renouvelé par
JOSÉPH BEDIER
1980
トーマス・ベディエ『トリスタンとイズー物語』について
概要
愛の秘薬を誤って飲みかわしてしまった王妃イズーと王の甥トリスタン。この時から2人は死に至るまでやむことのない永遠の愛に結びつけられる。ヨーロッパ中世最大のこの恋物語は、世の掟も理非分別も超越して愛しあう“情熱恋愛の神話”として人々の心に深くやきつき、西欧人の恋愛観の形成に大きく影響を与えました。
ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』とは内容が若干異なりますが、オペラはもちろん、中世以降の恋愛物語を理解するには欠かせません。
色恋を越えた、生と死の哲学が感じられる名著です。
現在、岩波文庫は絶版になっており、中古のみ入手可能です。通販で調べたところ、オリジナルのトーマス・ベディエ編『トリスタンとイズー物語』は1953年に岩波文庫から刊行された佐藤輝夫・訳、一択なので、興味のある方はお早めにお買い求め下さい。中古は100円前後です。
あらすじ
コーンウォールのマルク王は、最愛の妹ブランシュフルールと忠臣リヴァランの遺児を引き取り、トリスタン(悲しみの子)と名づけます。父のリヴァランは、仇敵モルガン侯によって謀殺され、母ブランシュフルールも悲しみのあまり息絶えたからです。
トリスタンは立派な騎士に成長し、コーンウォールを恫喝するアイルランド王モルオルトを決闘で打ち倒します。しかし、自らも重傷を負い、運命にまかせて小舟に乗りこみます。7日の漂流の後、トリスタンはアイルランドに流れ着き、モルオルトの姪で、美しい黄金の髪をもつイズーに介抱されます。トリスタンは身分を偽って「タントリス」と名乗り、秘術に長けたイズーの治療によって一命を取り留めます。
傷が回復すると、トリスタンはコーンウォールに戻り、やもめのマルク王の為に、黄金の髪の姫を連れ帰ることを約束します。再びアイルランドに赴いたトリスタンは、長年人民を悩ます洞窟の竜を討ち取り、その褒美として、『黄金のイズー』を与えられます。イズーは、この騎士が伯父モルオルトの仇であることに気付き、一度は彼の頭上に太刀を振りかざしますが、トリスタンの眼差に心惹かれ、彼のものになる決心をします。
ところが、トリスタンはアイルランド王と諸侯に対し、「イズーをマルク王の妃に迎える」と宣言し、イズーは激しく動揺します。トリスタンが彼女に会いに来たのは、自分の妻にする為ではなく、マルク王に差し出すためだったからです。
コーンウォールに向かう船上で、イズーはトリスタンへの憎しみをつのらせ、トリスタンもまた複雑な感情に揺れます。
その時、ブランジャァンの幼い侍女が、イズーの喉の渇きを癒やすため、飲み物を差し入れます。しかし、それは、イズーの母が、イズーとマルク王の為にあつらえた愛の媚薬でした。そうとは知らずにイズーは媚薬を飲み、トリスタンにも飲むように促します。そして、トリスタンも口にし、二人はたちまち恋に落ちたのでした。
イズーはマルク王に嫁いだものの、二人はもはや離ればなれで生きていくことができません。人目を忍んで逢瀬を重ねるものの、小人のフロサンの裏切りによって発覚し、イズーとトリスタンは国を追われます。
その後二人は様々な試練を経て、一度は離ればなれになりますが、強力な愛の力によって再び結ばれ、戦闘で深手を負ったトリスタンの後を追うようにイズーもまた息を引き取る――という物語です。
ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』では、登場人物も6人に絞られ(トリスタン、イゾルデ、マルケ王、侍女ブランゲーネ、忠僕クルナヴァール、王の臣下で裏切り者のメロート)、誤って媚薬を口にするのではなく、「死の薬」として杯を飲み干します。イゾルデは誇りを踏みにじった代償にトリスタンの死を求め、トリスタンもまた苦しみから逃れるために死の杯を口にするものの、実はそれは愛の媚薬であった――というストーリーです。
ワーグナーの解釈では、イゾルデはすでにトリスタンに心惹かれ、トリスタンもまたイゾルデに魅せられていたものの、マルケ王への忠義心から、それを叶える事はできず、イゾルデが他人のものになるくらいなら、いっそ死んだ方がましという気持ちで死の杯を口にします。イゾルデもまた、自分の恋が叶えられない苦しみから死の杯を口にし、二人が愛の媚薬によって結ばれたのは決して偶然ではなく、潜在的に惹かれ合っていたのが、媚薬という一つの契機によって、秘められた愛が発露したという解釈です。
