子育てに関する数ある言葉の中で、私が一番好きなのが「そんな自信たっぷりに育てられたら、子どもだってたまらんさ」という台詞です。出典は、人気漫画家、吉田秋生さんの出世作『カリフォルニア物語』です。
本作は、離婚歴のある大物弁護士の父親と、品行方正で成績優秀な兄に反発し、カリフォルニアの高級住宅を飛び出した青年ヒースが、単身ニューヨークに渡り、都会の人間関係を通して成長する物語です。社会や人間を斜めに見ながらも、どこかに突き抜けていこうとするヒースの姿にとても共感する内容でした。
前述の台詞は、高校生ヒースの反抗にほとほと手を焼いた父親が、旧友とバーで飲み交わしながら、「あれの考えていることは、さっぱり分からん。いったい何が気に入らないのか……父親としての自信をなくす」と呟いた時、父親の完璧主義をよく知る旧友が口にする言葉です。
初めてこの作品を読んだのは中学生の時でしたが、深く胸に突き刺さるものがありました。私自身、親への反抗心が芽生えてきた頃だったので、余計で心に響くものがあったのかもしれません。
確かに「自分の育て方は絶対に正しい」と信じて疑わない親の下にいると、息が詰まりそうになるし、親自身、何も省みず、「悪いのは、お前」と頭ごなしにやられたら、傷つきもします。
思春期を振り返ってみれば、私は親に完璧な人間像など期待してませんでしたし、それより遊んだり、笑ったり、楽しい思い出の方が大事でした。
親の心の中では、いろんな葛藤があったのでしょうけど、それを一切表に出さず、自分たちの迷いや動揺を見せまいと頑なな態度を取られると、子どもの目から見れば、「親業をやっている」いるように映ります。表面的な上下関係は維持できても、心の触れ合いからは程遠く、上辺だけで付き合っているような感じです。
それよりも人間として接して欲しかった。
親として堂々とされるより、悩んだり、落ち込んだり、しくじったり、奮い立ったり、人間としてありのままの姿を身近に感じる方が親しみも湧くからです。
親といえど一人の人間、悩んだり、躓くのは当たり前です。
だからといって、すぐさま失望したり、軽蔑することはありません。人間として、必死に闘っていることは幼子にも分かります。子どもが親に幻滅するとしたら、謝りもしないし、感謝もしない、オレは偉いんだと虚勢を張って、自分をことさら大きく見せる時ではないでしょうか。
子どもだって、親の間違いや弱点に共感するものです。
自分の方針を疑いもせず、自信たっぷりに育てられたら、子どもだってたまりません。
自信たっぷりの親はなぜ子供を苦しめるのか ~親から子へのパワーハラスメント
補足です。
子育てにおいて、人間としての自信が大切なのは言うまでもありませんが、この場合の「自信たっぷり」は、「自分の育児方針を信じて疑わない」と考えて下さい。
なぜ、そういう態度が子供をおかしくするかは、職場に喩えれば明白です。
もし、自分の放心を信じて疑わない上司や同僚に囲まれて仕事をしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
何を進言しても受け入れられず、疑問を感じても頭ごなしに否定される。
いわゆるパワーハラスメントに他なりません。
自己というものを完全に否定された子供はどうなるのか。
鬱になって、退職や通院に追い込まれるブラック会社の社員と同じです。最悪、この世に居場所をなくして、自死に追い込まれるかもしれません。
そうなっても、まだ親は子供を追い詰めている事に気が付かない。
むしろ、自分に対する確信を強め、それに従わない子供をますます締め付けるようになります。
社員が文句を言えば言うほど、ますます高圧的になっていくパワハラ上司と同じですね。
自信たっぷりの親は、我が子が自分と同じようにやれないのを不思議がる
では、なぜ親は自信たっぷりになるのでしょうか。
