他人のことばかり気にしている人へ
このページを開いたあなたはいま、夫や恋人に尽くしすぎています。そして、自分の幸せを放棄しています。何とかして、いまの状態から脱却しなければなりません。そのためには、「自分の幸福を築き上げるのは自分である」という事実を胸に刻み込んでください。
相手に尽くしすぎていると、相手の欲求ばかりを優先し、自分の欲求をまったくかえりみなくなります。
「彼が幸せなら私も幸せ」と言う人がいますが、そんなことを言っていたら、決して幸せにはなれません。たとえ夫や恋人であっても、他人を幸せにできる保証などどこにもないのですから。おまけに、他人の幸福を優先するためには、自己を否定し、自分の望みも無視しなければなりません。自分の好きなこと、したいことはすべて我慢して、相手の世話をやきはじめ、「私はやさしくて寛大な人間なんだわ」と勘違いするようになります。そして、「他人を優先しないような人間は意地悪でわがままなのよ」という考えにとりつかれます。
しかし、相手に尽くしすぎることこそが、もっとも危険で厄介な問題なのです。
夫婦や恋人同士が、二人とも自分より相手を優先しようとする場合もあります。双方がまず相手を満足させようとするのです。そして、そのあとは相手が自分を満足させてくれるはずだと思い込むのです。
なんという複雑でねじれた関係でしょう?
なんだってわざわざ、互いに相手の願望を推し量り、それに応えようとするのでしょう? 自分の願望を素直に認め、どうすれば望みをかなえることができるかを考えれば、それですむ話なのに。
もちろん、理性がひとかけらでもある人ならば、いくら相手から、「自分を殺して、オレに尽くせ」と強制されたところで、応じるわけがありません。自分の人生でもっとも大切なのは自分であることが、よくわかっているからです。賢い人ならば、常に自分を尊重し、相手に協力はしても、自分を偽るような行動は決してとりません。
さあ、もう他人にばかり目を向けるのはやめましょう。自分自身を見つめるのです。自分が感じていること、望んでいることをはっきりさせてください。相手に尽くすのをやめ、自分の望みのものを手に入れる努力を始めましょう。
たとえそれで誰かが怒り、苦情や文句を言ってこようと、気にすることはありません。自分に正直に、わがままになりましょう。
これからは自分に尽くすのです。
自分自身を尊重するのは勇気がいることかもしれません。しかし、それだけが幸福になるための唯一の道筋なのです。
出典 : これからは自分に尽くそう ~他人のことばかり気にしている人へ 『恋に揺れるあなたへ 56の処方箋』より
【コラム】 自己犠牲は恨みや憎しみを生みやすい
ある人にとっては、「わがままになること」も非常に勇気が要ります。
元々、わがままな人にとっては、自己主張することも、我を押し通すことも、ごく当たり前のことなので、それが出来ない人を不思議がりますが、優しい人や遠慮がちな人は、何でも先回りして、相手の気持ちや都合を考えてしまうので、些細なことも先に言い出せなくなってしまうんですね。
それを長所ととるか、短所と見るかで、大きく違ってきますが、上述のように、「他人を優先しない人はわがまま」と恨みがましい気持ちになるのであれば、もっと自分大事にに生きた方がいいのではないかと思います。
日本の集団行動でも、似たような例はよく見聞きしますね。
「私は我慢してるのに、あの人たちだけ、好き勝手に楽しんで!」みたいな。
たとえば、飲み放題の宴会で、どれほど飲み食いしようが、カラオケで盛り上がろうが、その人の自由です。
自分も楽しみたければ、同じように飲食すればいいのに、変なところでこだわって、自分は美味しい料理に箸も付けず、飲食を楽しんでいる人を非難するんですね。
その人にしてみれば、「大勢が食事しているのだから、周りに気をつかって、控えるべき」という考えなのかもしれませんが、寿司も、刺身も、各自に行き渡るよう、十分な量が用意されているのなら、自分の取り分ぐらい楽しめばいいし、刺身は苦手な人が残した分を、刺身の好きな人が倍ほど食べても罪にはなりません。
要は加減の問題で、周りの状況を見て、余裕があるならば、自分も思いきり飲食を楽しめばいいのです。
確かに、遠慮する人がいるから、上手く回っている物事もたくさんあります。
しかし、それも状況によりけりで、「私はこんなに我慢してるのに」と恨みがましい気持ちになるなら、それは「余計な気遣い」と言えるのではないでしょうか。
その当たりのさじ加減は非常に難しいですが、他人の食欲と同じように、自分の食欲も大事と、ちょっと厚かましいぐらいに考えれば、程よい加減も分かってくると思います。
想像力に富んだ優しい性格が災いしないよう、上手に生きる知恵が大切です。
Codependence 相手の為にならない自己犠牲はやめる
本章の原題は、Codependenceです。
codependenceには、「共依存」という意味があります。 [ジーニアス英和辞典第5版]
共依存とは、『大辞林』によると、「アルコール依存症など、問題を抱える家族がいる場合、面倒をみ続け、相手に必要とされることを自己評価のよりどころとして、その関係に依存する状態。コディペンデンシー。コーディペンデンシー」とあります。
邦題では、「自分に尽くす」と表現されていますが、「(相手の為にならない)無駄な自己犠牲はやめる」と解釈してもいいですね。
おかしな話ですが、救済者は、犠牲者なくして成り立ちません。
たとえば、カウンセラーは、心に問題を抱えた人がなければ成り立たない職業だし、教会や神父も、人類全体が神のように賢いなら必要ないでしょう。
どちらか一方が、もう一方を手助けする場合、「手助けすること」が存在意義になり、「彼は私なしに生きられない」という考えに陥ることがあります。
最初は善意としても、「彼を助ける私」が存在意義になるので、「問題のある彼」なしには、自分の人生が成り立たなくなってしまうのです。
そうした心理的な罠を断ち切るのは容易ではありませんし、自分と同じように出来ない人を恨みがましい目で見るようにもなります。
自分が「相手のため」と思っていることは、本当に相手の救いになっているのか。
自分がいても、いなくても、幸せになる人は幸せになるし、不幸な人はそのまんんま、あなたの自己犠牲とは何の関係もないのではないか。
時には立ち止まって考えることも大事です。