コラム『批評における傾向と対策』
SNSの発達に伴い、誰もが評論家になれる時代が到来しました。
作品の感想について、手軽に参照できるようになった反面、難癖みたいな書き込みを目にして、不快な思い人も少なくないと思います。
ここでは、1994年に『ぴあ』から刊行された『バレエワンダーランド』の批評に関するコラムを紹介しています。
皆様の参考になれば幸いです。
感想と批評とクレームの違い
まずは、コラムの執筆者の口上より。
残念ながら、誌上に執筆者の署名が存在しない為、ここでは省略させていただきます。
芸術には批評がつきもの。バレエの批評も新聞や専門誌に掲載されている「全くその通り!」という意見から「本当にこれ、私の見たあの舞台?」と首をひねってしまうものまで、さまざまな見解が入り乱れている。
自分と全く違う意見でも、読んだ以上はなんとか役に立てたいもの。
批評をかしこく利用するための読み方をお教えします。
恐らく、多くの人が戸惑うのは、「感想」と「批評」と「クレーム」がごっちゃに存在するからでしょう。
一見、同じに見えますが、「感想」と「批評」は似て非なるものだし、「批評」と「クレーム」も異なります。
書いている本人でさえ、その違いを認識してないケースも多く、単なる感想を『批評』と称して、いっぱしの批評家になった気分でいる人も少なくありません。
ちなみに、当方は三者の違いを次のように定義します。
○ 批評 資料や他者の意見などを鑑みて作品の良し悪しを冷静客観に分析・考察する論文。
○ クレーム 反社会的な表現や時代考証無視の設定などに対するエクスキューズ。
感想は、「ここが面白かった・つまらなかった」という印象ですから、何をどう綴ろうと本人の自由です。
面白くないものを無理に「面白かった」という必要はないし、世界中が絶賛しても、その良さが分からない人もいるでしょう。
でも、感想だから、問題ありません。
「人がどう思うか」は、作者にも、誰にも、コントロールすることはできないからです。
その点、批評は、感想とは似て非なるものです。
自分は退屈に感じても、世間が絶賛するなら、どこかに良い点があるはずだし、世間が絶賛するものにも綻びはあります。
そうした疑問や発見を、過去のデータや文化的資料、他者の意見や世間一般の反応から深く考察し、自身の感想を超えて、一つの結論を導き出すのが『批評』です。
単に批判したり、星を増減だけでなく、読者や視聴者に新しい見方を示唆し、文化のさらなる発展の為、未来のファンを開拓するのが批評家の仕事です。
一方、クレームは、感想とも批評とも異なり、客観的な誤りを指摘するものです。
たとえば、明らかに人種差別や容姿差別の表現、時代考証を無視した設定(衣装や生活様式)、史実と異なる箇所(年号や人物名)など、社会的に訂正すべき点は真摯に受け止めなければなりません。
こうした指摘は、作品の良し悪しや、面白い・退屈といった感想とは異なるものです。
この三者を混同して、感想なのに「批評」と勘違いしたり、クレームなのに「個人の感想」で切り捨てたりするから、皆が不快な思いをして、作品の本質とはかけ離れた所で炎上するんですね。
書く側も、読む方も、いちいち、これは感想、これは批評と、ラベリングする訳にいきませんから、そこは個々のセンスによりますが、難癖を付ける前に、それを意識することで、対応も大きく違ってくるのではないでしょうか。
批評も制作のひとつである
制作者と批評家は、太古の昔から仲が悪いと相場が決まっている。
ただし、このけんか、批評家の方がいつも分が悪い。
「文句があるなら、自分で作れ」
こうなると批評家は一応グーの音も出ないからだ。でも、負けずに言う。
「批評とは君たちつくる人に負けず劣らず、ひとつの制作なのだ」と。
たしかに人がつくったものにウンタラカンタラ批評家は言うのだが、それは制作者がたとえば自然の素材を使って自分の意図を表現するように、批評では<既成のもの>を、素材にする、という違いに過ぎないのだ。
ネット社会で炎上が起きやすいのは、批評文化が存在しないからだと思います。
昨今、批評とされるものは、『お気持ち』が大半。
仲間内で、ヨイショし合って、顧客をぐるぐる回す。
いんちきみたいな搾取サイクルに皆が目をくらまされ、ちょっとでも批判しようものなら、皆でアリのように寄ってたかって叩き潰す、そういう構造が出来上がっているように感じます。
いわば、有力な一人が「イイね」と言えば、万人が一斉にうなずき、そこには批評も、分析も、存在しない。