『トリスタンとイズー物語』では、「白い手のイズー」という、ブルターニュの姫が登場します。一時的にイズーと離ればなれになったトリスタンは、ブルターニュの領地を治めるオエル公に気に入られ、宿敵リオルを討ち取った褒美として、娘である「白い手のイズー」を妻として与えられます。その時、トリスタンは、不思議な指輪の力によって、イズーを忘れていたのでした。しかし、婚礼の時に、指輪が抜け落ちると、トリスタンの胸にたちまちイズーへの恋情がよみがえり、トリスタンは妻となった「白い手のイズー」に指一本、触れることなく、彼女を悲しませます。彼女は、トリスタンの本当の想い人である「黄金の髪のイズー」に嫉妬し、トリスタンが重傷を負った時、黄金の髪のイズーを乗せた船がそこまで近づいているのに、あれは違う船だと嘘偽りを口にして、トリスタンを失望させ、死に追いやるのです。
ワーグナーのオペラでは、このエピソードが省略され、ひたすらトリスタンとイゾルデの内面に迫る楽劇に仕上がっています。
ワーグナーの楽劇 キャラの違い
ちなみに、ワーグナーのオペラでは、キャラクターも次のように置き換わっています。
トリスタン → トリスタン
イズー → イゾルデ
侍女ブランジァン → ブランゲーネ
従者ゴルヴナル → クルヴェナール
イズーの伯父モルオルト → アイルランドの騎士モロルト
また、『トリスタンとイズー物語』には、最後にトリスタンの死を看取る親友のカエルダン、トリスタンの武勇に嫉妬して、恋人たちの仲を裂こうとするゲヌロン、ゴンドアヌ、デノアラン、アンドレという悪党、二人の逢瀬を密告する小びとのフロサンなど、様々なキャラクターが登場するが、ワーグナーの楽劇では簡素化されています。
イズーの伯父モルオルトは、「アイルランドの騎士モロルト」として、船上のイゾルデの回想の中で語られ、実際の舞台には登場しません。
また、ワーグナーの楽劇で、二人の逢瀬を密告するメロートは、『トリスタンとイズー物語』においては、小人フロサンの役回りを演じており、裏切った動機は、「メロートもまたイゾルデの眼差に惹かれたから」、すなわち、横恋慕であるとトリスタンによって語られています。
『トリスタンとイズー物語』 あらすじと名言
トリスタンの裏切りとイズーの怒り
アイルランドの強敵モルオルトを討ち取ったトリスタンは、老王マルクへの忠義の証しとして、「黄金の髪の美女」を妃として連れ帰ることを約束します。
マルク王は妻も後継ぎもない為、相続問題に悩まされていました。ある日、二羽の燕が光り輝く黄金の髪を宮廷に運び込み、王はこの髪の持主と結婚すると宣言したからです。
トリスタンは、海を渡って、アイルランドに赴き、人々を悩ませる洞窟の悪竜の噂を耳にします。アイルランド王は、竜を仕留めた勇者に黄金のイズーを与えると約束し、大勢の武者が立ち向かいましたが、生きて帰ってきたものは一人としてありませんでした。
トリスタンは竜を退治しますが、自らも竜の毒汁によって瀕死の重傷を負います。イズーは、彼の美しさに心惹かれ、全身全霊で治療しますが、トリスタンはイズーを自分の妻に望まず、マルク王の妃に迎えたいとアイルランド王に申し出ます。
トリスタンの態度はイズーの心を深く傷つけます。
後述の、訳者・佐藤氏の解説にもありますが、媚薬を飲む、飲まないにかかわらず、イズーは凜々しいトリスタンに心惹かれ、トリスタンもまたイズーに興味を持ちます。しかし、この段階では、トリスタンの気持ちは「興味」にとどまり、それ以上の感情はありません。
ある意味、愛の媚薬は、トリスタンをその気にさせる為の秘薬と言えなくもないですね。口にしたのは偶然でも。
愛の媚薬と恋の発露
では、『愛の媚薬』とは、どのようなものだったのでしょう。
イズーがコーンウォールに向けて出発するにあたり、秘術に長けたイズーの母は、侍女ブランジァンを呼び寄せて、次のように命じます。
「乙女よ、お前は姫に従ってマルク王さまの国にゆかねばなりませぬ。真心をこめて姫を愛しておくれ! さあ、この葡萄酒の壺を受け取っておくれ、そしてわたしの言葉をよく覚えていねばなりませぬよ。お前はこの壺をだれの目にもかからぬように、まただれの唇にもふれさせぬよう大切にしてしまっておくのです。婚礼の夜となって、新婚の二人をのこして人々がかえってしまうと、お前はこの名草を醸した葡萄酒を杯にうつし、マルク王と姫とがいっしょに飲み干すようにお二人に差しあげるのです。いいかえ、この二人だkがこの飲料を味わうように気をつけるのですよ! それをいっしょに飲んだものは、身も心も一つになって、生きているあいだも、死んでの後も、永久に愛しあってはなれぬという、それほどこの飲み物のききめは大したものなのだから……」
