どんな偉大な作家も半分しか書くことはできない ~寺山修司の論談より

心の中、あるいは頭の片隅に、何かアイデアを抱えていても、「恥ずかしいから」「まだ中途だから」「素人だから」「時間がないから」、等々、様々な理由で、表明しない人は少なくないと思います。

しかし、誰にも言わず、形にもしなかったら、それは最初から存在しないのと同じこと。

いくら頭の中に素晴らしいストーリーを思い描いていても、実際に文章にしなければ、名作には成り得ません。

自分一人が名作気分でも、他人に読まれない作品は、存在しないも同じことなのです。

寺山修司が次のような言葉を遺しています。

ぼくはどんな偉大な作家も半分しか書くことはできないという考え方なんです。あとの半分は読者が作るのでね。読者に想像力がなかった場合、つまらない小説にしかならない。だけども作家が全部書くという幻想が文芸評論家の中にある。世界の閉じ方を論じるのですね。ぼくは、作者の作った半分の世界と読者の補完行為との関係がどういうふうに成り立つかというところに批評の生成があるべきだと思う。

上記に対して、幻想文学研究科の松山俊太郎がこう答える。

作者の部分は半分までゆかない。まあ二割だね。

これは文芸に限らず、サービスでも、工業製品でも同じだと思います。

たとえば、車のメーカーはこう考える。

「100年に一度の名車ができた。我が社の車は世界一だ」

でも、名車かどうか、判断するのはユーザーであって、メーカーではありません。

たとえ、相対的に優れていても、ユーザーが実際に使ってみて、初めてその製品の価値が分かります。

メーカー半分、ユーザー半分、たとえ一流メーカーの車といえども、製品として完成するのは、使う側が納得してからだと言えるでしょう。

そう考えれば、閃いた段階、あるいは作っている最中に、これは名作だの、駄作だのと、分かるはずがないですし、作り手が決めるものでもありません。

ゆえに、最初から結果を恐れて引っ込めたり、取りやめたりするのは、非常にナンセンスというか、出さないアイデア(作品)は存在しないも同じこと。その一言に尽きます。

本作では、建築・土木に関しては素人のヴァルター・フォーゲルが、海洋都市の未来を変えるアイデアを胸に秘めているにもかかわらず、自分で自分のアイデアの価値が信じられず、いつまでも胸の底に秘めたまま、問題を先送りします。

笑われるのが怖い、(自身のアイデアに)責任を持ちたくない、成し遂げる自信が無い、理由は様々です。

それに対して、リズが力説するのが「アイデアの対極は無」です。

他より劣っているとか、誰に比べて能力がないとか、そんなことは関係ありません。

どんなアイデアも、表に出してみなければ分からないからです。

優劣を測る以前に、どこにも表明しないアイデアは存在しないのと同じことなのです。

誰かにこっそり教えたい 👂
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