育児とは自分を信じること ~多言語環境の子育てを通して感じたこと

さて、今回の記事ですが、『周りを見て育児をしない』というテーマで書こうかな、と思っていたら、タイムリーなお話が来ましたので、先にそちらをご紹介しますね。

第4回『子供は「いい親」より「あなた」が好き』に頂きました。

こんにちは。
コラムのほうとそしてブログと、いつも楽しみに読ませていただいてい
ます。以前まるメゾン エッセー館のほうにも書き込みをさせて頂いた事もあります、Sと申します。

私もまりさんと同様、ここ欧州(ドイツ在住です)で子育てしていて、夫もポーランド人で子供も二人(息子が二人で長男が2歳3ヶ月で、次男が8ヶ月です)で毎回本当に共感しながら読んでいます。
今回のコラムの二人目のお子さんの妊娠中に一人目のお子さんのことがおごそかになってしまって・・・という記
事にも本当に励まされました。
私も全く同じ状況でいまだに引きずっていることがあったからです。
でも本当に完璧に母親業をこなすなんて無理ですもの、いい親でいようと思うより子供と私自身も楽しみながらやっていけたら一番だと思えるようになりました。 本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 
さて、まりさんはお子さんに日本語で話しかけていらっしゃると以前読んだことがあるのですが、そのことで周りの方から何か嫌な事を言われた経験はありますか?

私は実は今日始めてとても嫌なことがありました。
普段の私たちの周りの環境の中では私が子供たちに日本語で話しかけることは子供にとってもよいことと皆が認めて
くれていて、私はいつも散歩中でもお店でもレストランでも、どこでも日本語で通していて今までいやな目で見る人など一人もいなかったのですが、今日はじめて一人のドイツ人男性にスーパーマーケットの中で大きな声で(しかも大勢の人が見ている前)説教をされました。

長男と私の二人で買い物に行ったときのこと。今日に限ってベビーカーは使わず二人とも歩きでした。ちょうど反抗期まっさかりの長男が私の手を振り解いて逃げようとした時に私がちょっといつもより大きい声で(でもそんなに声を張り上げていたわけではないのですし、私自身の声は高いほうではありません)「○○、遠くに行ったら危ないから手をつないで」と言いかけたときのことでした。
「あんたのその何語かわかんないけど、そのトーンが耳を突く。それで子供を教育しているつもりなのか」ということを3回繰り返して大声で言われました。
こういっているこの男性の声のほうがよっぽど大きいのですが!
私が子供にいった、彼にとっては何を言っているのかわからない外国語が耳障りだったのでしょう。
私としては見ず知らずのからだの大きいドイツ人男性に(しかもヒッピーみたいな変な格好をした、けっして子育てしたことがなさそうな)突然大声を出されたことに正直恐怖を覚えました。
子供も怖がって逃げ回ろうとしていたのに、逆に私にしがみついてましたが・・・。

でも今までこういう経験をしたことがなかっただけでこの人と同じ思いをしていたドイツ人も少なからずいたんだろうなぁと思うと、今後は外ではドイツ語で子供に話しかけたほうがいいのか・・・
(とても不自然ですが)とか外では子供には何をされてもなるべく私は我慢して怒らずに通したほうがいいのか・・と悩んでしまいます。
もちろん帰ってから夫に話しました。
「そんなやつは相手にしないで。僕が一緒のときそういうやつがいたら、僕がちゃんといってあげるから」といってくれましたが、でも夫が一緒のときってそういう目にはあわないものではないでしょうか。
相手も私と息子の二人だから言ったのであって、もし今日と同じ状況で夫が一緒だったら、むこうも話しかけてこなかったと思います。
なんだか愚痴ぽくなってきてしまいましたね。すみません。
ここドイツも子育てには寛容な国なので今まで特にいやな目にあったことがないだけにいまだに少しショック
で一気に書いてしまいました。

またこれからもコラムそしてブログのほう、楽しみにしています。
お互い外国での子育てで大変なことも多いですががんばりましょうね!!!ではまた・・・

ご丁寧なお便りを本当にありがとうございました。

通りがかりの人に(それも大柄な男性に)突然文句を言われて、本当にビックリされたでしょうね。
私でも恐怖を感じますよ!!
どこの世界にもそういう人がいるのは、残念なことですね。。。