古くから、欧州には新婚の精力づけに『蜂蜜酒』を飲む習慣があり、ハネムーン(Honey Moon)の語源になったと言われています。
蜂蜜酒は水と蜂蜜を発酵させた醸造酒ですが、仕上げとして、ラズベリーやクランベリー、ジンジャーやクローブといった薬草を加えることがあり、『トリスタンとイズー物語』に登場する愛の媚薬も、アルコール飲料に、数種のハーブやスパイスを加えたものではないかと推測します。
ワインやビールでも、冬期にスパイスを加え、人肌に加熱して飲む習慣がありますが(ムルドワイン、ホットビールなど)、こうした飲み物は身体を温めるだけでなく、精神を高揚させる働きもあります。
参考 イギリスのクリスマスの風物詩 モルドワイン
新婚の夫婦が床に入る前に蜂蜜酒を飲み、ロマンチックな気分で愛し合ったことは容易に想像がつきますし、アイルランド王妃に限らず、アルコール飲料にハーブやスパイスを調合して『愛の媚薬』を作ることは一般的だったのではないでしょうか。
一方、トリスタンに袖にされたイズーは憎しみをつのらせ、愛してもないマルク王の許に連れて行かれることに激しい憤りと悲しみを感じます。
「情けない! わたしを運んでゆく海よ、呪われてあれ! 敵国に生きながらえるよりも、むしろ生れた国で死ぬほうが、どれほどわたしには望ましかろうに!」
と、彼女はこういうのであった。
早い話、トリスタンが自分になびかず、その上、愛してもない老王のところに連れて行こうとしている事実に怒りを感じているわけです。
分かります、分かります。
女なら自分をコケにされたら、黙ってはいない。
「自分のものにしようともせず」というのは、トリスタンの臆病をなじる言葉です。
トリスタンだって、心の底では、私に惹かれているはずではないか。それなのに……という恨み節です。
この船上の怒りは、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』でも、嵐のような旋律とともに激しく描かれます。
戦いのために荒れ狂い、嵐を起こし、大旋風を拭き起こしておくれ!
この夢見る海を 眠りから掘り起こし、
うめく絶望を 海底から呼び覚ませ!
私が自ら捧げる この海の餌食を海に魅せよ!
この強情な船を打ち砕いておくれ、その破片を呑んでおくれ!
苦しい呼吸をつづけて この船の上に生きる者を 褒美としてあげよう!
この「船」というのは、トリスタンのことですね。
これほどの苦しみを負って、生き長らえるくらいなら、いっそ船ごと沈んだ方がいい……という、狂おしいまでの激情です。
そんなイズーをトリスタンは慰めようとしますが、イズーの心は荒れ狂うばかり。
そして、そんなイズーの喉の渇きを慰めようと、幼い侍女が気を利かせて、飲み物を持ってきます。これこそ、死ぬまで二人を結びつける『愛の媚薬』でした。
そうとは知らずにイズーは飲み干し、イズーの差し出した杯を、トリスタンも飲み干します。
『トリスタンとイズー物語』では、幼い侍女の取り違え=偶然によって愛の媚薬を口にしますが、ワーグナーの楽劇では、『罪の償い』として、イゾルデがトリスタンに「死の杯」をすすめ、トリスタンは、自死を覚悟して杯に口をつけます。すると、イゾルデは「半分は私が飲みます」と残りの杯をトリスタンから奪い取り、一気に飲み干します。イゾルデの言う『償い』には二重の意味があり、トリスタンが伯父モロルトを打ち倒した下手人であるにもかかわらず、身分を偽ってイゾルデに近付き、マルケ王との婚姻を仕組んだこと、そして、心の底ではイゾルデに心惹かれているにもかかわらず、忠義心から目を背け、イゾルデの真心まで踏みにじろうとしていることです。
トリスタンもまた、これほどの苦しみを背負って生き長らえるくらいなら死んだ方がまし、と杯に口を付け、イゾルデも後を追って、同じ死の杯を飲み干してしまう。
それが媚薬であろうと、なかろうと、二人はいずれ気持ちを抑えきれなくなって結ばれたであろうし、愛の媚薬は、あくまで恋を発露させる刺戟剤に過ぎないことを、訳者の佐藤氏も指摘しています(後述)。
飲み終えた後、陶然と見つめ合う二人の姿を認めて、侍女のブランジァンは叫びます。
そして、トリスタンは、内側から溢れ出る想いを次のように表現します。