一方的な刷り込みがあるだけの、洗脳マーケティングです。
そういう人たちが、勇気ある反論に対して口にする言葉が、『文句があるなら、自分で作れ』。
どう考えても、卑怯ですね。
相手の能力が無いのを知って、口封じするわけですから。
こういう逃げ場を塞ぐ反論は、反論にもなってない、ただの恐喝です。
「文句があるなら、自分で作れ」と言い出せば、アートに限らず、ビジネスも、教育も、あらゆる分野で思考停止が起きるでしょう。
どれほど優れた作り手でも、これを口にする人は、相手の論点を反らして、逃走するタイプです。
「私のアートは素人には理解できない」という強がりの方が、まだ可愛げがあります。
批評することは、制作することと同じ、芸術的行為である。
批評することは、制作することと同じ、芸術的(文学的)行為である。
しかしだからといって、制作者と批評家がまったく同一座標に立つと思ってはいけない。
作者には敬意を払うこと、そして、戦略的にも、批評させてもらっているという感謝の念と、どこかうしろめたい思いを、むしろ忘れずに大切にしておくこと。
「どこかうしろめたい思い」というのは言い得て妙です。
批評家に、いかにセンスや知識があろうと、オリジナルを創出する作り手には敵わないところがあるからです。
批評家は、いわば他人さまの作品の上に、自己の足場を作るわけですから、「ネタ(飯の種)を与えて下さって、どうもありがとうございます」と最初に断りを入れるのが礼儀でしょう。
しかし、いちいち、そのような断りを入れていたら、堅苦しくてしょうがないので、「心の中では作り手に感謝しています」ということを前提に批評を展開します。
批評とは、ただ感想を書くだけではない、様々な資料や意見を元に、一つの見解を導きだす為、創作と同じくらい労力を要します。
それが、批評もまた芸術的行為と呼ばれる所以です。
そして、批評家に愛があるかどうかは、作り手にも、読み手にも分かります。
愛なき評論はアーティストを殺す ~淀川長治氏の映画解説より~にも書いているように、人と芸術に対する愛なくして、真の批評は成立しないのです。
批評することは、生きることである
でもやっぱり批評する方だって大変なのだ。なぜならその批評内容によって「大きなことを言ってるわりには、結局あの程度の読みしかできないわけ」と、おのれの力量が、白日の下にさらされて試されてしまうことになるのだから。
そこで第二の結論。
批評することは、生きることである。
少し大袈裟すぎるんじゃないかと笑われるかもしれないが、しかし批評とはやはり全人的な生死をかけた行為だと思う。
いや、それくらいの覚悟がなければ、そもそもが制作者に対して、失礼でしょ。
作品の良し悪しをめぐって炎上するのは、その程度の読みしかできない「なんちゃって批評」が溢れかえっているからでしょう。
ちゃんと批評している人もあるけれど、多くは、個人の快・不快をぶつけ合って、退屈しのぎをしているだけ。
作者はもちろん、業界全体、しいては芸術全般の未来まで見据えて、真面目に評論している人の方が少数です。
amazonで、どや顔で、しょうもない書き込みをしているレビュアーもそうだけど、自分は偉そうに批評してるつもりでも、見る人が見れば、知識もセンスも無いのが丸わかり。
これほど知性や感性をさらけ出す行為もまたとありません。
批評を生業とする人が「批評とは生きることです」と断言する所以です。
でも、たまに素晴らしいレビューも散見するので、amazonは楽しい。
レビュアーにも一つ星とか五つ星とか付ける機能があればいいのに。(そしたら、ちっとは、自分の高慢が身にしみるのではないか)
<正しい批評>というものはない
<正しい批評>というものは、ない。
まして、制作者がいちばん正当な批評家であるなどという幻想は捨て去るべきである。来日した某バレエ団の評価について、”若々しく歯切れよくさわやかだ”と言えば、かたや音をためてドラマティック・リリコをじっくりと表現できないから、単にテンポアップしているだけという反論もおこる。
所詮、批評は好きか嫌いかの趣味判断を根底にしているので、絶対的な結論なんて出そうとすることがそもそもおかしいのである。
極論すれば、99人が白、1人だけが黒と言ったって、なぜに黒いと思うのかを納得させてしまえるなら、それはそれで一向にかまわないのだということになる。
昨今は、スポンサーや有力者に対する忖度が欠かせないので、批評というより「提灯記事」に成り下がっているものも少なくありません。