相手も、その場の気分で言ってるような感じですし、本当に筋の通ったことなら、ちゃんと言い方があるのですから、そういう無礼な輩の事は早く忘れて、元気出して下さいね。
私の場合は、子供の混乱を避けるために、「One Parent, One Language」の方針を貫いています。
どっちつかずの多国語環境は、子供にとって、ジャマくさいだけだと思ったからです。
(我が家の言語環境は、父=ポーランド語、母=日本語、夫婦の会話=英語です)

たとえば、さっきまで母親を通して「リンゴ」と理解していたものが、次の瞬間には父親に「ヤプコ」と訂正される。
「これは何?」と聞いたら、お母さんは「ネコ」と言うし、お父さんは「コテク」と言う。
一つの物事について、何種類もの言い方が存在するわけですから、幼子供にとっては複雑怪奇な世界ですよね。

あるいは、せっかく「ありがとう」をマスターして、公園やお店で実践しても、ポーランド人の相手は素知らぬ顔だし、一つ日本語を覚えたって、喜んでくれるのはお母さんだけで、他の人にはまったく通じない訳でしょう。
正直、子供には気の毒だと思います。

それでも私が「One Parrent, One Language」を貫いているのは、「お母さん語」と「お父さん語」を完全に区別することでしか言語の違いを認識できないと思ったからです。

だから、どんな小さなこと――たとえ、卵一個のことでも、私は必ず日本語を使いますし、それは何処へ行っても、誰の前であっても、変わりません。

昨日まで「タマゴ」と言っていた物を、今日は気分で「ヤイコ」と言ったら、幼い子供はそこで混乱してしまうからです。

もちろん、何処へ行っても、誰の前でも、その態度を貫くには勇気が要りますし、そのスタイルが確立され、周りに理解されるまでは、戸惑いと気疲れの連続でした。

さっきまで「あ、犬だ、ワンワン可愛いね」と話しかけていたのに、ポーランド・ママがやって来たら、「ト・イェスト・ピョセック(これは犬よ)」に変わってしまうのですもの。

私もそこでフリーズしてしまうし、子供にしてみたら、「どっちがホンマやねん」って、複雑怪奇ですよね。

それに対して、自分はどう答えればいいのか――「犬」で通すのか、それともポーランド語で返すべきなのか、ずいぶん迷いました。
まさか目の前の相手を完全に無視して、日本語の壁を作ってしまうわけにはいかないし、かといって、さっきまで「犬」と説明していたものを、突然「ピョセック」と言い換えたら、今度は子供が混乱してしまうからです。
それが原因で、外で人に会うのが、とてもストレスに感じられたこともあります。

しかし、私はこう思ったのです。

「日本人の母親が日本語で話しかけて、何が悪いの?」

たとえば、日本の公園にインド人の母子がやって来て、お母さんがインドの言葉で話しかけていたとして、私はそれを奇妙に思うでしょうか。
「ここは日本なんだから、日本語で話せばいいのに」なんて、思わないですよね。
だって、インド人のお母さんなんですもの。

それなら私も同じだ、と。

日本人の母親なのだから、堂々と日本語で話しかければいいんだ、と。

そう腹をくくった次第です。

それは即ち、自分自身に対する宣言でもありました。
私は、この問題に関しては、決して譲れないと。

もちろん、そうすることで、周りと私自身が浮いてしまう部分もなきにしもあらずです。
やはり日本語の会話を耳にすれば、周りの人は引いてしまうし、相手の方が「ポーランド語で話しかけてもいいのかしら」と躊躇する場合もありますしね。
しかし、私は、子供相手に育児している訳であって、周りに自分を認めさせるために育児してるわけじゃない。

だから、自分のスタイルを貫こうと。

その結果も自分が引き受ける覚悟で、徹底しようと。そう思ったわけです。

もちろん、「他の人が話しかけても、日本語以外、絶対に口にしちゃダメよ」みたいな極端な教育はしていません。

ポーランド・ママが話しかけてきたら、息子はポーランド語で答えるし、その時、「犬」を「ピョセック」と言い換えても、私は何も言わないです。
それに関しては、息子の対応が正しいですからね。

そして、私は、横でニコニコしながら聞いている。
息子が、「ママー、大きいピョセック」と言ってきたら、「ああ、本当だ、大きな犬ね」と答える。
そして、ポーランド・ママには、それなりにポーランド語で返して、適当に調子を合わせておく。
そんな感じです。

