竹宮恵子の漫画『風と木の詩』と非実在青少年の性愛について / 性的描写と物語における必然性

少年同士の性的表現で知られる『風と木の詩』は恋する者の心情を描いた名作である。絵だけを取り上げれば不健全とみなされかねない。創作物における性的表現と、物語における必然性について考察するコラム。漫画のあらすじと見どころも紹介しています。

目次 🏃

漫画『風と木の詩』 あらすじと見どころ

風と木の詩 (1976年~1984年) 

風と木の詩 (1) Kindle版
風と木の詩 (1) Kindle版

あらすじ

19世紀末。
フランス・アルル地方にあるらラコンブラード学院に、ジプシーの血を引く優等生セルジュ=バトゥールが転校してくる。
両家の子息が通う寄宿学校ながら、ルームメイトの美少年、ジルベール・コクトーはさながら娼婦のように振る舞い、上級生を相手に快楽に耽っていた。
しかし、ジルベールの中に高貴な魂を見出したセルジュは、ジルベールと正面から向き合い、次第に心を通わせるようになる。

ジルベールには、有名な詩人オーギュスト・ボウという叔父がいて、唯一、自分を委ねられる存在だった。
しかしながら、ジルベールとオーギュの間には重大な出生の秘密があり、セルジュでさえ立ち入れない、深い絆があった。
オーギュは彼の庇護者であると同時に、性愛の相手だったのだ。

そうと知っても、ジルベールを諦めきれないセルジュは、背徳の罪を犯しても彼を愛そうとし、その情熱にジルベールも心を動かされて、二人は身も心も結ばれる。
ジルベールが自立するのを恐れたオーギュは、二人を引き離そうとするが、セルジュとジルベールは恋を貫き、パリに駆け落ちする。

しかし、パリでの貧乏暮らしは、ジルベールを疲弊させ、ジルベールは再び悪い仲間に引き込まれる。
セルジュの献身も虚しく、ジルベールに大きな悲劇が襲いかかる――。

見どころ

古典文学の世界観を舞台に、少年たちが繰り広げる愛のドラマ。
BL要素ばかりが強調されるが、本作のテーマはそこにはなく、セルジュとジルベールの恋も、「たまたま恋した相手が少年だった」というだけ。
初めから同性愛ありきで作られた物語ではなく、「思いがけなく同性に恋してしまった」という点に本作の醍醐味がある。

性愛の場面は、なかなかセンセーショナルだが、70年代の漫画といえば、エロ&バイオレンスは日常の風景。TVドラマでも、平日の昼間に、堂々と濡れ場を放送していたぐらいだ。
そう考えれば、目くじらを立てるほどでもなく、「いやらしい」というなら、最初から性欲を刺激するのが目的で作られたロリアニメや写真集の方がよほどアンモラルだろう。

また、セルジュとジルベールの恋ばかり注目されるが、セルジュの父で、若き子爵アスランと高級娼婦パイヴァの恋も美しく、椿姫をモチーフとした物語は、それだで作品として成り立つほど。

恋とは、何か。
モラルやタブーにどんな意味があるのか。

ひと言では言い表せないほど、様々な示唆に富んでいる。

古典文学や芸術全般に造詣の深い人なら、なるほど納得の、読み応えのある異色作である。

【コラム】 漫画における性の表現とは

東京都の「青少年育成条例改正案」に対する漫画家の声明

2010年3月15日、にあるように、2010年、アニメ・漫画に登場する18歳未満のキャラクターは「非実在青少年」だとして、性的描写などの内容によっては不健全図書に指定して青少年への販売を禁じる「東京都青少年の健全な育成に関する条例(青少年育成条例)改正案に反対する漫画家などが記者会見を開いた。

参考 → 「文化が滅びる」――都条例「非実在青少年」にちばてつやさん、永井豪さんら危機感

会見には、漫画家の里中満智子さんや永井豪さん、ちばてつやさん、竹宮惠子さんなどが参加。里中さんは「青少年を健全に育てたいという温かい気持ちから出た規制だろうが、表現規制は慎重に考えないと恐ろしい世の中になる」、ちばさんは「文化が興るときにはいろんな種類の花が咲き、地の底で根としてつながっている。根を絶つと文化が滅びる」などと強い懸念を示した。

