映画『デビルズ・ダブル -ある影武者の物語-』 あらすじと見どころ
デビルズ・ダブル −ある影武者の物語− (2011年) - The Devil’s Double
監督 : リー・タマホリ
主演 : ドミニク・クーパー(ウダイ・フセイン / ラティフ・セヒア)、リュディヴィーヌ・サニエ(サラブ)
あらすじ
サダム・フセインの息子、ウダイと瓜二つの容貌を持つラティフ・セヒアは、突然、ウダイに拘束され、影武者になることを強要される。
整形手術を受け、ウダイと行動を共にするようになるが、そこで目にしたのは、やりたい放題の野蛮な振る舞いだった。
やがて、ラティフは、ウダイの情婦サラブと関係を持つようになり、身の危険を感じた二人はウダイの元を脱出するが、意外な落とし穴が待ち受けていた。
果たしてラティフはウダイの追跡を逃れ、人質となった家族を解放することができるのか。
見どころ
一人二役を演じたドミニク・クーパーの演技が素晴らしいのと、ウダイの狂いっぷりが印象的な作品。
ある程度は予想していたが、悪人というより堕落人という感じ。
いっさい同情の余地はない点が、かえって本作の切れ味をよくしている。
脚本も中だるみなく、変に政治的メッセージを持ち込まない点でも好感度大。
伝記映画というよりは、ウダイをモチーフとしたアクションドラマとして楽しむといい。
逃亡の過程はサスペンス要素もあり、見て損はない秀作。
映画『デビルズ・ダブル』が描く狂気
悪魔のようなウダイ・フセインと影武者の苦悩
影武者とは、重要人物の命を守るため、顔や体格の似通った人物を本物そっくりに仕立て上げ、常に影のように添わせて、敵の目をくらませる戦術の一つだ。
漫画や映画においては、しばしば本物の方が命を落とし、国の動乱を回避する為に、影武者が本物に取って代わる。
(隆慶一郎・原作/ 原哲夫・画の『影武者徳川家康』など)
そして、「本物の武田信玄」や「本物の徳川家康」を演じるうちに、一介の野武士に過ぎなかった男が大将の責務に目覚め、本物の正妻や愛人とも好い仲になって、偉大な指導者として国を統治する――という筋書きが主流だが、映画『デビルズ・ダブル −ある影武者の物語』は、「悪魔のようなウダイ・フセイン」に人生をめちゃくちゃにされ、悪行の中で葛藤する影武者の苦悩を描いた力作だ。
ウダイ・フセインは、2006年、戦争犯罪によって絞首刑にされたサダム・フセインの長男で、常軌を逸した蛮行から「ブラック・プリンス」と呼ばれている。
そのウダイに顔が似ているというだけで影武者を強要され、狂気の沙汰に巻き込まれたのがラティフ・ヤヒアだ。
想像を絶する悪行の中で、ラティフは何度も逃亡を試みるが、家族を人質に取られ、身動きが取れない。
しかし、ウダイの情婦サラブの協力を得て、二人は逃亡。ウダイに復讐を試みる――という筋書きである。
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『デビルズ・ダブル』は、彼の手記やインタビューを元に制作された非常に生々しい作品であり、何の予備知識もないままに見たら、その残虐さに吐き気をもよおすにちがいない。
もちろん、映画はあちこち脚色されているし、実際、ウダイがどんな人物だったか、日本人には知るよしもない。
こちら側に伝えられるフセイン一族の印象も、「歴史はつねに勝者の側から書かれる」という言葉もあるように、どこまで真実か分からない。
そうした歴史的真実を抜きにしても、映画『デビルズ・ダブル』は見応えのあるドラマだ。
「悪魔」としか言いようがない権力者ウダイに支配され、悪事の片棒を担がされながらも、己の良心に忠実であろうとするラティフと、彼を支える家族の姿は胸に迫るものがある。
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物語は、国の行く末を憂う青年ラティフが、何の事情も知らされないまま、ウダイの元に連行される場面から始まる。
ウダイの異常性は学生時代から知っていたこともあり、話し合うまでもなく、ラティフの答えは「No」だ。
だが、家族を人質に取られては逆らえない。
形成外科の手術も受けて、ウダイの影武者となり、二十四時間、行動を共にするようになったラティフが目にしたのは、金ぴかの豪邸にずらりと並ぶ高級車、一流ブランドのスーツ、時計、アクセサリ。
夜な夜な高級クラブで繰り広げられる乱痴気騒ぎに、女漁り。
スポーツ選手を拷問にかけた映像をコレクションにしたり、道行く女子高生を誘拐したり。
まさに悪魔の所業としか言いようのない蛮行の数々だった。
次第にラティフは良心の痛みに耐えきれなくなり、ついにウダイに反抗して、逃亡を試みる。
そんなラティフに対して、ウダイがとった手段は、ラティフの最愛の父に銃口をつきつけ、「自由か、父の死か」を選ばせることだった。
すべては神の御心のままに
全てを察したラティフの父親は電話口で言う。
(我々が無力で、直接手を下すことができなくても)
いつか必ず神の裁きが下る。
お前が自由を得ることで、私が死ぬことになっても、それは神のご意志だ。
インシャアッラー(すべては神の御心のままに)
キリスト教徒がそうであるように、イスラム教の人々も、イスラムの神を信じ、その大いなる知恵と導きに心を委ねて生きている。
作中でも、しばしば「インシャアッラー」という祈りの言葉が登場するが、絶対的な権力者で、悪魔のような人格をもつウダイに対し、ただ善良であるという以外、抗う術もない普通の人々が、最後に恃みとするのは、唯一、『神』のみである。
明日、自分が命をお年、悪魔のようなウダイが栄耀栄華を極めるとしても、すべては「神の御心のままに」。
己の不運を嘆いたり、復讐を試みたりせずとも、すべてを神の御心に委ねれば、魂の平安を得ることができる。
一見、戦いを放棄し、開き直ったようにも見えるが、これこそ無力な人間に授けられた最高の知恵であり、無限の強さでもある。
この世のことを全て、自らの手でコントロールちようとすれば、必ず不条理に打ちのめされるからだ。
ラティフの父親も、息子に復讐の鬼となるよりは、全てを神の御心に委ね、心安らかに生きるよう願った。
良い事も、悪い事も、神のご意思であり、神が善ならば、いつか悪は滅び去るからだ。
『デビルズ・ダブル』は、悪魔のコピーになれない人間の良心の物語でもあり(ウダイの取り巻きも含めて)、その基盤となるのは、インシャアッラー(すべては神の御心のままに)の知恵である。
それが、イスラムの神であれ、キリストの神であれ、人は時に立ち止まり、大いなる存在に心を委ねてみては如何だろうか。
80年代のディスコと『You Spin Me Round』
本作で印象的なのは、80年代のディスコブームを象徴するデッド・オア・アライブの『You Spin Me Round (Like a Record)』~レコードのようにぐるぐる回してくれが効果的に使われている点。
見る人が見れば、あー、分かる、分かると膝を叩きたくなる選曲です。
ここで後に恋人となるサラブを紹介されるのだが、「ベイルート 1の女」という文句が面白い。最高の女性の形容詞が、ベイルートNo.1 かぁ~、みたいな。
ラティフは、「どんな女と遊んでもいい。だが、ウダイが本気で惚れた女にだけは手を出すな」と忠告されていたが、結局、男女の仲になる。
ちょっとばかり、お色気あり、家族愛ありで、面白い作品だと思いますよ。
初稿 2011年12月30日