一人の芸術家が、一つのテーマに挑む様は、凄まじくもあり、神々しくもある。
それは生活に役立つ道具を生み出すわけでもなければ、数十億の市場を作りだすわけでもない(スターウォーズみたいにヒットすれば、そうなるかもしれないけれど)。
正直、この世に美しい曲や物語が誕生したところで、不況や国際問題が解決するわけではないし、いきなり生活が豊かになるわけでもない。
音楽や小説など、あっても無くてもいいものだし、まして数分で消えてなくなるライブの演奏など、どれほどの価値があるのかと思う。
相手がマルタ・アルゲリッチほどの大物で、一夜で数千万だか数億だかのお金が動いて、音楽業界もウハウハとかいうならともかく、皆が皆、選ばれたスターじゃあるまいし、そんな事をして何の得になるの?と問われたら、まったくその通り。
裏の畑でも耕した方がよほど世の中の為ではないかと思うことはたくさんある。
ちなみに寺山修司はこう書いている。
「詩を作るより、田を作れ」という思想は、根本的には政治主義に根ざしたものである。それは「役に立つ」ということを第一義に考えた処世訓であって「詩なんかなくても生きることはできるが、田がなければ生きることはできない。だから、どうせやるなら自他ともに役立つところの、田を作る方に打ちこむべきだ」といったほどの意味である。勿論、ここでいわれる「田を作る」ということは比喩であって、「目に見えた効果、社会的に有効な仕事」といったことを指しているのであろう。(21P)
実際、他人に「役に立つ詩」は存在しないかも知れない。
詩は、書いた詩人が自分に役立てるために書くのであって、書くという「体験」を通して新しい世界に踏み込んでゆくために存在しているものなのだ。
だが、「役に立つ詩」はなくても「詩を役立てる心」はある。それはあくまでも受け取り手の側の問題であって、詩の機能をうらからたぐりよせてゆくための社会性の法則のようなものである。
世の中、田んぼ作りの達人ばかりでは、息苦しくて生きていけない。
水車もあれば、太鼓橋もある、多彩な景色が広がればこそ、心豊かに生きていける。
人間が本当に田んぼだけを求める生き物なら、壁画が描かれることもなければ、音階が作られることもなかっただろう。
芸術家が創造しようとしているのは、魂の部分であって、肉体ではない。
だから、自身の魂を削る。
苗木のように、元となる物質があるわけではないから、音や色彩に魂を注ぐ。
その為に命を落とそうと、悔いはない。
なぜなら、我が肉体の代わりに、音や色彩がその現し身となるからだ。
映画の中でパガニーニは言った。
『永遠に生きてやる』
そして、永遠に生きる。
時を超えて、人の心をかき鳴らしながら。
■ 下記にインスパイアされたコラムです
芸術とは己の極限を目指すこと 映画『Shine』とラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 | Novella