レコードアルバムという物語 ~A面で恋をして、B面で納得

目次 🏃

アナログレコードという物語

A面とB面 : 作り手の駆け引き

近年、アナログレコードが売り上げを伸ばしているという。

うちの近所の家電量販店も、DVD売り場の1/3がアナログレコードに置き換わった。

30年以上前に目にして、それっきりの、あの有名ジャケットが、どーんと売り場の顔になっているのは感無量だ。

今、若い人の目で見ても、十分に魅力的と思う。

私たちがそうだったように、彼等もまた、自分のアイデンティティを構築するアイテムの一つとして、これらのジャケットを自室に飾るに違いない。

↓ もはや現代アートとも言うべき『クリムゾン・キングの宮殿』 by キングクリムゾン
クリムゾン・キングの宮殿

↓ 70年代のアイコン。ローリングストーンズの舌ペロ。いろんなモチーフに使われています。
ローリングストーンズ

これも、どこのウェブサイトで目にしたのか、忘れてしまったが、「なぜ音楽が売れなくなったのか」というコラムで、「お目当ての一曲だけを、ダウンロード購入できるようになったから」という話があった。(※ この記事はサブスクリプションが普及する前の2014年に作成しています)

以前はアナログレコード、もしくは、CDで、アルバムを丸ごと購入し、『お目当ての一曲以外』も耳にする機会があったが、iTuneなどの登場で、「お目当て」だけを手に入れると、自分の関心のある曲以外は聴かなくなり、アーティストに対する興味や愛着も薄れる……という話である。

本来、アナログレコードも、CDも、アーティストの『アルバム』は、最初から最後まで『物語』に沿って作られていた。

たとえば、レッド・ツェッペリンの名曲『カシミール』が収録されている『フィジカル・グラフィティ』は、一曲目の『カスタード・パイ』から淡々と進んで、A面の最後に、この曲がどーんとくる。

もしかしたら、A面の一曲目でも良かったような気もするが、のっけから『カシミール』で満足されては後が続かない――という計算だろうか。

そして、A面最後の『カシミール』で止めを刺されたリスナーが、「よいしょ」と腰を上げ、レコード盤をひっくり返し、今度は全く雰囲気の異なるB面の『In the Light』に針を落とす(落とす・・という感覚はレコードプレイヤーに親しんだ人でないと、分からないと思う)。

その間隙は、人によって、五分だったり、一時間だったり、まちまちであるが、この心と身体のPause(休止)こそがリスナーの聴覚をリフレッシュし、B面への新たな興味を搔き立てるのだ。「カシミールがあれほど凄かったんだから、B面も、きっと凄いに違いない」と。

時にそれは裏切られ、完全に予想から外れたりもするが、こうした作り手の駆け引きが随所に見られたのがアナログレコードであり、その筋書きには、アーティストとプロデューサーのセンスと哲学が凝縮されていた。

一曲、一曲は大したことはなくても、アルバム全体は完成されていたり。

逆に、アルバムとしては不完全でも、爆弾みたいな一曲が存在したり。

どんな才人も、完璧なアルバムを作り続けることは不可能だから、当然、長いキャリアにおいては不発もあるわけだが、それも含めて、アーティストの魅力であり、「ああ、このアルバムの時、ベースの○○とヴォーカリストの誰某が対立してたんだよなぁ」「この後、解散したのも分かるなぁ」等々、その時々の事情が垣間見えるのも、アナログレコードの醍醐味ではないだろうか。

そして、アナログレコードには、その世界観を如実に表す、アーティスティックなジャケットがあり、時に、それは時代のアイコンとなった。

リスナーは、企画、作曲、レコーディング、ジャケットデザイン、音楽雑誌のPRコラム、店頭販売の賑わいに至るまで、『物語』として楽しみ、作り手と一体となって、音楽カルチャーに親しんだ。

それは、「一曲だけ、好きなもの」の音楽配信の時代には、到底、味わえない視聴体験ではないだろうか。

70年代から80年代にかけて、アナログ市場をリアルに楽しんだファンとしては、「いいものを聴かせてもらって、ありがとう」の気持ちしかない。

21世紀、洒落たメディアショップの一角に、ひっそりと並ぶアナログレコードを見る度に、心の底から幸せだったサブカル青春時代に思いを馳せずにいないのである。

A面からB面への儀式

こうした『アルバムの物語性』を語る時、忘れてはならないのが、「A面からB面への儀式」である。

私は、LP & EP盤から始まって、二十代半ばにCDに移行した口だが、何が一番嬉しかったといえば、「A面からB面にひっくり返さなくて済む」という利便だった。

たとえば、寝ながらLPレコードを聴くとする。

どれほど素晴らしい音楽に酔っていても、20分後か30分後には、A面からB面にひっくり返す必要が生じる。

あそこで、のっそり起き出して、プレーヤーまで歩いて行くのが面倒くさい。

でも、起きて、レコード針を上げなければ、レコード針はいつまでもレコード盤の上でブツブツ音を鳴らし続けるし、レコード盤も自分で止めなければ、永久に回り続ける。(後に、自動でレコード針が収納されるプレイヤーが登場したが)

