一つ屋根の下に住めば、身内同然になるとか、ずっと経済的だとか、いろいろ理由を挙げたのだが、洗濯屋が遮って言うには、
「そいつはわしにはとても出来ない。わしが白くしたものを、あんたは煤で黒くするだろう」
似たもの同士でないと決して共同作業はできない、ということをこの話は解き明かしている。
イソップ寓話集(岩波文庫)
これは仕事のみならず、人間関係にも当てはまる。
短気と呑気が一緒に仕事をしたら、必ずといっていいほど齟齬が起きる。
呑気に短気の気持ちは永久に分からないし、短気は呑気のペースにはなかなか合わせられないものだから。
それでも、やらねばならぬ。
互いに、互いの短所は目をつぶり、互いの長所を活かして、業務を回してゆく他ない。
ある意味、仕事そのものは、大した負担でないのだ。
それよりも、足を引っ張る同僚や、とろすけの後輩、やる気の無い上司や、口だけ達者な先輩の方が、よほどストレスだろう。
炭屋と洗濯屋が、それぞれ善人であっても、仕事でパートナーを組むには適さないこともある。
無理に一緒にすれば、たちまち、洗濯物は汚れて、双方の間で喧嘩になるだろう。
ところで、仕事といえば、能力の問題と思われがちだが、能力は高くても、低くても、芸能・スポーツみたいに特殊な分野を除いては、成否を決める決定打にはならない。
それより、「誰と働くか」の方が、はるかに重要だったりする。
新人のトロスケも、懐の深い上司にじっくり育ててもらえば、五年後、十年後に、味のあるベテランに育つことが多いし、逆に、どれほど頭が切れても、周囲に理解されなかったり、上司に妬まれたら、そこで潰されて終わる。
本人の努力だけでは、どうにもならない事が、現実社会には往々にあって、職場環境などは、その最たるものといえるだろう。
「就職前に、しっかり下調べを」と言われても、実際にその中に入ってみなければ分からないことも、たくさんある。
伸び盛りのビジネスも、働いている人間が左巻きなら、数年後には落ちぶれたりするし。
そう考えると、仕事選びも、一種、博打といえるところがあり、みながみな、本人のリサーチ不足や能力不足とも言い切れない。
あれも運なら、これも運で、勉強や下準備など、やるだけやったら、後はお天道さまに、ひたすら出会い運を祈願することだ。
炭屋には炭屋の、洗濯屋には洗濯屋の、素質や能力を発揮できる場所があり、洗濯屋が我慢して炭屋と一緒にいれば、どんなに綺麗に仕上げた洗濯物も、いずれ真っ黒になって、使い物にならなくなるのである。