永井豪さんは、40年前の「ハレンチ学園」発表当時、「めちゃくちゃに叩かれた」と振り返る。「当時も、青少年は異性への関心を持つのが健全な精神の育成だと思って描いていると説明した。異性に関心を持つことが罪悪と思って育つと、大人になった時の衝撃が強すぎる。成長段階に応じて少量ずつ与えていくことが重要」(永井さん)

京都精華大マンガ学部長も務める竹宮さん

「わたしの作品『風と木の詩(うた)』は対象になるだろう。都は『対象ではない』と言うかもしれないが、自分自身は対象だと感じてしまった」――竹宮さんは漫画表現への萎縮効果を懸念する。「新しい性に関する知識を少年少女に与えなくては危ないと感じて描いた。純粋培養では少年少女は“健全”にならない。漫画はエネルギーを逃がす弁として存在するはず。ある程度強い刺激でないと、弁を開けない人もいる」(竹宮さん)

里中さんは「表現がエロと感じるかそうでないかは見る人次第で、人はそれぞれ別個の感性を持っているのに、それを全体の意思のようにして網をかけるのはナンセンス」という。

「文化や芸術はその時代の倫理や教育とかい離がある場合があるが、それを描くことも役割だ」――呉さんは文化論を展開。「例えば井原西鶴の『好色一代男』は、6歳の少年時代からの性の遍歴を描いている。1つの人間の姿を描いているのだから、単純に倫理の問題として裁断し、政治が介入するのは危険」(呉さん)

性的描写と物語における必然性

思うに、その性的描写が不健全に当たるか否かは、物語における必然性に依ると思う。

たとえば、池田理代子の名作『ベルサイユのばら』にも、オスカルとアンドレのベッドシーンが登場する。

少女漫画で初めて描かれたベッドシーンで知られるが、あれが不健全と指摘する声は未だかつて聞いたことがない。

里中満智子の『アリエスの乙女たち』にも、高校生カップルの「一夜のエピソード」が登場するが、それを批判する声も聞いたことがない。

漫画の神様で知られる手塚治虫の『MW(ムウ』にも、同性愛の性的描写は存在するし、楳図かずおの『まことちゃん』や、山上たつひこの『がきデカ』に至っては、口にするのも憚られるような、お下劣描写が満載である。だが、当時は普通に受け入れられていた(もちろんPTAの反発はあるが)

思うに、読み手が自然に受け入れられるかどうかは、物語における必然性に依るのではないだろうか。

オスカルとアンドレのベッドシーンも物語の中では自然だし、 『アリエスの乙女たち』の高校生カップルが宿屋で結ばれるエピソードも、「まあ、そうなるよな」という展開。当時は、女の子が高校卒業と同時に結婚するのも珍しくなかった事を思えば、違和感はない。

逆に、性的興奮をかき立てるのが目的で、わざと見開きに際どい写真を載せたり、キャラの個性とはまったく無関係なパンチラを描いたりするのは、いやらしく感じたりする。

話の流れの中で、男女が裸になるのと、ただただ性腺を刺激する為だけに描かれた裸では、表現の意味が全く異なるからだ。

恐らく、「青少年育成条例改正案」で問題にされているのは後者の方で、明らかに売り上げ目当てと分かれば、「性の何たるかも知らない青少年の性的好奇心を利用して、金儲けしている」と取られても仕方ないだろう。

例えの話、ドラえもんの静香ちゃんにエロは必要ないと思うが、「静香ちゃんの裸を描けば売り上げが伸びる」と期待して、物語とまったく無関係なヌード絵を、小学生が購入するような漫画誌に掲載すれば、大人の邪心を感じるだろう。

でも、それも「表現の自由」で認めてしまえば、小学生向けの漫画誌にも、金儲け目当てのエロ描写がばんばん掲載されるようになるし、果たして、それが低学年読者の心の滋養になるのかと問われたら、誰でも首をかしげるのではないだろうか。

ベルばらにしても、風と木の詩にしても、そこに描かれたベッドシーンが(たとえ少年同士であっても)、「性的興奮を目的としたエロ描写」と認識されないのは、物語における必然性を感じるからだ。

