『十七歳のオイディプス 「親 死ね」「親 殺す」の正体』を読んで、「親殺しとは何事か、親を捨てて出て行くなど、けしからん」と思われる親御さんもおられるかもしれません。
しかし、ここで述べている『親殺し』とは、あくまで心の作用であり、現実に親を殴り殺せとけしかけているわけではありません。
幼い子どもにとって、親は『神』に等しいものです。善悪の価値観、生き方、箸の上げ下ろしからトイレットペーパーの使い方に至るまで、親の影響を受け、その支配下に置かれます。その神に逆らい、新しい価値観を構築して、自分の望む道を進むのは『殺し』にも等しい恐怖です。こんな恐ろしいことを企てるぐらいなら、親に支配され、罵られても、奴隷でいようとする子どももあるでしょう。そこまで従順でなくても、なんとなく親に言われるがままにする人も少なくないと思います。反抗するより、従順でいる方が、労苦も少なくて済むからです。
その点、真っ向から反抗する子は、気概に溢れ、バイタリティも強いのかもしれません。
しかし、正面から子どもに反抗されて、喜ぶ親は皆無でしょう。親の役割はもちろん、自分の生き方や存在意義まで否定されたように感じ、我が子に対して、憎悪にも似た感情を抱く人もあるかもしれません。だから余計で「言うことを聞け」と高圧的になるのでしょう。
しかし、子どもは自分の希望や疑問を口にしているだけで、親の存在をそっくり否定しているわけではありません。
たとえば、子どもはラーメンを食べたがっているのに、親が「健康の為に野菜サラダを食べろ」と強要すれば、意見が衝突します。だからといって、子どもは親の存在まで否定しているわけではなく、「野菜サラダを食べろ」という意見に反発しているに過ぎません。ラーメンか、野菜か、どちらが正しいかという問題ではなく、単純に「ラーメンを食べたい気持ち」を無視されたから怒っているだけなんですね。
ところが、親の存在を否定されたように感じ、「ラーメンを食べたいお前は間違っている」「馬鹿で、悪い人間だから、ラーメンを欲しがるのだ」と締め上げれば、子どもの印象も変わります。ラーメンの良し悪しではなく、「間違い」「馬鹿」の方に気持ちがフォーカスするからです。
たとえ野菜サラダの方が健康にいいとしても、ラーメンを食べたい気持ちを責められたら、子どもだって自分が否定されたように感じますよね。
肝心なのは、野菜サラダとラーメンとどちらが健康に良いかという問題ではなく、「子どもがラーメンを食べたがっている」という気持ちをどう受け止めるかです。頭ごなしに否定されては、どれほど野菜サラダの方が健康にいいと分かっても、素直に聞き入れる気持ちにはなりません。しまいには「自分が何を食べたがっても、親に反対される。言うだけ無駄」と心の中で断絶が生じます。どうしてもラーメンが食べたいなら、野菜サラダとセットにするとか、お椀に半分だけにするとか、いくらでもアレンジの仕方があります。「親の言うことを聞かない」=自分の価値観を否定されたとムキになるから、子どももますます頑なになるのであって、歩み寄る気持ちがあれば、どこかに落としどころが見つかるのではないでしょうか。
『親殺し』という言葉だけ見れば、非常に激しい印象を受けますが、要は、親の影響から離れて、我が道を行くだけのことです。ただ、子どもにとっては、親は神にも等しいですから、そこから離れるには勇気も居るし、犠牲も伴います。もう二度と親の援助は受けられない、家から追い出されて、食べるものも寝る場所もなくすかもしれない、子どもにとっては生死に関わる問題です。それでも勇気を奮い立たせるには、目の前に立ち塞がるライオス王を打ち倒すほどの気概がなければ、絶対に不可能なのです。
見方を変えれば、そこまで子どもを追い詰めたのは親自身に他ならず、なるべくしてなった、というのが真相ではないでしょうか。
親は身に覚えがなくても、子どもは親にいつ何をされて、どんな風に傷ついたか、逐一記憶していますし、一度、言われたことは忘れません。表面は普通に見えても、呪いの言葉と日夜闘っています。親の圧力に押し潰されたら、子どもは死ぬしかありません。肉体的に死ななくても、心が死ねば同じことです。幸せも生き甲斐も見出せず、社会生活にも失敗して、破滅の人生をひた走ります。
果たして、それが親の望みでしょうか。
子どもだって親を愛したい。どんな時も尊敬の気持ちで仰ぎ見たいと願っています。
意見が食い違うことと、親を否定することは、まったく別物です。