そしてまた、権威に弱い大衆がそれを鵜呑みにし、「大勢」の側に付きたがるため、ますますまともな評論が機能しない悪循環です。
また、「なぜに黒いと思うのか」を主張しても、1人の側であれば、即座に袋だたきにされ、その人が何を言わんとするのか、考えもしません。
あるのは、賛同者の数だけ。
少数の意見は存在しないも同然です。
少数派が口をつぐむようになれば、いよいよ業界の崩壊も近いのではないでしょうか。
批評のおもしろさとは、<読み>の切り口のおもしろさにある
批評のおもしろさとは、結局、<読み>の切り口のおもしろさにある。
書かれている内容の結論そのものよりも、そこへもっていく過程にこそ真骨頂があると。
したがって、文章のレトリカルなうまさや展開の妙味で読ませる文章技術も大いに関係して、内容空疎でも、いや、もっと言ってしまえば、とりわけ外国者の場合には、作品を実際に観ていなくても、他人の書いた批評を巧みに使いさえすれば、ごまかし方如何によって、それない(それ以上)の格好はつくのだといえる。
一方で、「文章のレトリカルなうまさ」や「オサレな横文字」で読み手を煙に巻く人は少なくありません。
一般には理解しがたいウンチクや横文字を駆使することで、「何でも知ってる俺」を演出し、作品の趣旨がいまいち読み取れず、首をかしげる読者や視聴者に対して、「俺の作品の良さが分からないのは、お前が無知だからだ」と切って捨てるタイプです。
そして、それを芸と勘違いしています。
上記のような『職人芸(プロフェッショナル)』と異なるのは、意味が分からず立ち尽くす読者や視聴者に対して、納得させる力があるか、否かでしょう。
たとえば、世間が絶賛する『ロード・オブ・ザ・リング』三部作について、私は若者とは異なる見解を持っています。
私も20代であれば、若者と一緒になって絶賛したかもしれませんが、それなりに年を取り、魔法も、エルフも、信じる気持ちをなくした家庭人となった今は、フロドの弱腰に唖然とさせられ、サムこそ真のヒーローでは……と思うことしきりです。
そんな意見は、ごく少数かもしれませんが、高度なレトリックを駆使して、誰か一人でも納得させることができたら(たとえ、それが間違いでも)、批評として成立するわけですね。
それを悪用すれば、無知なファンを相手に、過った価値観を刷り込むこともできます。
どう考えても駄作なのに、「全米が泣いた」とか、「○○監督も絶賛」とか、客寄せの為なら、いくらでも嘘八百なキャッチコピーを思いつく。
そういう意味で、誰にも忖度しない、100%ピュアな意見は存在しないし、絶対的に正しい批評も存在しない。
どんな優れた批評も、突き詰めれば、本人の好き嫌いだったり、マーケティングだったり、いろいろです。
だからこそ、現代の読者や視聴者が、いわゆる「プロの批評」など全く当てにせず、素人が思いのままに書き綴ったamazonレビューやSNSの書き込みを参考にするのでしょう。
組織的なレビュー商法が成立する所以です。
いまや作品批評と並行して、「やらせレビュー」も見抜かなければならない、読者や視聴者にとっては非常にハードルの高い時代です。
批評の原点は、本物と偽物を見分ける鑑識眼
だからこそ、目が利くかどうかは、批評することの原点とせねばならない(第五の結論)
所詮批評とは趣味判断であるから、たで食う虫も好き好きでよろしいが、本物か偽物かは見分けられる鑑識眼を持たなくてはならない。
もちろん何が本物かの判断基準も、絶対的ではない。ならば結局のところ、すべては批評家自身が、自分の好みを自分の中で指定できているかどうかにかかっているのだ。その上で「あれは嫌いだけど、すごいね」と言えるようになるのだから。
批評がつまらない理由の一つは、非常に狭い比較の中から、それだけを異様に絶賛するからでしょう。
洗濯機の製品レビューに喩えたら、パニャソニックと西芝しか使ったことがないのに、「パニャソニックの品質は世界一」と絶賛するようなもの。
一般人の感想なら、それでもOKですが、プロのレビュアーなら、市場に出回っている主要製品を見比べ、洗濯機の重要なパーツにフォーカスして、それぞれの使い心地やデメリットを伝えるのが真の評価というもの。
バレエや映画、小説なども同じ、AとBしか読んだことがないのに、Aをべた褒めされても説得力がないですし、そもそも一流とされる作品に触れたこともないのに、どうして作品の良し悪しが分かるのか。
たまたま、目に入ったものを「面白い」と言うだけなら、小学生にもできます。
そうではなく、プロの批評家を目指すなら、まず第一に自身の見る目を養うことが肝心です。