大人の男女が愛し合えば、当然、性行為に発展するし、少年同士でも、心から愛し合えば、互いの身体に触れたいと願う。

その必然性があればこそ、「物語の一部」として受け止められるのであって(たとえ読者が小学生であっても)、何の脈絡もない、ただただ性的刺激を無責任にかき立てるだけの過激な性描写が問題視されるのは当然ではないだろうか。

もちろん、その性的描写に『物語の必然性』を感じるか否かは、読み手の感性によるし、必然性の中にあっても、「行き過ぎ」なものは存在する。

そのあたり、作り手と読み手がどう解釈するかは、個々の良識に期待するしかない。

それでも、一つのガイドラインを設けることに意義はあるし、描く側も、いったん考えることで、表現の社会的責任について意識するきっかけになると思う。

何でもかんでも「表現の自由」で許されるとしたら、それこそ作り手の傲慢だから。

ガイドラインを設ける方も、十把一絡げに弾劾するのではなく、「物語における必然性」を理解した上で、もう少し柔軟なアプローチをすれば良かったのではないか。

規制したい側も、恐らくは、金儲けだけが目当ての、何の脈絡もない、過激な描写を取り締まりたかったはずだから。

いずれにせよ、大事なのは、若い読み手に幸せな読書体験を与えることだ。

その中には、当然、性体験も含まれる(子供にとっては、見る、識るも、体験の一つ)。

オスカルとアンドレのベッドシーンのように、子供でも、ぽーっと憧れるような性的描写を描くか。

それとも、話題作りの為に、どんどん過激な方に走っていくか。

作り手の心が何所に在るかは、物語を見れば分かる。

たとえ性的描写が含まれても、美しいものは、美しいのである。(まことちゃんは可愛い)

『風と木の詩』はワイセツなのか?

前述の通り、『風と木の詩』は、「恋した相手が同性だった」という、一つの愛の形を描いた傑作であり、「最初から同性愛ありき」のBLとは根本から異なる。

竹宮氏が見せたいのは、愛の本質であって、ボーイズラブの絡みではないからだ。

その証拠に、青年子爵アスランと高級娼婦パイヴァの許されざる恋にも、かなり誌面を割いており、その根底にはセルジュとジルベールの恋に通じる真摯な愛がある。

だからこそ、セルジュも、亡き父に倣って、ジルベールと駆け落ちするし、その筋書きに説得力があるのだ。

ただ一点、アスランとパイヴァの恋と異なるのは、ジルベールという相手が、いわゆる一般人ではなく、叔父であり、実の父でもあるオーギュから性愛を教えられ、社会に適応できない異端児に育ってしまったことだ。

その点、パイヴァは、高級娼婦とはいえ、真っ当な価値観と社会性を備えた大人の女性である。

駆け落ちしても、妻、母としては上出来であり、アスランの幸福は出会った瞬間から約束されたようなものだ。(最終的には死病という形で終わりを迎えるが)

しかし、セルジュとジルベールの場合、同性である上に、まともに社会生活も送れない異端児ゆえ、破滅的な最後にまっしぐらである。

そうと分かっても、セルジュは禁断の恋に身を投じるし、ジルベールをまともな方に導こうともする。

ただ、そのプロセスには(ジルベールに物事を教えるには)、『性愛』が不可欠で、少年同士の絡みを描くことが目的ではないのだ。

小学生でも性愛は理解する

ジルベールは本能的に理解している。自分が他人と繋がれるのは、まさにその『瞬間』だけということを」という台詞に表されるように、本作の要となっているのは、『性愛』である。

肉体的に調教されたジルベールは、他人の綺麗事や正論に心を動かされることはなく、彼を説得したければ、「抱く」しかない。

セルジュは、悩み抜いた末に、社会的にも宗教的にもタブーとされる、肉体的な交わりをもって、自らの愛を証明する。

そこに至るまでの葛藤に本作の醍醐味があり、最初からきちんと読み込めば、性的体験が皆無の少女読者でも、恋や性愛の美しさが分かる。

「小学生でも、親に隠れて読んでいた」というのは、まさにその表れで、ベルばらのベッドシーンと同じように、セルジュとジルベールの絡みにも親しんでいたのである。(本作の方が直裁的ではあるが)

