土木は国家の礎 宮崎学の著書『談合文化』 ~日本を支えてきた『人』の力

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宮崎学の『談合文化』について

著者『宮崎学』と聞けば、「どーせ談合は必要悪、みたいな話でしょ」と思われるかもしれないが、本書は20世紀における日本的な談合システム――バブルから21世紀初頭にかけて、連日新聞を賑わせた談合事件から一般人が連想するもの――がいかに形作られ、産業界で機能し、国土の発展に一役買ってきたかを、江戸時代前の『村』や『自治機能』にまで遡って解説し、犯罪を生み出す背景や今後の展望について提言するもので、昨今の談合批判や法改正などに真っ向から噛み付く内容ではない。

法的に黒か白か、業界はどうあるべきかを断じる前に、一考してもらいたいのが、『土木こそ国家の礎』ということだ。

私もずっと以前はそこまで深く考えたことがなかったが、1995年、阪神大震災を経験した時に痛切に感じた。

あの日、コンクリート打ちっぱなし四階建てのワンルームの部屋も、三段ボックスが全て倒れ、TV台が一メートル近く移動し、電気、ガスもストップして、一瞬、何が起きたのか茫然とするしかなかったが、あの震度で、これだけの被害で収まったのは、建物のおかげと思っている。外観や間取りは好きでなかったが、ともかく頑丈なアパートで、電気やガスも供給がストップしただけで、修理が必要な箇所は全くなかった。一つ離れた町では、木造家屋が倒壊し、死者も出ていることを思えば、やはり建物に守られた感は大きく、地震国の日本では美観よりも何よりも『強度と安全性』が第一と痛感したものである。

その後、急ピッチで道路や線路の修復が行われ、私の周囲では予想以上に早く以前の暮らしが戻ってきた。事故直後の映像で、高速道路が完全に倒壊し、阪急電車の車両が落下しているのを見た時は、復旧に何年かかるかと絶望的な気分になったが、それも私の感覚では『あっという間』。一体、誰が、いつの間に――というくらい、魔法の手で再生された。

その時、つくづく思ったのが、日本の土木・建築は優秀ということ。

実際、世界レベルで見ても、高い技術水準を誇っているし、何より作りが丁寧。

私の居住国なんて、「真っ直ぐ測る」「ぴったり合わす」「平らに塗る」「しっかり嵌め込む」という事が分かってないのではないかと思うくらい雑だし、道路の舗装のお粗末さは車のサスペンションの寿命を縮めるほど。それでも何百年と家屋が保つのは、地震がないのと、低湿度のおかげで、もし日本のような地理条件なら、ワルシャワもクラクフも震度5で壊滅だろう。

実際、宮崎氏も著書の中で、阪神大震災と東北大震災の土木業界の違いを、就労人数、法制度、落札率、公共事業費といった点から明確に指摘しておられるが、いくら立派な復興案を提示したところで、実働部隊となる土木業者が動かなければ、何事も絵に描いた餅だ。人手がない、重機がない、高度技能者がない、石橋が崩落しても、それを修復する人材がなければ道路は分断されたまま、物資も届かず、住人も脱出できず、二重のパニックになるだろう。

次に大きな災害が起きても、すぐに自衛隊の皆さんがやって来て、土木業者が道路や橋の修理をしてくれる……と暢気に構えている人も多いが、1995年の阪神大震災から2013年の東北大震災の間、たった18年のうちにも、これだけ大きなダメージを受けている業界が、十年先、二十年先の大災害にも同じように対応してくれるものだろうか。それでなくても超高齢化が進み、若い人も3Kの工事現場よりオフィスワークを好むような状況である。1980年代から90年代にかけて、○○ブリッジや○○タワーのような高機能かつ大型建設を手がけた腕のいい職人が今後も続々と育って、日本の建設業を根底から支えてくれると思ったら大間違い。移民やなんやを投入して頭数を揃えたところで、技術やモラルが追いつかない面もあるわけで、うちの居住国の手抜き職人みたいに「歪んでも気にしない」「数ミリの隙間は許容範囲」みたいなのが増えたら、安全性や耐久性など到底期待できないだろう。

今が便利で快適なら、十年先、二十年先も、便利で快適に暮らせると思い込んでいる人もあるが、交通や通信や配管など、インフラを支える人手があってこそ。

橋やトンネルが老朽化しても、大雨で土砂が押し流されても、台風で落石や大木が国道を塞いでも、人的にも不足するようでは、日常の暮らしなど一瞬で崩壊するということを、もっと真剣に考えた方がいいと思う。

