私が子供に一番言って欲しくないこと。
それは『幸せ系ウソ』です。
幸せ系ウソとは、親を怒らせるまい、困らせるまいとして言う、口からでまかせの幸せ言葉です。
「僕のことなら大丈夫。何も問題はないよ」
「お母さんも仕事がんばってね。応援してるよ」
「学校、楽しいよ」
「友達とは仲良くしてるよ」……etc
子供は、親を怒らせないため、あるいは、困らせないためなら、いくらでも幸せなウソをつきます。
そして、そのウソを、自分に言い聞かすことができます。
親にはもちろん、自分でも自分の気持ちにウソをつきながら、「いい子」で生きていくので、抑圧された感情だけが溜まります。
自分で「自分という人間」を生きている気がしないのです。
そのまま社会に出たり、恋愛などで真剣に人と向かい合ったりすると、自分の気持ちの表現の仕方が分からなくて、いつか崩落します。
そして、崩落しても、人に「助けて」と言えず、自分で自分を傷つけ、追い込んで、最悪、自殺してしまうのが、『幸せ系ウソ』の毒なのです。
幸せ系ウソの毒は、一年、二年では表に現れません。
十年、二十年の歳月をかけて、どんどん人間を蝕んでいくのです。
非行に走る少女には、更正という救いがありますが、幸せ系ウソをつきながら生きてきた人間に救いはありません。
なぜなら、その人が楽になる道は、唯一、「自分が死ぬこと」だけだからです。
精神的にも、肉体的にもです。
その人が本当に救われるとしたら、健全な自尊心を取り戻して、自分で自分をすくい上げた場合だけなんですね。
でも、たいていは、鬱屈した感情を抱えながら、面白くも何ともない人生を生きていくのが、多くの幸せ系ウソの末路だと思います。
私も、幸せ系ウソをつきながら、幼稚園、小学校、中学校を「いい子」で通し、高校になって、突然、自我に目覚めて、激しい精神的崩落を経験した一人でした。
そして、その傷の癒えぬまま、社会に出て、恋に破れて、三十過ぎるまで、自分の苦しみの原因が分からず、幸せから遠く取り残されたような、淋しい青春時代を過ごしてきました。
私が、奇跡的に子供時代のトラウマから解放されて、心の平安を手に入れ、今の旦那と良好な関係を築けたのは、加藤締三さんや宇野千代さん、美輪明宏さんといった、本当の意味で、人の心を知っている方の本との出会いがあったからだと思っています。
昨年の婦人公論に掲載されていた記事ですが、今は、女子大生の十人に一人がリストカットの常習者だと言われています。
なぜそういう事をするのか、分からない人には分からないでしょうけど、彼女等の多くは、自分の言葉を持たず、親にさえ本当の事が言えない――というより、かなり早い段階で、「親に言ってもしかたない」と、親のことなど諦めている、精神的に断絶した少女達なのだと思います。
私も、幼稚園の頃にはすでに、「親に本当の事を言っても仕方ない」という意識がありましたし、親の顔色、先の先まで読んで、「怒らせない言い方」というのを身に付けていました。
そして、親の心を煩わすまいとして、「私は大丈夫」と言い続けると、自分でもそのような気持ちになって、「いつも大丈夫でなければならない」という、半ば強迫的な観念の持ち主になってしまうのです。
私の知人の娘さんで、小学校三年生からバイオリンを習い始めた子がいるのですが、その子はどう見ても、好きで習っているようには見えませんでした。
レッスン日の前に、イヤイヤ稽古して、その態度が悪いと、「高いレッスン料払ってるのに、真剣みがない」と、母親に叱られる。
目に涙を浮かべながら、キコキコ弾いているその子の姿は、好きで厳しいレッスンに耐えている姿とは程遠いものでした。
私がその子の母親に、「本当はイヤなんちがうの」と聞いたら、
「なんでー。私が『習う?』って聞いたら、自分から『じゃあ、やる』って答えたんやで」
そんなん、ウソや、と私は思いました。
母親を怒らすまいとして、そう答えてるだけちゃうの、って。
その子は、どんなお稽古事を始めても、長続きしないのだそうです。
母親いわく、「まだ自分の好きなことが見つからないから」。
でも、私には、母親があれこれ持ち掛けるたびに、子供は「ウン」と頷き、その気がなくても親の言うとおりに通って、そしてすぐに辞めてしまう、その繰り返しに見えました。
今は塾に通って、地域で一番の私立中学を受験するそうですが、その子に、「それでいいの?」と聞いたら、
「私、何にもわからへんし。お母さんが、そうしぃ、って言うし」
今は小さいからそれで済むけども、私は何となく高校、大学あたりで、大きな嵐が来るのとちがうやろか、って、心配せずにいないです。
人間の言葉には、その裏に、何十、何百という思いが秘められている。
その中には当然、アンビバレンツがあって、「いいよ」と思う気持ちの裏には、「よくない」と思う気持ちも少なからず伴うものです。
でも、相手が、言葉に表れない気持ちも汲み取ってくれるから、私たちは安心して自分を表現することが出来るし、人を信頼することもできる。
「親に本当の事を言ってもしかたない」と思われるのは、親として一番恥ずかしいことだし、またそんな風に、親のことも、他人のことも諦めてしまう子供は、この世で一番救いがたい存在と私は思います。
加藤締三センセが書いている。
子供はなぜ「うるさい、ばばあ!」と言ったのだろうか。
子供は母親の言うことに反論できないからである。
どうにも母親に反論出来ないときに「うるさい、ばばあ」と言うのではないだろうか。そのことをまず理解する必要がある。
いずれにしろ「うるさい、ばばあ!」と言った時には、子供は感情を吐き出している。
大人になってから挫折する「良い子」はこの様な状況の時にこの母親への攻撃性を自分に向ける。
無意識では母親を攻撃しても、意識の上では母親を攻撃できない。自分を責めても母親を責めない。母親が母親ではなく他人だから「良い子」を演じるしかないのである。鬱積した感情でこの「良い子」はいつか将来挫折する。
しかし親も人間だから理想の子育てはなかなか難しい。
「うるさい、ばばあ!」と言った子供は二十年後には平凡な一市民になっているだろう。
そしてそういう感情にならなかった子供は仲間から信頼される人物に成長しているだろう。
そしてその感情を抑圧した「良い子」は挫折しているだろう。
人間関係が表面的にうまく行っていることと、お互いに物凄い葛藤を抱えているということは矛盾しない。人間関係のごたごたが葛藤を解決している過程であることがある。
「私達親子は、何の問題もありませんわ」などという人達が最も問題をかかえていることがある
私は、自分の体験から、子供の幸せ系ウソを鵜呑みにするのではなく、それを看破できるだけの感性と洞察力を大事にして頂きたいなあと思います。