一つには、自分がそのやり方で成功したという確信があります。
特に勉強や就職がそうです。
一日十時間以上の猛勉強で一流大学に合格した親は、子供も一日十時間以上勉強すべきだと思いますし、士業で成功した親は、子供も士業に就くべきだと考えます。例外は認めないし、失敗も許さない。
上記の「カリフォルニア物語」でもありましたが、ヒースのお父さんは弁護士としては非常に優秀で、上の子の教育(ヒースのお兄さん)には成功していることもあり、なぜか弟のヒースだけが反抗的で、毛色が違うことを理解できません。そういう偏った物の見方が原因で、奥さんにも離婚をつきつけられるのですが、それでも自分が悪いとは思わないし、なぜ相手が怒っているのかすら理解できない。それもこれも、努力と勤勉で現在の地位と名誉を勝ち取った成功体験と、上の子は理想通りに育った経緯がある為です。
そこで相手の言い分に心を開いて(この場合は次男のヒース)、自分の過ちを正せばいいのですが、自信たっぷりの親にはそれが出来ません。
自分の方針を変えることは、これまでの自分の生き方を誤りと認めることであり、自己の存在そのものを否定されたような気分になるからです。
パワハラ上司が絶対に自分の過ちを認めないのと同じです。
俺はこのやり方で10億の売り上げを達成した。だから、このやり方が絶対に正しいのだ。そして、俺の始動を受けたお前にもできるはず。
確かに親や上司の時代には、そのやり方が正しかったかもしれませんが、社会情勢も価値観もどんどん移り変わりますし、ライオンがウサギに狩りの仕方を教えても、上手くいくはずがありません。ウサギにはウサギの好物があり、ウサギの体格にあった餌の取り方が必要だからです。
でも、その違いを認められず、「自分が、自分が」と押しつけるのは、我が子を愛しているのではなく、自分の気持ちしか見てないからでしょう。
ある意味、我が子を愛しているのではなく、「いい子を育てた自分」が大好きなのかもしれません。
我が子そのものより、「いい子を育てた自分」が大事 ~道で転んで泣いている子供の膝の痛みより、周りから親としてどのように見られているかの方が気に掛かる~
子供そのものより、「いい子を育てた自分」が大事な親は少なくありません。
たとえば、子供が道端で転んで泣いた時、我が子を愛している親は、「あらあら、痛いわね、可哀想にね」と子供の打撲に対して心を痛めますが、いい子を育てた自分が好きな人は、「こんな所でギャン泣きされたら、だめな母親と思われる。早く黙らせなきゃ」と考えます。
あらあら痛いわね、もう大丈夫よ、と声かけするのも、早く泣き止ませて、周りから『デキる母親』と思われたいから。心の底から子供の痛みを思いやり、励ましているわけではありません。
だから、その励ましは子供の心に響かず、むしろ「ぐずぐず泣いているお前は駄目な子」という負のメッセージとなって子供の心に刷り込まれてしまうのです。
こういう親にとって、子供の個性は煩わしいものでしかありませんし、欠点は自分のマイナスと考えます。
「物忘れが多いと、社会に出た時に、いろいろ苦労するよ」と心配するのではなく。
「物忘れが多いと、親の管理はどうなってるのかと、私が責められる」と考え、子供を厳しく取り締まるわけですね。
言葉で説明しなくても、子供には、親の愛情がどこにあるか分かります。
子供自身ではなく、「いい子を育てた自分」、あるいは「このやり方で成功した自分」に主点があれば、それは子供にとって慈愛でもなんでもなく、ナルシズムでしかありません。
道で転んで泣いている子供の膝の痛みより、周りから親としてどのように見られているかの方が気に掛かる。
そうした心の傾向に気付いたら、子供の痛みや苦しみに気持ちをフォーカスして、「こうあるべき」に囚われていないか、自問自答して下さい。
自信たっぷりな親は、いずれ子供の自尊心を脅かし、心の死に追いやるものです。