【高校生の質問】 ピカソはぼくに何も与えなかった
ピカソの絵の中には何億円という高値がついたものがあるという。世界じゅうの画商や愛好が争って買うのである。その理由は私の不案内な者にはわからないが、やはりそれだけの値打ちがあるから買うのだろう。ピカソのような偉大な画家の絵は将来値段が上がるから。
しかし、当のピカソはそんな世間の騒ぎには耳を貸さず、ひたすら自分の仕事にふけり、晩年はごく少数の友人とのみ顔を合わせ、隠者のような暮らしをしていたという。それではピカソという人は自分の好きなままに絵を描いていればそれで満足だったのだろうか。それとも、自分の成した仕事が世の中に出て、後世まで人類に何らかの貢献をすることをひそかに願っていたのだろうか。
「世界は少数の天才たちの力によって進歩する」ということばがあったような気もするが、その真実性は問わないにしても、ただピカソひとりに限って考えてみると、少し首をかしげたくなる。無学者、権威の失墜をもくろむ悪趣味なヤツ、といわれるかもしれないが、
私はあえていいたい。ピカソの事業は私たちにたいした恩恵を与えてくれなかったではないか、と。少なくとも私個人は、ピカソから何の得るところもなかった。しかし、芸術などというものは、みんなそんなものかもしれない。どんな天才の作品でも、それに触れて陶然となったり、何かの示唆を受ける特権は、その作品を理解できる能力のある人だけに限られているのかもしれない。しょせん芸術とは、選ばれた人々しか、かいま見ることの許されない別世界なのだろうか。だとしたら、なんと悲しいことだろう!「芸術の美とは、しょせん大衆への奉仕の美である」といった小説家がいた。ピカソを理解できないからといって、泣きごとをいうのはバカげていると思われるかもしれない。だが、われら俗人が芸術に取り残され、いわゆる大衆娯楽というものを甘受していることは事実だ。説、テレビの通俗人情ドラマ・その他もろもろ、刹那主義者向きの娯楽のたぐいは山とある。私たちは、それらに満足して、自らの進歩をむざむざ妨げるようなことをしてはいけない。われわれにとって、停滞は常に罪悪である。向上の意欲が大事である。
ちょっと脱線したけれど、要するに芸術とは民衆に「奉仕」すべきものであり、それがないところには芸術も無価値である。芸術は特権階級のための高尚娯楽ではないのだから。
(宮崎・●林典生)
【寺山修司の回答】 芸術には使命も目的もありはしない
民衆と大衆という二つのことばが、簡単にとり混ぜて使われているところが問題です。きみにとって、前衛と「大衆」との関係はどのようになっているのか、この文章からはよくわからないからです。
下部構造が上部構造を決定してゆく、というマルクス主義の考え方は、社会的なものの見方ですが、描きたい人が描きたいように描くのでいいのではないですか?
ぼくはピカソの絵は好きじゃないが、それはあまりにも平明で、わかりやすく、大衆的だからです。ぼくはぼくの感受性によって、ぼくの好きな絵を決めたい。「大衆」が、それをどう考えようと、カンケイないのです。
それと、「向上」とか「進歩」とかいうことばは、ぼくはとてもきらいです。
人間は、「進歩」などしない。ただ「変化」するだけです。
石おので人を殺すのも、核兵器で人を殺すのも、殺し方が変化しただけであって、人類の進化だとは思えないからです。
(寺山)
【コラム】 商業的価値と芸術的価値と個人的価値はまったく別のもの
ピカソが天才で、一枚数億で売れるほど商業的価値があっても、人類全体には何も貢献してないじゃないか……という話です。
気持ちは分かりますが、ちょっと乱暴な結論ですね。
なぜなら、芸術はそれ自体が目的ではなく、それをどう感じたか、そして感じたことを人生や社会にどう活かすかの問題であって、ピカソの絵が直接、革命や弱者救済に繋がるわけではないからです。
それに、人類が覚醒するほどのインパクトはなくても、美術展を開けば、関係者が儲かりますし、ピカソ美術館の地元も大勢の観光客で収益を上げています。「ピカソの絵を生で見た」というだけで、何やら偉くなった気分の人もいるでしょう。そうした個人的体験も、ピカソの功績です。そう考えると、あまたのイラストより、よほど社会に貢献していますし、経済効果も計り知れません。
どんな創作物も、三つの価値から成り立っています。
一つ目は、商業的価値。
二つ目は、芸術的価値。
三つ目は、個人的価値です。
たとえば、市場では相手にされなくても、作品の完成度は高く、芸術的には非常に優れたものはありますね。
ほとんど名前の知られていないアーティストでも、熱心なファンがいたり、逆に、一世風靡した作品でも、数十年後にはすっかり忘れ去られたり。
レオナルド・ダ・ヴィンチみたいな、永遠のスタンダードを除いては、芸術の価値など不定形で、その時々で大きく違います。
そして、多くの場合、人が「この作品(アーティスト)には価値がある」という時、それは『商業的価値』を指していて、それ以外の価値は軽視されがちです。
だから、高校生がピカソの絵に何の感銘も受けず、こんなものが社会の何の役に立つ? と疑問を投げかけたとしても、それは非常に視野の狭い話で、「価値」の前提からして話にならないと思うのですよ。
ゆえに「芸術に使命も目的もありはしない」という寺山修司の回答はもっともで、もし明確に存在するとしたら、それは市場や美術の関係者がかの利害をもって決めた時だけでしょう。多くの人は、自分が見たいものを見て、読みたいものを読む。たとえ、ある人には不評でも、自分にとっては傑作で、今日一日、豊かな気持ちで過ごせたら、それは十分に価値があったということです。個々が作品をどう受け止めるかなど、創る側はそこまでコントロールすることはできません。
ゆえに、芸術に使命も目的もなく、あるのは個々の感想と市場が決めた価値のみです。
自分が「くだらない」と感じるなら、それまでです。
世の中には、向上とも、進歩とも無縁な、くだらない創作物があってもいいし、またその為に、社会が堕落したとしても、それは作品のせいではなく、くだらないものを好んだ社会の結果でしょう。
世の中は、上へ、上へと、上っているのではなく、上っているように見えて、実は、横にスライドしているだけ、本質的には何も変わりません。
変えられるのは、自分の物の見方だけです。
それがピカソであれ、アンパンマンであれ、問題は作り手ではなく、受けとる側にあるのではないでしょうか。