“一般に、「デザイン」と言えば、「絵や工作の得意な人が作る」というイメージがありますが、デザインの本質は『作り手の哲学』にあり、美しい色彩や使いやすい形などは、あくまで表層に現れた結果に過ぎません。
たとえば、誰かがコーヒーカップをデザインしたとします。
コーヒーカップの存在意義は「コーヒーが飲めること」ですが、一口にカップと言っても、ピンからキリまであって、安く大量生産された白色無地のカップもあれば、芸術にまで高められた色形の美しいカップまで、実に様々です。
一つ一つのカップをよく見れば分かると思いますが、見た目重視で、取っ手の小さなカップもあれば、カップの縁が微妙にカーブし、唇にやさしくフィットする種類のカップもあります。また、こだわり派のcoffee lover が好みそうなモノトーンのカップもあれば、若い女の子が「カワイ~」と思わず手に取りそうな色柄のカップもあり、それぞれが工夫を凝らして、存在感をアピールしています。
それら全て、作り手の哲学の集積といっても過言ではありません。
子供でも安全に保持できるカップもあれば、見た目は綺麗だけど、妙に持ちにくいカップもある。
テーブルに置くだけで、ほっこりした気分になるカップもあれば、色形ともにユニークだけど、どこか好きになれないカップもある。
それは、作り手が、そういうセンスと考えの持ち主だから、色形に表れただけで、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。
言い換えれば、この世に存在するあらゆる道具、建物、ポスター、しいては、町の作りまで、全ては作り手の精神の表れであって、その人となりと無関係な物は一つとして存在しません。
たとえスプーン一本でも、そこには作り手の思想が込められていて、我々は、色柄や形を通して、その思想に触れているのです。
当然のことながら、好ましい思想――ユーザーに対する思いやりや遊び心、責任感など――が、より一層、形として現れれば、それは色形を通して社会全体に広がります。家族でディズニーランドに行くと、大人でも愉快な気分になるし、京都の竜安寺に行けば、子供もどこかかしこまるのと同じです。
社会を変える一つの手立てとして、「好ましく感じられるもの(デザイン)を増やす」というのは、確かに一つの手立てと思います。
(もちろん、それとは真逆のものが存在しても構いませんが、そこはバランスとセンスの問題です)”