そう考えると、「その場面」だけを取り上げて糾弾するのは間違いだし、読者もそこまで愚かではない。

物語における必然性を考慮しないと、たった一コマを切り取って、作品全てが否定されることも有り得る。

そのような間違いをおかさない為にも、「図」ではなく、物語全体で理解する素養が、規制する側にも必要だろう。

ミケランジェロのダヴィデ像にパンツをはかせるような愚を犯さない為にも、是か非かの単純な切り分けで済ませないで欲しいものである。

『風と木の詩』に描かれる、恋する気持ち

ところで、『風と木の詩』で、恋はどのように描かれているのだろうか。

特に美しいと思うのが、次の台詞だ。

誇らしい――

一緒にいるのが 奇跡のようだ

君は誰にもつかまらぬ 蝶だったのに

君は 夢にも考えないのだろう

ひとが君といるだけで

幸福になれることなど……

ジルベールと一夜を過ごし、意地悪なクラスメートに揶揄された時、セルジュは「君も誰かに恋をすれば分かる。当事者にしか分からない理由がね」と言い返すが、まさにその通り。

上記の台詞も、まさに恋する者の心情である。

性的絡みなど描かなくても、セルジュの一途な恋心が手に取るように分かるし、またジルベールの奔放なキャラクターが伝わってくる。

どこが、どんな風に? と問われたら、それこそ「君も誰かに恋をすれば分かる」で、恋愛体験のない年少の読者でも、台詞を知っていれば、いつか、本当に自分が恋した時に、感動が二倍になって返って来る仕掛けだ。

本来、創作とは、そういうものであり、読者の気を引くために、どぎついポーズや絡みを描くのとは質が違う。

AVと恋愛映画のように、性的コンテンツは存在してもいいが、恋愛映画と混同すべきでないのと同じだ。

ちなみに、上記の台詞の続きには、二人が(衣類を着たまま)、草原で固く抱き合い、口付けをかわす場面があるが、それも流れの中にあり、「最初にキスシーンありき」の話作りではない。

もう一点、好きなのが、パリの屋根裏部屋で同棲を始めたセルジュとジルベールが、ベッドの中で重なり合う場面に綴られた『バラ色の人生』の詩だ。

あのひとが――

あのひとが わたしを胸に抱いてくれるとき
そっと話しかけてくれるとき
すべての事が忘れられる

あのひとさえ わたしを満たしてくれるなら
あなたの愛の言葉が 私の薔薇色の人生

あなたゆえにわたしがいて
わたしゆえにあなたが在る

あのひとはそう言って やさしく誓ってくれた

だからあの人の姿が見える
そのときに いつもわたしは感じる
この胸がときめくのを

それだけで すべての事が忘れられる……

シャンソンの『ラ・ヴィ・アン・ローズ』の和訳ではなく、竹宮氏のオリジナルである。

性的描写がなくても性愛を感じさせるのが創作とういもの

ロシアの文豪ドストエフスキーの創作メモに「『愛してる』など言わせるものか」という走り書きがあるそうだが、本当にその通りで、登場人物に「愛してる」と言わせなくても、愛を感じさせるのが、創作というものだ。

性愛も同様、直接的な絡みがなくても、エロティシズムを感じさせるのが、上質な作品というものだろう。

逆に言えば、キスシーンやベッドシーンなど、直裁的な表現がなければ、恋する者の心情を表現できないのであれば、それは明らかに作り手の未熟だし、読者の気を引くために、いっそう過激になるなら、それは表現ではなく、宣伝(アイキャッチ)だろう。

何をどう描こうと、作り手の自由だが、『創作』として考えるなら、表現と宣伝(アイキャッチ)は切り分けて考えるべきだし、またその手法を磨くのが、創作の醍醐味と思う。

東京都の「青少年育成条例改正案」も、単に是非だけを問うのではなく、創作における性愛の表現とは如何にあるべきなのか、作り手と読み手の両方から考察すれば、創作活動もいっそう面白いものになるのではないだろうか。

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