言葉の問題に限らず、食事でも、遊びでも、「自分の育児方針について周りと見比べる」、あるいは、「周りから見比べられる」ことって、結構多いんじゃないかなと思います。

たとえば、こんな話がありますね。

自分は子供が転んでも、すぐには助け起こさずに、「一人でどうするかな」と遠くから見守るタイプなのだけど、そういう態度を取ると、周りの人に「子供が転んでも助けない、冷たい母親だ」と思われるのがイヤで、ついつい手を出してしまうというケースです。

中には、「ほら、私って、優しいお母さんでしょう」って事をアピールするように、大げさな態度を取る人もあるそうで、これなんかは、我が子を見ずに、周りを見て子育てしている典型的なケースですよね。
しかし、周りがどう思おうと、結局、子供のことは自分自身で決めていくしかないんだと思います。

周りが代わりの育ててくれる訳でもなければ、事の始末をつけてくれるわけでもない。

「みんながこうしているから」「あの人が正しいと言っているから」、じゃあ、そうします――という類のものでもないですしね。

迷っても、心細くても、自分を信じて、貫いていくしかないように感じます。

もちろん、過信や慢心は禁物だけども、母親がしょっちゅう周りの声に惑わされて、グラグラ揺れていたら、じゃあ、子供は何を信じて生きていけばいいのか――と思いますもの。

だから、育児というのは、自分を信じることだな、と私はいつも思うんです。

自分で自分を信頼できないものは、子供のことだって信頼できないし、親に信じてもらえない子供は淋しいですよ。

確かに、自分を信じて、自分のスタイルを貫くには勇気が要りますけど、そこで強くなれるか、ならないかで、子供の将来も違ってきますしね。

間違いに気付けば、修正すればいいのですし。
(過信や慢心にはそれがない)

近頃は、教師やカウンセラーに「お子さんのことは、お母さん自身が一番よく知っておられるはずですよ」と言われると、首を傾げてしまうお母さんも多いそうです。

身体を張って子供を育てている実感がないのでしょうか。

「他人の言いなり育児(マニュアル育児)」や「周りに見栄張り育児」にならないように、自分の子供をしっかり見つめて、頑張っていきたいなと思っています。

*

以下は、言葉の問題について、私が日常的に気を付けていることです。

日本で子育てされている方にも、何かの参考になれば嬉しいです。

1) 一語一語をゆっくり、明確に話す。

日本語は助詞をマスターするのが難しいので、「それ、取って」とか「これ、リンゴ」と助詞抜きの言い方はなるべくしないようにしています。
「それ取ってくれる?」とか「これ、リンゴだよ」とか。
助詞はなるべく丁寧に言うようにしています。
日本ではそれで差し支えないと思いますが、外国語環境では、これをやると、助詞を覚えてくれなくなるんです(泣)

2) 補助的に答える

これは癇癪における対応と同じなんですけど、子供が何か言ってきたら、それを補助するように答えています。

「ママ、終わった」
「ご飯を食べ終わったの?」

「わぁぁ、○○ちゃん、いやー」
「○○ちゃんにオモチャを取られたから怒ってるの?」

いちいち辛気くさいですけどね^_^;

やはり、子供が自分の欲求を言葉として表現し、言葉で気持ちを整理する過程って、非常に大切だと思うんです。(癇癪の時、それを痛感しました)
それは、語学をマスター云々の問題ではありません。
だから、物事はなるべく理論立てて、説明するようにしています。

3) 質問はしない

「これは何色かな?」「なんて名前の果物かな?」って、質問攻めにするお母さんも少なくないですが、私は、ポーランド語を学ぶ過程で、これを身近な人にやられて、すごくイヤな思いをした経験があるので(何をしてもリラックスできないです。その人に会うのが億劫にさえなります)、子供には、能力確認テストみたいな質問はしません。

まあ、話の流れで、「きかんしゃトーマスはどこだ?」みたいな、クイズは時々やりますけどね。

4) 気長に待つ

言葉のシャワーを浴びせても、子供によっては、すぐに反応しません。
うちは、下の子は1歳過ぎで言葉が出たのに対し、上の子は2歳過ぎてようやくブツブツと言葉が出たような感じでした。
でも、いろんな人から「多言語環境は言葉が遅め」と聞いていたので、焦らなかったです。
二十歳になっても、アーアーウーウーしか喋れない人なんて、おりませんしね(笑)
その子によって、花咲く時期って違いますし、得意な能力も違いますから、言葉が遅くても、他にいいものがあれば、それでいいんじゃないでしょうか。

誰かにこっそり教えたい 👂
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