると、女性に対して、何の責任も負わない、社会的に保護する気もない、カップルの美味しい部分だけ味わう「同棲」は虫がよすぎると思いませんか?
『彼女』という存在は、妻でもなければ、母親でもなく、妹でもなければ、友人でもありません。
切ろうと思えば、いつでも切って捨てられる、中途半端な存在です。
一緒に暮らして楽しいから、同棲で構わないと言う人は、もっとその事実を真剣に考えてはいかがでしょうか。
世界には同性婚の許可を待ちわびるカップルが大勢いらっしゃるそうですが、最愛の人に社会的責任を果たしたい気持ちには共感します。
※ このコラムは、エルトン・ジョンの結婚のニュースを受けて書きました。
初出は 2005年12月22日です。