批評にはデータの呈示も必要
さて、舞踊は、誰もが容易にその作品に接して鑑賞できるものではない。ここに芸術批評の中での舞踊批評がおかれた特殊性(さらいにいえば舞踏ジャンルそのものの特異性)が生じる。しかも言葉によらない分、伝達がむずかしい。作品を観たという事実だけで(作品を観ていない者への責任は本来ならばかえって重くなるはずなのに)、それを特権かすることもできるのだ。
そこで、第六の結論。
舞踊批評には時に、記録データとして、できるだけ客観的な作品記述も要求されることになる(これは作品に接した読み手にとっては、えてしておもしろくはないけれども)。
でも作品記述もなく、そのくせその感動の根拠は曖昧なままに、いかに自分が感動したかを、とうとうと述べられるよりは、真摯な読者の精神衛生上はよろしいだろう。
このコラムが執筆されたのは、1994年、ITが普及する前なので、「記録データとしての作品記述」が非常に重要だったはずですが、今は劇団の公式サイトや芸能メディアなどで、制作の背景やプロフィールを手軽に参照できるため、以前ほど重視されなくなっているような気がします。
また、動画配信サイトでも、舞台のプロモーション映像が無料公開されている為、一期一会のコンサートの意義も、以前とは大きく異なります。
現代の作品記述の役割は、「ネットで手軽に検索できる普遍的な情報」から、「玄人筋しか知り得ない、よりディープでマニアックな情報」に変化しています。
それが逆に作用して、現代の読者を満足させるには、情報の濃度より、「いかに自分が感動したかを、とうとうと述べられる能力」に比重が傾いているのではないでしょうか。
他と差別化を図ることが、結局は、個人の感性や表現力に回帰している点が、現代批評の面白いところだと思います。
【コラム】 一億総批評家時代の幸せ術
昨今は、一億総評論家の時代。
公演のあったその日のうちに、感想がネットを駆け巡り、amazonの星の数がカスタマーの印象を大きく左右します。
今や誰もが一言居士で、時には、それが揺るぎない世論となり、大企業さえ揺るがすほどですから、プロの批評家にとっても、作り手にとっても、やりにくい時代だと思います。
ただでさえ、作り手の真意を理解されるのは難しいのに、見当違いの意見や感想でも、瞬く間にネットで拡散してしまう今、作り手も批評家も遠慮して、観客におもねるようなものしか作れなくなっているのが現状でしょう。
その結果、ますます面白みに欠け、観客の不満が増大する悪循環です。
誰もが自由に意見や感想が言える時代は、芸術の質を高めるどころか、規制や画一化をもたらし、作り手を窒息させているような気がします。
そんな時代、作り手も、オーディエンスも、幸せに生き残るには、より強い自我と流されない勇気、高度な知性とセンスが必要なのは言うまでもないですが、一番効果的なのは、案外、「見ざる、聞かざる、言わざる」の沈黙の行ではないでしょうか。
巷の情報は、全てシャットアウトし、『作品と己』だけ、1体1でとことん向き合うのです。
面白いものを見たり聞いたりすると、人はすぐに誰かに話したい、あるいは、皆はどんな風に感じているのか知りたい、という欲求に駆られますが、そうした欲望や衝動を断ち、山ごもりするわけですね。
どんな分野もそうですが、有名人が頷き、大勢が同調することが、必ずしも真理とは限りません。
現場を知っている者から見れば、眉唾な話もたくさんあります。
それよりも、自分が感じたり、考えたりしたことを、沈黙の中で熟成し、確信がもてた時点で、初めて文章化してみる。
下絵を描き、構成を書き出してみる。
この「待ち」の姿勢によって、知力も、気力も、ずいぶん鍛えられると思うのです。
何故なら、人は一度吐き出してしまえば、そこで満足しきって、それ以上、考えることもなければ、省みることもないからです。
ディズニー映画『レミーのおいしいレストラン』で、料理評論家のアントン・イーゴも言ってましたが、「厳しい批評は、書く側にとっても、読む側にとっても楽しいものだ」というのは、本当にその通りだと思います。
安全な場所から他人をこき下ろすのは楽しいし、またそれを読むのも痛快です。
でも、その先に、どんな発展があるのか。
せいぜい、一時、溜飲を下げるだけ。
ふと我に返れば、一篇の詩さえ作り出せない自分に空しくなるだけだと思います。
愛なき評論はアーティストを殺します。
誰もが気軽に意見や感想を述べられる時代だからこそ、作品といっそう深く静かに向かい合う姿勢が大切ではないでしょうか。
初稿 2019年11月13日