今の世の中、「自分が好きになれない」と悩んでいる人も少なくありません。
好きになれない原因は、「理想通りにならない」「欲しいものが手に入らない」「周りと比べて劣っている」といった不満や不安が根底にあります。
それが、つのりつのって、怒りに変わると、激しいルサンチマン(怨念)となり、世を呪って、自分も周りも苦しめるようになります。
こうした怨念を克服し、創造的に生きることを説いたのがニーチェです。
「創造的に生きる」とは、絵を描いたり、音楽を作ったりすることではありません。
無の平原から、意味のある何かを立ち上げることです。
より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。
どんなに小さくても、昨日よりは今日、今日よりは明日、少しずつでも歩みを進め、善きものを積み上げることを創造的な生き方と言います。
上記の「創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を解き放ってくれる」の源泉は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』(手塚富雄)の『そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者がはじめて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのであると』の応用です。
参考記事 → 『ツァラトゥストラ』で読み解く ニーチェの『永劫回帰』と『自己超克』
多くの場合、人間の苦悩は、自己無価値感や虚無感に囚われるところから始まります。
挫折や失敗によって心が深く傷つくと、自分がひどく無力に感じ、そのまま無気力に陥ったり、逆に、世を恨んで、破壊に走るからです。
一時、そのような心の状態におかれても、再び生の価値を見出し、前向きに人生を築いていくことが、ニーチェの言う『創造的』です。
絵を描いたり、音楽を作ったりするのが「創造的(クリエイティブ)」ではないんですね。
人生を創造することは、歌ったり、踊ったりすることより、難しいものです。
何故なら、何をどのように作るべきかは本人にしか分かりませんし、一朝一夕に物事が完成するわけでもないからです。
まずは様々な思い込みを捨て、頭の中を真っ新にして、一つずつ、何かを積み上げていく。
それは勉強かもしれないし、人間関係の構築かもしれない。
毎日、聖書を1ページずつ読むのも創造なら、ちょっとずつエクササイズを頑張ってみるのも創造です。
昨日は無だったものが、今日、一つでも身につけば、それは立派な創造です。
それはさながら、無の平原に、人生という建築物を打ち立てるが如くです。
時には、失敗して、途中で崩れ落ちるかもしれません。
それでも、もう一度、一からやり直してみる。
そうして、自分自身と真剣に向き合い、一つずつ、何かを積み上げれば、私たちはいつでも新しい人生を手に入れることができるのです。
海洋小説 MORGENROOD -曙光では、故郷を洪水で押し流され、堤防管理の土木技師だった父親まで失ったヴァルターが、いつまでもそのことを恨みに思い、自分も苦しみ、母も苦しめる過程を描いています。
だけども、18歳になり、ようやく故郷の惨状と向かい合う余裕をもった時、同郷の教授から「創造的に生きる」「もはや自分を恥じない」という言葉を教えられます。
長い間、水の底で藻掻いていた彼の心に希望の光を灯したのは、故郷で復興ボランティアに取り組む幼馴染みの姿でした。
なお、髭の教授が口にする『自分を恥じない』の出典は、ニーチェの『ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)』です。
『悦ばしき知識』の概要と執筆の背景は、『ニーチェの『悦ばしき知識』 創作の背景と名言』で紹介しています。
体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと。
『悦ばしき知識』(ちくま学芸文庫) 第三章・275節