曙光と落日 廻る光の哲学とニーチェ

東向きの部屋に移り住み、昼夜逆転の生活をするようになってから、夜明けを目にすることが多くなりました。

私はそれまで『日の出』というものを見たことがなく、いつも頭上で燦燦と輝く太陽しか知らなかったのですが、初めて夜を破る曙光を見た時、胸にしみいるような感動を覚えたものです。

朝の太陽は、山間を薄紫に染めながら、ゆっくり、静かに昇ってくる。

生まれたての光は、弱々しいながらも希望にあふれ、無垢なまでに透き通っていました。

それは微かだけれど、新しい日の始まりを告げる美しい光だったのです。

*

私に『曙光』という言葉を教えてくれたのは、これもまたまたニーチェです。

ドイツ語で、Morgenrote 。( rote のOはウムラウト・・します)

それまで攻撃的で、批判的な論調の多かったニーチェの思潮が、新たな境地に立った時、ニーチェは書き上げた本のタイトルにこの名をつけました。

彼ももがき苦しんだ末、真に創造的な自己の哲学を見出した時、『曙光』を見たような心境だったのでしょう。

それまで怨念に取り付かれたような彼の著書も、この一冊でかなり雰囲気が変わり、『曙光』の名にふさわしい自由で嬉々とした内容になっています。

やがてその光は『ツァラトゥストラはかく語りき』に結晶しました。

*

そして、この『曙光』と対になるのが『落日』です。

今にも落ちそうな陽に、哀れを感じたことはありませんか?
西日の強さにうんざりさせられたことはありませんか?

私はどうしても『沈む陽』の気持ちが分からなくて、西の空を燃えるような赤や黄金に染める太陽に、何度も問いかけたものでした。

もう落ちると解っていて、どうしてそんな強い光を放つの?

まるで落ちたくないと叫ぶように――
もう一度あの高みに昇りたいと焦がれるように――
沈む陽は強烈な光を放つ。

それはこの世への未練であり、生への執着であり、最後の悪あがきのように見えました。
潔く落ちることのできない、哀れな叫びにも見えました。

そうして、昇ることも沈むこともできずに、地平線の上に漂っている――それが私にとっての『沈む陽』だったのです。

でも、ある時、気付きました。
あれは嘆きの光ではなく、最後の瞬間まで精一杯輝こうとする、命の輝きなのだと。尊い意志と情熱の光なのだと。
だから見る者を強烈に射るのです。
最後まで世界を照らそうとして。

沈むと知りながら、なお光を放つ――
その尊さが私には解らなかった。
だからあの輝きが美しく見えなかったのだと今は理解しています。

私の好きなバレエ漫画『SWAN』で、主人公の女性ダンサーが失恋した時、沈む陽を見ながら、こう心でつぶやく場面があります。

『 陽が落ちる――
だけど またすぐ 陽は昇るわ―― 』

何にでも変化があり、終わりがあるように、昇った陽もいつかは沈むのが定めです。
その定めは誰にも変えられないし、時が来れば、この世界に別れを告げなければなりません。
だけど陽はまた昇るように、その光は受け継がれ、新たに生まれ変わります。
そして同じように世界を照らし始めます。
それを知っているからこそ、陽は最後の瞬間まで力強く輝くことができるし、静かに落ちて行けるのでしょう。

陽が廻るように、光もまた永遠に受け継がれてゆく。

その命の連なりを、曙光と落日が教えてくれているような気がします。

初稿:1999年

誰かにこっそり教えたい 👂
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