『談合文化』にはそうしたことも指摘されているので、ピックアップする。

談合文化 日本を支えてきたもの (祥伝社黄金文庫)
談合文化 日本を支えてきたもの (祥伝社黄金文庫)

– amazonの商品説明より

“アウトロー”宮崎学が「談合問題」に斬り込んだ最新刊。大胆にも「談合は悪いことなのか」と問いかける。 たしかに入札談合は、「不公正・不透明」「利権の温床・税金の無駄遣い」で「悪」とされ、日本社会から徹底的に排除された。しかしその結果、何が起きたか。ことは建設業者の倒産だけにとどまらない。建設の現場で談合を知り抜いた著者は言う。 《かつての「談合システム」が持っていた「負の側面」を考え直すという理性が、この国では今いちばん求められていることであり、「民衆の利益」を守り、この国を再生させる唯一の道であると私は考えている。》 《現場で当事者が具体的に問題に取り組んで、協議によって解決に取り組むのが日本流の「相互扶助」社会の優れたやりかただ。それが日本社会では、どこでもおこなわれてきた当たり前のやりかただったのだ。その典型が談合文化なのである。》 ――果たしてこれは“暴論”だろうか?

私も談合に関する本はけっこう読んでますが、戦国時代にまで遡って日本の村社会の本質を説き、明治維新、戦中・戦後、高度成長期、小泉構造改革に至る流れを分析した上で、今後の展望まで提示したものは、そうないです。また業界に偏った話ではなく、当時の庶民なら誰でも知っている人物や事件を引き合いに出して、なぜこうなったのかを分かりやすく解説している点も秀逸。また、東北大震災の復興が遅れている理由を、土木業の観点から指摘しているのも一読の価値があります。近代史や現代史を振り返る上でも参考になる一冊です。

日本の製造業の強みは技術力

日本の産業、特に製造業の最大の強みは、技術力だった。技術力といっても、日本が強いのは、最先端技術の開発力や、エリート・エンジニアの技術力では必ずしもなかった。それだったら、アメリカやドイツのほうがずっと強かった。日本が強かったのは、先端技術よりも中間技術、研究所で研究開発される理論技術よりも生産現場に即して応用開発される実践技術だった。そして、そういsた中間技術・実践技術のレベルの高さを支えていたのは、車にカネを稼ぐためだけではなく、使う人たちのためにものづくりをするという職人・技能労働者の意識であった。

だが、それは、職人や労働者がいまより優秀だったとか、がんばっていたとかいうことでは、必ずしもない。日本社会全体がそうだったのだ。日本の中間的・実践的な技術力を支えていたのは、日本社会全体の価値観、氷塊式だったのだ。そして、いま、それが全面的に崩壊を進めているのだ。だから、それは単に産業界の問題ではない。日本社会の基層において、重大な崩壊現象が進んでいることを示しているものにほかならない。

昨今、よくいわれている「モラルの低下」というものだ。それは単に従事者の人間性の問題ではなく、突き詰めれば、『自尊心』にかかわることである。
自分がモノみたいに扱われて、どうしてモチベーションが上がるだろう。
世間から見下され、金銭的にも、社会的にも、何も得るものがないと思えば、意欲も削がれるし、責任感もなくなる。

人間が一本のボトルを締めるのは、「ルールで決まっているから」ではなく、「そこに誇りを感じるから」だ。

いいものを作ろう、安全性を高めよう、美しく仕上げよう。

高い職業意識は、ルールに強制されるのではなく、己の内側から発露するものだ。その源になるのは、人間としての誇りであり、社会に認められる手応えであり、未来への明るい展望である。

「手抜き」よりも恐ろしいこと

■「手抜き」よりも恐ろしいこと

私は、解体屋をやっていたことがあるから、建物を見ると、「こいつを解体するときはどうするか」「どの程度の手間がかかって、どの程度の余録があるか」などと値踏みするのがクセになっている。≪中略≫ あるいは、壁をたたいてみて、「これはかなり鉄筋抜いとるな。地震でも起きたらヤバイな」とわかる手抜きビルなどが散見される。(中国にて)