放置すれば、ダイヤモンド製のレコード針でも摩耗して、ついにはレコード盤そのものを傷めてしまう。

どれほど邪魔くさくても、たとえ風邪で38℃の熱があっても、プレーヤーまで歩いて行って、レコード針を持ち上げ、レコード盤をひっくり返さなければならない。

これが、良質な音楽を聴くために必須の儀式だった。

アーティストがアルバム作りに人生を懸けるなら、リスナーはそれを楽しむ為に、汗を流さなければならなかったのだ。

ところが、CDは儀式を必要としない。

Playボタンを押せば、一曲目から最終曲まで、一気に再生する。

しかもプログラム機能を使えば、自分の好きな曲だけチョイスできるし、好きな曲だけ何回でもリピートすることができる。

それはまさに火打ち石からガスレンジに移行するほどのの進化で、正直、A面の4曲目がダルかった私には、神のような機能に思えた。

さらに時代は進化し、円盤すら必要としなくなった。

今ではマッチ箱みたいなデジタルプレイヤーに何千曲でも持ち歩くことができるし、好きな曲を一つだけ、ダウンロード購入することも可能だ。

音楽の売り方も、握り寿司セットから回転寿司に変化し、目の前に流れてくる一皿だけを取って食べるような感覚だ。

寿司職人にしてみれば、大トロ以外にも、イクラやイカなど、いろいろ味わって欲しいと思う。

握り寿司の上盛りは単なるセット商品ではない、その組み合わせ、色合い、並び順、全てに哲学があり、食べる人への配慮がある。

ところが、回転寿司の時代になり、客の方は、自分の好きなネタだけ、目の前に流れてくれば、それいい。

寿司職人のセンスも、気遣いも、どうでもいい。

そもそも、上盛りなんか食べたことがない。

これでは寿司職人も泣くに泣けないだろう。

同じ事が、音楽業界にも起きている。

便利な分、アルバムの良さは薄れ、とにかく一曲、当たる曲を作ればいいという流れになっている。

それはそれで意味があるのだろうが、昔のレコード芸術を知っている者には、合点がいかない所があるのも確かだ。

それだけに、現代、回転寿司に飽きたリスナーが、個性的な器に盛られた握り寿司セットに食指を動かし始めたのは感慨深い。

実は「寿司」というものが、大トロ単体で存在するのではなく、大トロはあくまで寿司芸術を構成する一つの要素に過ぎないと気付いたからだろう。

音楽も、寿司も、基本的に「単体」で存在するが、どの作品も、何の脈絡も生まれてくることはなく、必ずそこに至るまでの道筋がある。

たとえば、プロデューサーと喧嘩別れしたバンドが、心機一転でこしらえたニューアルバムとか。

前作、酷評されたヴォーカリストが、リベンジの気持ちでこしらえた異色のバラードとか。

レッド・ツェッペリンも、クイーンも、のっけから「天国への階段」や「伝説のチャンピオン」を作曲したわけではなく、初々しいデビューアルバムから始まって、幾つものアルバム制作を経て、あの境地に辿り着いたわけで、その道筋を理解することが、真のファン魂であり、リスナー道だろう。

ゆえに、音楽配信の時代に育った若者も、それに気付いた者から、「アルバム」という体験に回帰しているのではないだろうか。

音楽にも回帰がある

音楽業界に限らず、出版も、映画も、テクノロジーの変化が激しい。

そして、その度に、作り手の嘆きが聞こえてくる。

だが、それも皮肉な話で、作り手が利便性や革新性を求めて、サービスの在り方を変えたが為に、消費者の嗜好も変わってしまったわけで、昔ながらのアルバム文化を大事にして欲しければ、CDや音楽配信などに頼らず、永久にレコード盤にとどめておけばよかったのだ、と。

が、それはそれで、音楽離れを引き起こすだろうから、業界も、作り手も、新時代のテクノロジーに合わせて、何とかやっていく他ないのだろう。もう二度と、工房の時代に戻らないように。

それでも、音楽に限って言えば、筋金入りの音楽好きは、鮭が故郷に帰るように原点に戻ってくるし、レコードが復活しようが、新手の音楽配信サービスが爆誕しようが、美しい曲の本質は変わらない。

『天国への階段』も、『カシミール』も、『ボヘミアン・ラプソディ』も、動画やSNSなど、様々な媒体を通して後世に受け継がれるし、アルバム文化も分かる人には分かるだろう。また、そうした人たちによって、未来に受け継がれていくと信じる。

長い目で見れば、その時代に売れなくても、最後には「いい曲」を作った人が不滅の栄光を手に入れるのではないだろうか。

80年代のポップスター、松原みきの『真夜中のドア』が、音楽配信によって拡散され、今や世界中のリスナーに愛好されているように。(松原さんも、日本でヒットしていた頃、まさか自分の歌が何十年も経ってから、世界中で視聴されるなど、夢にも思わなかっただろう)

初稿 2014年12月2日

誰かにこっそり教えたい 👂
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