アルベール・カミュと自殺論 ~正論で人は救えるか

2000年の産経新聞に掲載された『10代の声』という投稿より。

人間同士支え合い 自殺を減らそう
ー新聞販売店社員 男性 19歳ー

8月18日付本紙朝刊で、自殺者が二年連続で3万人を超えたと報じられた。
少なくとも私には自ら命を絶つことはできない。死ぬ勇気があるなら、もっとほかにできることがあったはずだと思う。…(中略)…
いったい死んで何になるというのか、そんなのただの自慰的な行動で逃避にすぎない、こう思うのは私だけだろうか。相手が社会であれ人間関係であれもっと立ち向かう勇気を持って欲しい。
人という字は皆さんもご存知の通り、人と人が支えあってできた文字。それなのに今の社会はどうだろうか。人が自殺してもそれはその人の勝手、自分には関係ない、むしろ面白おかしくとらえている人がほとんどではなかろうか。…(中略)…
これからの社会の中で人と人とが支え合い、お互いを理解し合うことが自殺者減少にもつながるのではなかろうか。

2000年 産経新聞より

不条理哲学を説いたフランスの作家、アルベール・カミュは言った。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ

人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである』と。

実際、自殺ほど人間らしい行為はない。

人間だけが、存在を疑い、自ら命を絶つ。

犬も象もライオンも、一匹のノミさえも、自分が何もので、何のために生きているかなど、考えもしないが。

そういう意味でいくと、自殺も人間の一つの死の形であり、その全てを否定することはできない。どんな形であれ、この世に死を思わない人間はなく、それは確実に生に連なっている。

『自殺がいけない』のは小さな子供でも知っている。

にもかかわらず、自殺する人は自殺する。

『死んではいけない』と、当たり前のことを当たり前に説いても、死を選ぼうとする人間の苦悩を救うことはできない。

カミュは言う。

自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない …(中略)… あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺をするということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない。なにが発作的行為を触発したか、それを確かめることはほとんどつねにできない

自殺の理由については、当人でさえ分からない部分もあると思う。
たとえ遺書なるものが存在しても、自殺に至るまでの過程を簡単に要約したものに過ぎない。
いや、遺書に残された言葉さえ、真実かどうか怪しいものだ。
人は言語化するうちに感傷的になることもある。
書かれた言葉が、いつも心の全てを正直に語っているとは限らないからだ。

『自殺はいけない』と説くのは、たやすいことだ。

たいがい、それは正しく、反論の余地も無い。

死を選ぶほど思いつめた人間に、『自殺はいけない』と言うだけなら、五歳の子供にでも出来る。

大切なのは、当たり前のことを当たり前に説くのではなく、そこに至るまでの経緯や背景を理解することだ。「なぜ死を選んだのか」と、相手の身になって考えることだ。

上記の文には明記されていないが、自殺者3万の多くを占めるのは、働き盛りの中高年の男性だ。その背景には、出口の見えない不況と、深刻なリストラがある。社会にも家庭にも行き場を無くした中高年男性が、誰の理解も得られぬまま重度の鬱に陥り、ふらりと電車に飛び込んだり、ビルの屋上から飛び降りるケースが増加の一途をたどっているのだ。

自殺はいけない──『にもかかわらず』死を選ぶのが、人間であり、人間の限界だ。
その弱さ、愚かさを知らずして、人間を理解し、支えになることはできない。
正論で人が救えるなら、これほど楽なことはないだろう。

上記の投稿に対しては、『10代らしい』と言ってしまえばそれまでだが、もう少し人間に対する想像力を働かせ、社会を深く理解する目を養ってもらえたらと思う。

最後に、カミュの言葉。

『こういう発端に社会はあまり関係していない。蝕み食い荒らしてゆく虫は、外部の社会にではなく、ひとの心の内部にいる。ひとの心の内部にこそ、元凶たる虫を捜さなければならぬ。実存に真っ向から向き合った明察から、光の外への脱出へと至り、死をもたらすあの動き、それを追跡し、理解しなければならぬ』

引用文献 :『不条理な論証』 アルベール・カミュ
訳 清水 徹
新潮社

シーシュポスの神話 (新潮文庫) 文庫 カミュ (著), 清水 徹 (翻訳)
シーシュポスの神話 (新潮文庫) 文庫 カミュ (著), 清水 徹 (翻訳)
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。―本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。
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初稿:2000年9月15日

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