『沈潜』とは何か
私の好きな言葉に『沈潜(ちんせん)』があります。
①水底深く沈むこと。
②深く没頭すること。「研究に―する」
[岩波 国語辞典 第七版]
私は、この『沈潜』という言葉が使いたくて、小説の主人公を「潜水艇のパイロット」に設定したほど。
他にも理由はありますが、キャラクターの造形に大きな影響を及ぼしたのは確かです。
ところで、寺山修司はこんな言葉を残しています。
– 東京零年
「つらい気持ちを吐き出させて下さい」の時代だからこそ、「あえて口にしない」。
お互いの意見や気持ちが分かりすぎると、かえってやりにくくなる事もあるからです。
また、口に出すことで、自分ではすっかり解決したような気分になることもあるでしょう。(かえって聞かされた相手の方が苦しむこともある)
何でも意思表示したり、相手に伝えればいいというものでもなく、時には沈黙が複雑な感情を解きほぐし、過剰な興奮を鎮める作用もあります。
また、想像の及ばぬ部分を残しておくことで、かえって長続きする友情もあるのではないでしょうか。
記事にも書いているように、一般に、人は喋ったり、書いたりしている間、深くは考えないものです。
人と話したり、思ったことを言葉に綴ることで、気持ちや思考の整理にはなるかもしれませんが、自分の手持ちの駒の中でぐるぐる回っているだけ、自我の領域から解脱することはありません。
人と話すことで、何か閃いたとしても、それが明確な形をとるのは、友だちと別れて、一人になった時ではないでしょうか。
主人公のヴァルター・フォーゲルは、今風に言えば「コミュ障」、人とお喋りしたり、心を開くのが苦手です。誰とも信頼関係を築けないのではなく、そこに辿り着く前に、自分を見せることを躊躇し、相手が近寄ってきたら、負担に感じて逃げ出す。人間嫌いというよりは、自分を知られるのが恥ずかしいのです。
そんな彼の得意技は『沈潜』。
第三章『海洋情報ネットワーク』で、海洋情報部のメイファン女史にも次のように指摘されます。
「そうね――手伝って欲しいのはやまやまだけど、今は自分の問題に専念なさいな。下手に動くより、今は沈潜した方がいいように思うわ」
「沈潜」
「そう。あなたの得意技でしょう」
文字通り、自分の中に深く沈んで(潜って)、黙考する。
周囲の声も、損得も、執着も遮って、ひたすら己の中に埋没し、「何が誤りで、何が正しいのか。自分はどうしたいのか、何をどうすべきか」を探し求める。
その過程に、自省があり、気付きがあり、新しい道がある。
やみくもに動き回っても、他人の助言に答えを探しても、本当に大事なことは見えてこないものです。
今は一人で黙考することに耐えられず、すぐにつぶやいたり、訴えたり。
それで賛同が得られたら、そこで満足して、そこから先は考えないような風潮もありますが、それは一時の慰めや励ましになっても、根本的な解決にはならないでしょう。
『沈潜』は誰にとっても辛いものです。
沈潜している間は、誰にも理解されないし、誰も正しい答えなど教えてくれません。
じっと一人で考えるより、書いたり、話したりしている方が生産的に感じられるでしょう。
しかし、一人で考えている間にも、何かは確実に育まれています。
何故なら、自分と向かい合う勇気と孤独に耐える強さがなければ、到底沈潜はできないからです。
ある意味、沈潜そのものが、心の目を開かせ、真の強さを育むといえるのではないでしょうか。
『沈潜』に相当する英語もいろいろありますが(contemplation、recollection、など)、この場合、deep thought という表現が一番しっくりきます。
わーっと誰かに話したい時、あるいは発信したい時、一度、立ち止まって、沈潜してはいかがでしょう。
もしかしたら、本当の答えは、自分自身が一番よく知っているかもしれません。
【小説の抜粋】 沈潜と内省こそ人生の処方箋
恋人リズとの些細な行き違いから感情を爆発させ、恋人も、仕事も、信用も、何もかも失った主人公が、ようやく我に返り、ポルトフィーノと呼ばれる断崖の縁で過去を顧みる場面。
彼もこの海と同じだ。
全てが止まったように見えるが、心の中では生まれたり、悟ったり、日一日と変わりつつある。
どん底に落ちたというのに、目の前は不思議なほど清明だ。
喩えるなら、がむしゃらに突っ走っていたレーシングカーが壁に激突し、ようやく我に返ったような気分だ。
その代償は大きいが、今こそ本当の意味で立ち止まり、謙虚に内省できるような気がする。
物事が上手く行かない時ほど、人はがむしゃらに突き進み、力尽くで現状を変えようとしますが、車が故障したまま猛進しても、何も変わりません。
かえって、車を駄目にして、自分も、周りも、いっそう傷つけるだけです。
そんな時は、立ち止まり、振り返りしながら、自分自身のことを客観的に見直してみる。
哲学的には『沈潜』と言います。
潜水艇の如く、己の奥深くまで潜って、自分の至らぬ点や間違いについて、じっくり考えることです。
昨今は、ネットで気軽に愚痴をこぼしたり、他人に助言を求めたりできるせいか、「一人でじっくり考える」ということが苦手な人も多いですが、周りに自分の辛いことを撒き散らして、同意や共感を求めても、根本的な解決には至らないこともたくさんあります。
「私の車、故障してるけど、私らしくていいですよね。故障した車も有りですよね?」
「その通り。故障した車でもいいんだよ!」
「そっかー。じゃあ、故障したままで、いいや」
そして、車が故障したまま、公道を走ればどうなるでしょうか。
途中でエンストを起こして、大勢に迷惑をかけるかもしれない。
ハンドル操作に誤って、誰かを跳ね飛ばすかもしれない。
「故障した私らしさ」では通用しないこともあります。
ところが、手軽に理解や共感を得られると、そこで考えることを止めてしまいます。
もしかしたら、誤りを正す機会になったかもしれないのに、そのチャンスを潰してしまうんですね。
一人でじっと考えるのは辛いものですが、そういう時間が持てるか否かで、後々のことも変わってきます。
沈潜は、人を鍛え、本物の光明に導くものです。