イズーはあなたの妃です、と三度繰り返されるところにトリスタンの苦悩を感じる。
ブランジァンいわく、
そして、三日目。
二人は、再び相まみえ、イズーはトリスタンを自身の幕舎に誘う。
「妃さま、なぜそのようにわたくしを殿とお呼びになりますか。わたくしこそあなたの家臣、あなたをこそわが妃、わが貴女として敬い、かしずき、愛さねばならなぬ、臣下ではございませんぬか」
「いえいえ、あなたは私の殿、わたしの主人、それはよっくご存じのはず! あなたの力はもうわあしを虜としてしまっています、わたしこそ、あなたのしもべです。かうてわたしは、傷ついた旅の楽人の傷をいやしてさしあげなかったでしょうか? 沼のほとりの葦草のなかで、あの怪物を退治した人を、わたしは見殺しにしましたでしょうか? またその人が湯殿のなかで横たわっていたとき、すんでのこと打ちおろそうとした太刀を、わたしはじっと差し控えはしなかったでしょうか? おもえば、わたしがいまこのようになろうとは、あのころには、夢にも、思いはしませんでした」
「イズーさま、いまではどうなったとおっしゃりますか。あなたを苦しめるものは?」
「目に見るもの、耳に聞くものが、すべてわたしを苦しめます。あの大空も、海原も、からだも、生命も、みんなわたしを苦しめます!」
彼女はトリスタンの肩に腕をかけた。涙はその目の光をくもらせ、唇は慄えていた。トリスタンはくりかえした。
「いとしい人よ、あなたを苦しめるものは?」
彼女は答えた。
「あなたをいとおしいとおもうわたしの心です」
トリスタンはかのジョン唇の上におのが唇をかさねた。
けれどもこうして二人がはじめての恋の歓喜を味わったとき、ひそかに二人を見張っていたブランジァンは、叫び声をあげ、両腕をひろげ、涙に顔をぬらして二人の足もとに身を投げた。
「はやあったことをしてくださいますな! できますことならもとにもどって下さいませ! いいえ、もうだめですわ! もう愛の力からはお二人を引き寄せてしまっています。悲しみのない悦びはもう永久に味わうことはできませぬ。イズーさま、あなたがたお二人を悩ますものは薬草を調じた葡萄酒、女王さまから托された愛の秘薬でございます。 ≪中略≫ 呪われた至らぬわたくしのおちどゆえに、この杯の中であなたがたは愛と死とを飲んでしまわれたのでございますもの!」
恋人はいだきあった。美しい肉体のなかでは欲求と生命とが波うっていた。トリスタンはいった。
「さらば、死よ、きたれ!」
こうして、陽が落ちると、マルクの領土をさして、飛ぶように、前にもましていっそう速く走ってゆく船の上で、永久に結ばれた二人の恋人は会いにすべてを棄てて互いに身をまかせてしまった。
非常に情熱的な筆致です。「あなたを苦しめるものは?」「あなたをいとおしとおもうわたしの心です」という下りがいいですね。
元々、トリスタンは、みなしごという悲しい生い立ちゆえに、常に死地を探しています。恋をしようが、しよまいが、トリスタンにとっては、生きること自体が死に向かう歩みであり、自分からわざと死地に赴いているような気がしてならいないんですね。強敵モルオルトと剣を交えるのも、毒竜と戦うのも、無意識に死を求め、自分からわざと敵の前に身を乗り出すような印象です。「悲しみの子」の名の通り、トリスタンの胸中には常に悲嘆に暮れて死んだ母ブランシュフルールの面影があり、あの世にもこの世にも身の置き所がないのでしょう。媚薬の力でイズーと結ばれても、トリスタンは愛の悦びよりは、むしろ、激しい情熱で我が身を焼くことを願っているような気がします。
ちなみに、マルク王に嫁ぐ前、船の上でトリスタンと交わったイズーは、無垢な乙女であることを証明するために、侍女ブランジァンを新婚の床にはべらせます。
ブランジァンも、自らの過ちで二人を悲劇に導いたことを悔いる気持ちから、喜んでイズーの身代わりとなります。にもかかわらず、イズーは秘密の恋の発覚を恐れて、ブランジァンを手にかけようとし、互いに涙を流して和解する場面があるんですね。昔の妃と侍女の関係は友情より深かったのかもしれません。
トリスタンとイズーの逢瀬
かくして、イズーはマルク王の妃として、トリスタンはマルク王の忠臣として、何事もなかったように振る舞いますが、文中にも「恋とはひっきょう隠しきれぬものである」とあるように、二人の激しい情熱は、たちまち二人を妬む四人の廷臣に感づかれ、危険が身に迫ります。
それでも、気持ちを抑えきれない二人はひと目を忍んで、夜の森で逢瀬を重ねます。
その内面を、次のように描写しています。