だが、これらは、必ずしも設計ミスや手抜き・偽装ではない場合がある。そして、そうではないからこそ、むしろ恐ろしいのだ。手抜き・偽装といったものは、そうやってはいけないことは充分に承知しているのだけれど、諸般の事情からやむをえずやってしまうという性格の行為である。だから、確かに危険だけれど、決定的な危険まではいかないのが普通である。さすがに、そこはセイブするのだ。鉄筋何本抜いたらほんとにヤバイかは、やるほうがわかっている。それが手抜き・偽装である。

ところが、ミスかどうかも考えず、手抜き・偽装をしているという意識すらなく、「これだけのコストで、これだけのものを建てるんやったら、こうするしかないやろ」ということでやられているケースがいちばんこわいのだ。

≪中略≫

(大阪府建団連合会長・北浦年一氏いわく)いま、ペンキ三回塗らなあかんとこ二回ですませとるのは、手抜きやなくて、コストに迫られてやむをえずやとることや。これが続いて、「やむをえず」という意識が薄れていったら、コスト優先で品質はどうでもええというところまで行く可能性はあるな。中国で起こっとることは他人事やあらへん」
「手抜きというのは、ああ悪いな……だけど、このくらいやったら、なんとかなるやろ……と意識してやっとることや。その意識がなくなったら、もうそれは手抜きどころか、根本的な間違いや。いま、日本でもそういうケースが増えてきとるよ」

そうならないようにする歯止めはどこにあるのか。むきだしの競争、ともかく勝たなければならん、あとはどうでもええという状態に、これまで歯止めをかけてきたのは、もともとは、組織された資本主義による競争の規制だったのではない。ただ勝つだけ勝ってどうするんや、おれらなんのためにものをつくっとるんや、という実際にものづくりに当たっている職人や労働者の思い、そこからの抵抗が、歯止めになってきたのだ。

現場を知らない人、物を作った経験がない人ほど、優れた技術や製品はキノコのように理屈から生えて湧いてくるもの、と思い込んでいるフシがある。
確かに、車にしても、ビルににしても、土台となる設計があって、理屈があるわけだが、製品として完成する過程には必ず『人間の意思』が働く。
プラモデルでも、設計通りに組み立てれば、誰でも見本通りに仕上げることができるが、「この部分は弱いから接着剤を多めに使おう」「この主翼はもう少し傾斜した方が見映えがいい」といった、作り手の創意工夫が加わることで、より頑丈に、より美しく、完成される。「ちょっとした接着剤の違い」が製品の個性であり、作り手の心意気なのだ。

しかしながら、合理性重視の画一的なルール、画一的な手法、画一的な評価では、創意工夫も失われる。なぜなら、創意工夫とは、外的な圧力によって育まれるのではなく、本人の拘りや美意識、責任感から芽生えるものだからである。

ところが、物作りの経験がない人は、創意工夫は理論やルーチンの延長と思い込んでいるので、高度な知識を詰め込んだり、業務内容や規則を見直すことが現場の活性化につながると勘違いする。だが、やる気のない者、何の生き甲斐も感じない者に、専門書を100回読ませても創意工夫は生まれない。それより、『オレがやらねば誰がやる』みたいな使命感やプライドの方がはるかに良質なものを生み出す。実際、黒毛和牛を使った工場経由の餃子より、叔母がスーパーの合い挽き肉で作った餃子の方が美味しかったりする。皮のもちもち感、微妙なニンニク醤油味は作り手の気合いや自負によるところが大きいからだ。

安売り競争が建設業界から人を滅ぼす

「よりよいものを安く」というと、よさげに聞こえるが、それは消費者、利用者に判断材料、判断能力が充分あることを前提にしての話、それがない状況のもとで、製造者がよい品質と適正な価格を提供できるようにする条件づけが前提として必要なのだ。

<中略>

ビルを建てようと思って、施工業者から見積もりを取ったら、A社、B社、C社は一億前後の価格を出してきたのに、D社だけ五千万と安かった。そしたら、施主はまずD社がおかしいと思うのが封通だ。どういうわけか問いただして、納得しなければ、選択対象から外す。ところが、最近の競争入札では、まずD社が選ばれる。競争の基準が単純化されてしまってアホみたいなことになっているから逆立ちしてしまうのだ。

「(前述の北浦氏いわく)わしら下請けからすると、施主様ではなくて発注元が絶対やからな。元請けが『これで請けてきたんやから、これでやれ』いうたら、やらなならん」
これは自由な契約関係とはいえない。こういう関係がずっと定着していたところで、自由な契約が成り立つことが前提になっている自由競争、それも価格一本槍の競争を強いられたら、どうなるか。それを、現在の建設業界の状況はよく示している。
これは自由競争ではない、と私は思う。価格という基準を唯一のものとして押し立てて、多様な選択を事実上排除してしまって、何が自由な競争か。それは、結果として、ただただ選択の幅を狭める方向に収れんしていくしかないのだ。

≪中略≫

そして、このような競争の幅の収れんは「人」を滅ぼしていく。建設業界から「人」が消えていく。

医療にたとえてみよう。

A病院、B病院、C病院では、ある病気の入院治療に5万円の価格設定をしている。

ところが、D病院は、同じような治療を、2万円で提供するという。

普通に考えれば、薬代、技術料、人件費などを合わせて2万円で済むはずがない。どこかおかしいと疑うはずだが、それが正義でまかり通り、D病院の一人勝ちになってしまう。

真に快適な入院治療を提供するには、職員のスキルはもちろん、清潔なベッド、温かい食事、精度のいい検査機器など、多くの設備と物資を必要とする上、観葉植物や娯楽といった配慮も欠かせない。本当の意味で『自由競争』というのは、「当院の食事はメニューも豊富で、カフェテリアも充実しています」とか「当院ではシーツが汚れたら速やかに交換し、患者さまが気持ちよく療養できるよう配慮します」とか「当院では週に3回、足浴や全身清拭を行います」といったサービス合戦で、その上で、4万、5万という価格設定がなされる。より高度なサービスが求める人は10万円を払っても、そういう病院に行けばいいし、財布事情が厳しい人は、プラスアルファのサービスは無くてもいいから、きっちり治療してもらえる病院を選ぶことができる。病院の優劣は、多様な選択肢によって決定されるものだ。

ところが、何を提示しても治療費5万円は高すぎる、2万でやれ、という話になれば、当然、どこかでコストを圧縮しなければならない。人件費を削る、シーツ交換の回数を減らす、食事内容を乏しくする、等々。投薬や包帯交換といった目に見える部分で大差なくても、サービスは当然低下する。万年寝不足で不満たらたらの看護師が増えれば、気遣いで何かしようという意欲も失せるし、それは回り回って、医療事故や人手不足閉院といった形で利用者に降りかかるわけだ。

北浦氏は「競争は進歩の原理のなかでおこなわれるもんや。いま建設業界でやっとるのは競争と違う。言葉でいったら天秤や。天秤請けだ。右が下がったり左が下がったりするけれど、それだけで全体はちっとも進歩せん。進歩の原理の中で自由に競争したら、全体が上に上がる。だから、本当の自由競争をするなら、ルールをちゃんとしないといけないゆうことや」と説いている。それは全ての業界に共通して言えることである。

人格的結合の喪失が現場を荒廃する

この業界は、基本的に親方・子方関係や徒弟制で、人から人へ技と経験が継承され、人と人との結びつき、「組」的結合で仕事が維持されてきた世界だった。そこには封建的といわれる負の要素もあったが、人格的結合がしっかりしているのが大きな強みだった。

それが1980年代から崩れだした。たとえば、鳶職で見ると、それまでは鳶の職人を三人とか五人とかかかえて、組の若頭が手配師になって、組として周辺から労働力を集めて、下請をするという小さな鳶の組がたくさんあった。それが、かつて丸太で組んでいた足場にビティ足場というパイプ組み立て式の足場が出てくると、鳶の組が仕事を請け負うのではなくて、このビティ足場のリース屋が、鳶作業の請負をして、労働力を集めて下請けをするという関係になってしまった。

こうなってくると、鳶の労働者は、親方・兄貴と人格的に結びついて、そこが単位になって仕事をしていくのではなく、直接は作業をしないリース会社にバラバラに雇われて管理される日雇い労働者になってしまう。職人が機材をもっていって作業をしていたのが、機材が職人を連れてきて作業させるようになってしまった。

それでも、90年代までは、まだ職人同士のつながりもあり、職業意識もあった。それが、この七、八年でバラバラになってしまったという。親方は職人を雇えず、いわゆる「一人親方」になってしまう。技は継承されず、人格的結合は失われる」