もしだれかが救ってやらなければ、二人の恋人はいずれ日ならず死んでしまうであろう。けれどブランジァンをほかにしてだれが二人を救いえようか。生命をまとにして彼女はトリスタンの嘆いている家にでかけてゆく。ゴルヴナルはうれしそうに戸口を開いて招じいれる。そこで彼女は二人の恋人を救うために、一つの策をトリスタンに教えるのだった。
みなの衆、これほど美しい恋の逢瀬の企てはこれまでに聞かれたことはござるまい。
ちなみに、この世界観を忠実に再現したのが、バイロイト祝祭劇場の楽劇『トリスタンとイゾルデ』です。
さてトリスタンは夜ともなれば、ブランジァンの忠告に従って、樹の皮や木片を器用に削るのであった。それから鋭い杭の柵を乗りこえ、松の木の下にゆくと、その削ったものを流れの中に投げ入れる。すると、それは水沫のように軽いので、水面にうかんでは泡沫にまじって流れてゆく。部屋の中ではイズーがじっとそれをまちうけて、ブランジァンがうまくマルクや悪人を遠ざけることができると、ただちに恋人のほうに馳せてゆくのであった。
彼女はやってくる。もしや木陰に悪人が待ち伏せてはいやしないかと、ひと葦ごとに、木陰のなかに注意をしながら、足ばやに、しかしこわごわながらやってくる。トリスタンはその姿が目にうつると、もうすぐと両腕を開けて、とんでゆく。闇は二人の姿を人目からかくし、恵みぶかい大松は、上からそっと二人の上にその影を投げかける。
そして、うまく落ち合った二人は、情熱的な言葉で愛を語ります。
タンタジェルの塔の上ではもう塔守のふき鳴らす暁をつげるラッパの音が響いてくる。
「いやいや」とトリスタンは答える。「その蜃気の壁はもうとうにやぶれてしまいました。ここはその神秘の園生などでhありませぬ。けれど恋人よ、いつか二人は行けばもう永久に帰れぬ幸福の国にまいりましょう。そこには真っ白の大理石の城が高くそびえています。百選とある城の窓には、一つ一つに蝋燭の光がかがやき、伶人はつきせぬ曲をかなで歌っているのです。そこでは太陽はかがやきませぬ。けれど何びともそれを憂いはしませぬ。そここそ人間の幸福の世界です」
ここで語られる『神秘の園生』とは、ケルト神話でお馴染みの『ティル・ナ・ノーグ(常若の国)』や『マグ・メル(死者の島、喜びの島)』ではないかと想像します。
この世で決して結ばれることのない恋人たちは、この世ではない何処か、あるいは死の国に思いを馳せ、永久に一つに溶け合ってしまいたいと願います。
ワーグナーの楽劇では、第二幕の『おお、降り来よ、愛の夜よ』で、恋する二人の情熱が高らかに歌われます。
我が生きることを忘れさせよ
汝のふところに 我を抱きあげ
現世から 解き放しめよ!
こうして私たちは死ねばよい
離れずに 永遠にひとつとなり
果てなく 目覚めず
不安なく 名もなく
愛につつまれ
我ら
かたみに与えつつ
愛にのみ生きるために!
こちらがフランスの著名なオペラ演出家、ジャン=ピエール・ポネルによる、1983年バイロイト祝祭劇場の舞台。
主演は20世紀後半を代表するヘルデン・テノールのルネ・コロ。
劇場内に溜め息がもれたという、伝説の舞台です。
当時は撮影技術もそこまで高度でなかったので、古い映像では感動も今一つですが、実際の舞台は七色の光が浮き立つようで、非常に素晴らしかったのではないでしょうか。
マルク王の怒り ~トリスタンとイズーの追放
二人の恋は、トリスタンに代わって王の寵愛を得ようとする逆臣の知るところとなり、彼らは小びとのフロサンを使って、罠を張り巡らせます。フロサンは、マルク王にトリスタンの裏切りを告げ、王の寝床の周りにパン屑を撒いて、トリスタンを捕らえます。当時、王の寝室には騎士が寝泊まりするのが慣わしでした。トリスタンもまた、王の寝室に寝起きし、作者いわく、「彼の寝床からマルク王の寝床までは、槍一本ほどの距離しかない」。トリスタンは、王が寝静まった後、イズーに話しかけようと、パン屑の撒かれた場所を飛び越えますが、それ以前に、森の中で、一頭の猪の牙にかかって足を痛めていました。その為、血筋がパン屑を赤く染め、トリスタンが王とイズーの眠る寝床に近づいたことがばれてしまうのです。
ちなみに、王の寝床のすぐ側に家来が控える習慣は、江戸幕府にもありました。将軍の寝床の両隣に、それぞれ男女の家来が伏して、夜の営みを監視するのです。将軍の寝床を密室にすれば、賊が忍び込んだり、側室が正室の悪口を言ったり、身内を重臣に取り立てるよう、個人的な依頼をして、統制を見出す原因になるからです。 [参考 徹底図解 大奥 (著)榎本秋]
想像したら、なかなか凄い状況ですね
かくして、トリスタンとイズーは不義の罪で訴えられ、マルク王は激しい怒りと悲しみに包まれます。王は、二人を火刑に処すべく、いばらを燃やし始めますが、トリスタンは、聖堂のステンドグラスから飛び降りて、奇跡的に救われ、醜い病者の群れに投げ込まれたイズーを救い出し、従者ゴルヴナルを連れて、モロアの森に身を潜めます。
愛のある別れ
二人はしばらく秘密の小屋で幸せに暮らしていましたが、トリスタンはマルク王に対する裏切りに苦悩します。
妃だと? 王のそばにいればこそ、あの方は女王であった。しかしこの森の中ではまるで奴隷の女である。わたしはあの方の青春をどうしてしまったのか。絹布を吊した部屋のかわりに、わたしはこの寂しい森を与えた。美しい帷帳のかわりに、この小屋を与えた。あの弱々しい足でこうした険阻な路をたどるのも、みんなわたしのためである。ああ世界の主たる神さまに、イズーをマルクに返すだけの力を賜りますっよう、お祈りをいたしたい。彼女こそローマの掟に仕上がって、この国の諸侯貴紳の前でめとったあのひとの妻ではないのか」
また、イズーも、マルク王から頂いた黄金の指環を見つめながら、王とトリスタンの身を案じる。
(怒りに燃えるマルク王は二人の後を追って、モロアの森に入り、寄り添って眠る二人の姿を見つけるが、彼らの体の間に一本の剣が置かれているのに目を留め、全ては自分の誤解ではないかと心を改め、痩せ細ったイズーの指に、黄金の指環を嵌めて、そっと引き返す)
恋に燃えながらも、それぞれの相手の幸福と将来を思い、これは間違いではないかと別れを考える気持ちが美しいですね。
二人は森の賢者オグランに助言を求め、マルク王との間に仲裁を得て、イズーは王の許に帰り、トリスタンも一度は国を離れる決心をしますが、それでもイズーを思い切ることができず、あの手この手で、身をやつし、イズーと秘密の逢瀬を重ねます。
放浪と死 ~白い手のイズー
やがてトリスタンは、従者ゴルヴナルを連れて、ブルターニュに赴きます。当時、ブルターニュは、オエル公が納めていましたが、ナントのリオル伯が幾度となく攻め込み、領民たちは脅かされていました。
オエル公の子息カエルダンは、トリスタンの高貴な身分を知ると、母と妹のいる居室に招待します。カエルダンは、トリスタンを気に入り、リオル伯を討ち取ったお礼として、妹の「白い手のイズー」と娶せます。しかし、新婚の床で、トリスタンは恋人イズーのことを想い、妻となった「白い手のイズー」には指一本、触れようとしません。
「むかしある国でわたしは竜を退治したことがあった。そのとき、すでに危しと見たとき、わたしは聖母を心に思い出し、《この怪物からわたくしをお救い下さいますれば、妻をめとりましても、一年のあいだ、わたくしは、くちづけと抱擁とを、誓っておたちいたしまする》と、願をかけたことがあるのです……」
と偽り、「白い手のイズー」を説得します。
しかし、トリスタンは日増しにイズーへの恋慕をつのらせ、心の底で苦悶します。
遠くはなれていれば死が徐々に近よってくるのを知っている。一日一日とせまってくる死を待つよりも、むしろ一撃のもとに斃(たお)される死のおうがむしろ望ましくさえ想われた。悲しい生活を生きることは、それは死と同じである。トリスタンは死を願った。死を望んだ。けれどどうせ死ぬなら、そのひとへの愛ゆえに死んだのだということを、せめても知ってもらいたかった。それを知ってくれたら、もっとやすらかに死ねるであろう。
そして、再び、きちがいを装って、イズーに再会します。
「恋人よ、もうやがて、わたしはここから逃げねばなりませぬ。やがてつかまりそうですから。逃げて、もう二度とあなたに会うことはかないますまい。わたしの死期は近づきました。遠くはなれていては、悲しみのあまり死んでしまうでしょう」
「トリスタンさま、このお腕をしっかと抱きしめて下さいませ。二人の心臓が避けて、抱擁のなかで、いっそ死んでしまいとうござります。いつかお話し下さった、あの常世の国、そこへ行ったらかえられぬ、あの、常住楽人が歌をうたっているという常世の国へ、連れていって下さいませ!」
凄まじいまでの魂の希求ですね。終盤、二人はすでに、この世には存在しないかのようです。
最後の逢瀬の後、トリスタンは、小ブルターニュの駆るエーに戻ると、盟友カルダンをたすけて、ペリダスという郷土を討ち取ります。しかし、トリスタンもまた毒の塗った槍に傷つき、瀕死の重傷を負います。瀕死のトリスタンは、カエルダンに全てを打ち明け、死の床にイズーを連れてくるよう頼みます。カエルダンは快く引き受けますが、二人の話を「白い手のイズー」が立ち聞きしていました。