≪中略≫

でもあの時(建設業界がいちばんひどかった90年代半ば)、はまだ「人」がいた、と北浦たちは言う。「現場」はまだしっかりしていた、というのである。だから、状況がいかに悪くても、再生の展望があった。上がしゃきっとしていれば、下からよくなっていく見込みがあった。それがいまは望めない。むしろ、「現場」が崩れてきている。「人」がスポイルされてきている。それは、根本を探れば、いまはとても「人」を重視できるような価格では仕事ができないあkらで、外国人労働者を連れてきて、安く働かせなければできないような落札価格の水準になってきているのが原因である。国内市場が大半の建設業さえもが産業空洞化に向かっているということだ。

それに加えて、前章でもふれたように、職人の技術なんか落ちてもいい、だれでもできるように仕事を標準化すればい、というのが発注元であるゼネコンの考え方である。北浦は、「あの人らは、いい職人をつくらなくてもいい、誰でもできる金太郎飴にしたいという。そんなふうになるわけがないといっても、そうさせるというのだから、どうしようもない」と溜息をつく。装備を近代化して機械に頼ってだれでもできるようにして、仕事をマニュアル化すればいいというわけだ。そういう考え方は、まさに「人が物を使う」のではなくて、「物が人を使う」思想である。これが現場を荒廃させてきたのだ。

これも様々な業界で起きていると思う。

私も90年代のリストラブームの経験者だが、あの時、にわかに起きた「再構築と合理化の嵐」の異様さは今も忘れられない。それまで当たり前のように行われてきた業務が合理化の名の下に縮小、もしくは削減され、それは手順や物品に限らず、人員整理にまで及んだ。猫も杓子も「合理化」とか「コスト削減」といえば、錦の御旗のように正義でまかり通り、誰も何も言い返すことはできなかった。そして、それまで聖域とされていた、人命に関わる分野まで、合理化やコスト削減が持ち込まれ、「質の充実」よりも、「とにかく頭数を揃えればいい」という価値観に変わってきたのは、暗い未来しか感じさせなかった。

あらゆる事業の基礎は「人」なのに、手順さえ示せばやるだろう、マニュアルさえ整えれば安全だろう、合理化で全て上手くゆくと考える経営者は得てしてそういう考えなのだ。お金が要るから、従業員は黙って働くけども、馬鹿らしくなれば、みな一斉に手抜きを始めるし、機会があればすぐに辞めてしまう。後輩をじっくり育てようとか、お客さまの為に何ができるか考えようとか、前向きな気風も失われ、最低限の業務しかやらなくなるんだね。すると表面的には順調だけれども、水面下は穴だらけという事態になり、職場の結束も非常に脆くなる。でも表面的には平常どおりだから、経営者も何も気付かず、いつそれが露呈するかといえば、事故、人手不足、サービス低下、取り返しのつかないところまで落ちてからなのだ。

昔ながらの人的結びつきは、現代にそぐわない部分も多々あるだろう。

だが、現代だから失われた――というよりは、失われた状態が現代というべきではないだろうか。

機械化できる業務もあるが、人手に依る部分も圧倒的に多い。

そして、技術というのは、単に手先や地頭の問題ではない、本人に好奇心や向上心がなければ、何千回、同じことを繰り返しても、上達しない。

北浦氏はいう。「国家試験に合格して、長年やってきたいわゆる一級、二級のいい職人が20%ぐらいおるんです。そういう有資格技能者を一万人集めて、それを残そう。それさえ残ったら、また建設業は生きていける。けれど、それもなくなったら、もう建設業界は終わりです。本当にいい職人がいなくなったら建設業は滅びます。技術屋みたいなのは代わりがいるけれど、職人の代わりはできない。百姓と一緒です。一度やめたら、いくら田んぼを耕しても元にもどらない」

構造改革が団結力を奪った

建設業にかぎらず、日本の産業は、かつて培われた中堅技能労働者の遺産をくいつぶして延命しているのが現状だと思う。そこをないがしろにしている現状は、日本産業最大の強みの一つを失うものだ。

そして、いま北浦たちが払っている努力は、下から人中心への組み替えという意味をもっている。北浦たちは、このネットワークを通じて、多重下請関係を二次まで縮約して、一次・二次下請が建団連に結束することを考えており、さらには、下請けが発注者・設計者に施工上の提案・意見・協議ができるシステムをつくろうとしている。