「イズーを乗せた船がやって来るなら白い帆を、イズーを連れて来られぬ場合は黒い帆をあげて知らせて欲しい」という秘密の合図を聞き知った白い手のイズーは、「船はまだか?」と尋ねるトリスタンに、「わたしのしかと見た色は、まっ黒い帆だと、思し召せ!」と嘘を教え、絶望したトリスタンは壁の方を向くと、「此上は、生きる気力もなくなった! イズーよ、恋人よ」と三度くりかえすと、四度目に息を引き取ります。
トリスタンの死後、ようやくトリスタンの許に辿り着いたイズーは、遺骸の側で泣き叫ぶ「白い手のイズー」を認めると、「奥方さま、そこをお退きあそばして、わたしに近よらせて下さいませ。あなたさまよりわたしこそ、この方の死を悼む権利があるとおぼしめせ! わたしはもっともっとこのお方をお慕い申しておりました」と言い、トリスタンの遺骸の側に身を横たえると、からだとからだ、口と口を合わせ、しっかりと遺骸を抱きしめて、死んでいきます。
恋人たちの死を知ったマルク王は、海を渡ってブルターニュを訪れると、イズーのために玉髄の、トリスタンのために緑柱石の死棺を造らせ、故国タンタジェルに埋葬します。
死んでなお求め合う、凄まじい情熱が描かれます。
ワーグナーの楽劇では、マルケ王もその場に訪れますが、「二人を娶せるために来たのに、どうして先走った不幸が訪れるのか」と苛酷な運命を嘆きます。『トリスタンとイズー物語』のマルク王は、喜怒哀楽のはっきりした、権威ある王様ですが(ちょっぴり居丈高。激高もする)、ワーグナーのマルケ王は、慈愛に満ちた老王で、心底、甥のトリスタンと美しいイゾルデを愛した様子が窺えます。
【コラム】 ここまで愛せたら幸せ ~ひとつになりたい恋人たち
『トリスタンとイズー物語』が古今東西のアーティストや読者の心を捉えて離さないのは、彼らの恋が決して利己的な思い込みではなく、純粋な恋情と思いやりに支えられているからでしょう。愛の媚薬によって結ばれたとはいえ、彼らは絶えず、互いの身の上を思いやり、時には別れを選びます。恋に狂っているのは確かですが、それは決して妄想や熱狂の類いではなく、心の底から相手のことが好きで好きでしょうがない、何を超えても一緒に居たい、なおかつ相手には幸福でいて欲しいという、ピュアな恋心に他ならないからですね。
中世はともかく、現代は人を愛するのも難しい時代です。個人はそれぞれに忙しく、果たすべき役割もあります。この社会で生きていくには、優しさだけでは不可能だし、もう少しいい暮らしをしようと思ったら、がつがつとオオカミのように努力する他ありません。その過程で、思いやりやユーモア、ロマンや夢といったものを置き忘れ、恋愛や結婚に打算を持ち込むのも時代の流れのようにと感じます。
その点、トリスタンとイズーは、恋のために命を燃やし、心のままに生きていきます。だからといって、決して己を見失うことはなく、トリスタンはトリスタンなりに、マルク王への忠誠を貫き、騎士の本分を果たそうとします。またイゾルデも、むやみに恋情に振りまわされるのではなく、自身の立場を弁えて、無謀な行動は控えます。恋のために、相手を不幸にしているのではないかと気付いたら、一度は別れを決意するほど思いやりに溢れ、その恋は決して自分も他人も滅ぼすような、愚かな熱情ではありません。
そうした潔さと賢さが、死ぬほどの熱情につかれた恋人たちを、いっそう美しく際立たせるのでしょう。
あまたの恋物語のように、聞いてて疲れるような自己弁護もなければ、白々しい作為を感じることもない。それこそ初めて恋した中学生みたいに、「好き! 好き! 好き!」で人生が過ぎていって、最後までテンションが下がることもない、見事なまでの燃焼ぶりに、嘆息せずにいられません。
トリスタンとイズーの恋は、もはや芸術であり、その人生はひたすら浄化に至るプロセスです。
この場合、浄化とは何か。
それは我欲も、迷いも棄てて、ただただ恋のため――恋のためだけに生き、ついには自らの肉体からも脱却して、魂のレベルで恋する人とひとつに結ばれることです。
そこには時間もなく、色形もなく、自らを分ける境界線もない。
恋する者だけが辿り着ける幽玄の境地とでも言うのでしょうか。
ワーグナーの言葉を借りれば、
永遠にくつろぎ、
無限の空間に至幸の夢を見て、
名づけることなく
別れることなく
新たに知り合い
新たに燃え
無限に永遠に
ひとつの意識に
熱く焼けた胸の
至上の愛の歓楽!