私が「いまこそ談合をやれ」としきりにいっているのは、価格協定をしろという意味ではない。官庁とゼネコンの強大な強大な権力のもとで、バラバラになって屈服したり、ダンピングに走って自分で自分の首を絞めたりするのではなくて、北浦たちがやっているように、業者が団結して、人と人の結びつきのなかから仕事をつくっていくやりかたをとりもどせ、ということなのだ。そして、それこそが、アホな構造改革で土台にヒビが入ってしまった日本社会を下から建て直すことにつながるのだ。

本書は、ここまでが前置きで、その続きに、「小泉浩三改革の何が間違いだったのか」「日本の資本主義、自由主義と、欧米のそれとは性質が異なる」「談合の起源――戦国時代から江戸時代にかけて機能していた村社会の自己統治、そのプロセスとしての寄合(村会議)や村掟」「近代日本の官製資本主義社会」「談合を変えた田中(角栄)政治――政治家の集金システムや続議員」「自治型談合から癒着型談合へ」等々、中世から現代に至るまでの政治と建設業の移り変わりが分かりやすく解説されている。

私も欧米社会を直に経験してみて、日本人とは「自由」「個」「政治」「仕事」に対する考え方が大きく異なるし、制度だけ持ち込んでも、日本社会では同じように機能しないという氏の主張には共感する。21世紀に入ってからの急速な規制緩和について、「米国は、日本の政治家を黙らせる水戸黄門の印籠みたいな存在で、脇を固めた助さん格さんが日本の官僚だった(企業法制の専門家・郷原信郎)」とうい発言を引き合いに出し、「リーダーシップを取り返そうとしている官僚が、アメリカをバックとして使いながら、財界と統一行動をおこなっていたわけである。「外圧」が、実は「内圧」の偽装形態だったという場合がありうるのである」という分析も興味深い。

何が引き金になったにせよ、建設業がまともに機能しなくなり、その弊害は単に業者の倒産や人手不足にとどまらず、災害の復旧やインフラ整備など、国民の生活に大きな影を落としつつある。今後十年、二十年も、「電話一本で、道路の陥没や水道管を直しに来てもらえる」という便利が続く保証もなく、今住んでいるマンションだって、品質的にどこまで確かなのか、誰にも分からないのである。基準は満たしていても、プラスアルファ、創意工夫の部分で。

もちろん、氏が提言するように、昔ながらの「親と子」の人的結びつき、親役が水面下で話をとりまとめ、子らに上手く利益配分するような手法が、業界にとって最善かどうかは分からない。たとえ、それが上手く機能しても、親役が完全に正義の人とは限らず、談合の輪に入れてもらうには、それなりのものを用意するとか、楯突く者は外されるとか、ドロドロした部分は付いてくるからだ。それが菓子折程度の話なら看過もできるが、何百万、何千万、公金に絡むようなケースなら、誰がその動きを監視し、抑制するのか。その透明性や自浄力も気になる。中道をいくのが理想とは思うが、人間、金と権力には勝てないものだから。

地震、台風、豪雨、噴火など、日本は地理的リスクが高く、それゆえに建築や土木の技術も著しく向上した。

だが、それは単に理論や設備の勝利ではなく、現場に携わる人の創意工夫の結晶でもある。そして、その源となるのは、現場に携わる人々のモラルや意欲であり、安定した暮らしや先の見通しがあってはじめて、人は前向きになれるものだ。

状況に応じて制度や手法を変えるのは必須かもしれないが、『人』という根源を蔑ろにして本物の発展はあり得ない。

本著を読んで、つくづく感じたのは、もはや取り返しのつかないところまできている、ということ。

老朽化するインフラや天災で壊滅した市街を前に、職人のありがたみを痛感しても、一度離れたものは二度と戻ってこないのだ。

2022年3月30日、逝去されました。
私が子供の頃は、グリコ・森永事件の手配書の『キツネ目の男』にそっくりで、実際に取り調べを受けたという事実を知って、そっくりかえったものですが、また一人、昭和の論客が鬼籍に入られて、あの時代を知っている世代には淋しい限りです。ご冥福をお祈りします。
作家の宮崎学さん死去、76歳 「キツネ目の男」と疑われたことも(朝日新聞)
誰かにこっそり教えたい 👂
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