究極の結合であり、一体感です。
そんな魂の至福に辿り着ける人間が、この世にどれほどいるでしょう。
上っ面だけで、「いいな」と思い、飽きたら別れる。
そんな安っぽい恋に、全てを知ったような顔をして、「恋愛なんて無駄」と空言を吐いているのが現実ではないでしょうか。
『トリスタンとイズーの物語』が、出来過ぎのロマンスと分かっても、恋人たちの燃焼ぶりに心を揺さぶられずにいないのは、私たちがあまりにもそこから遠ざかり、理屈と打算だけで生きているからかもしれません。
トリスタンもイズーも、時に滑稽なほど純粋で、危なっかしいほどですが、そこにオーロラ姫やフィリップ王子とは異なる人間味を感じるのでしょう。
これは完全無欠の男女の恋物語ではなく、恋に狂って道を踏み外した、若い二人のどたばた道中です。
しかし、その根底にあるのは、羨ましいほどの情愛なのです。
訳者・佐藤輝夫の解説
岩波文庫の巻末に収録されている訳者・佐藤輝夫による解説。1953年に刊行された本なので、漢字も古いものが多用されていますが、そのまま転載しています。読みにくいですが、ご了承下さい。
フィルトル 愛の媚薬について
ジョゼフ・ベディエの新輯(しんしゅう)『トリスタンとイズー物語』がどういう性質の作品であり、それがどういう手順でもって書かれたかということについては、ベディエの恩師であるフランス中世文献学の創始者ガストン・パリス(1839-1903)がこの書に寄せた「序文」の中で、綿密かつ情理をつくして書いているので、そういう方面での解説はこれ以上することは不必要だと思います。そこで私は方面を替えて、この本の中に終始出てきて筋の進展を左右したり、人物の精神構造に大きな変化を与えたりする、言わば道具として、もっと言えばこの伝説の背骨として用いられている、《フィトル》または《愛の飲料》というものについて、いささか述べてみたいと思います。
トリスタン伝説が起源をもつものだということは昔からしばしば言われ、またガストン・パリスもそう言い、私もそれを多分そうだと信じております。それをこの伝説と非常に似ていると言われる、ケルトの《駆落譚》(Elopement Story)で見ますと、次のようなことから噺(はなし)は始まります。すなわち、ある女性がその好もしいと思う男性に対して、自分のほうでイニシアーチブを取り、ケルト人のあいだでゲイス(Geis)と称(よ)ばれる一種の呪術(あるいは禁忌)をかけることによって相手の意志を拘束し、わが意に従わせて駆落ちをすることから話は展開してまいります。
例えばフィアナ族の年老いた王フィンの妻グラーイネは、若き美貌の戦士で、王の側近者ディアミッドのラブ・スポット――これを見ると、その女性のこころを蕩(とろ)かし、それに抵抗する意志の自由を奪ってしまうというシーニュ――を見てこころ奪われ、終(つい)に宴の夜、薬酒を飲ませて仲間を眠らせてから、駆落ちにまでディアミッドを強制した(『ディアミッドとグラーイネ』)、一方、アルスターの太守このハーの妻デアドラは、雪の上で屠(ほふ)られた犢(こうし)の真っ赤な血の色と、その血を飲みに舞い降りてきた烏(からす)の翅(はね)のぬれ羽色に魅せられて、この三つの色をシーニュとして併せ持つ、色は白く、頬はくれない、そして黒く輝く髪の毛をもつ青年ニーシャに言い寄って、これも強制的に駆落ちにまで誘いこむ(『デアドラとウスネの子たちの死』)。この二篇の恋の逃避行とその悲劇への展開は、トリスタン伝説に非常によく似ているので、トリスタン伝説のケルト起源論が大きくものを言う根拠となるのですが、ケルト世界の若い男女を執念深く結びつけるその端緒を呪術(ゲイス)と証兆(シーニュ)に置くのではなく、《フィルトル》すなわち媚薬という、これも民間処方ではあるがケルトのダイスより遙かに現実的な愛の飲料というものにトリスタン物語の最初の作者は改めた。これはきわめて大きな意味を持つ改変だと私は思います。
それでは『トリスタン・イズー物語』の中のそのフィルトルとはいったい何か、それはそもそも何を意味するのかということを考えてみましょう。
『物語』を読むと、イズーがコーンウォールのマルク王の妃となることが約定され、トリスタンに導かれてアイルランドを去る前夜、イズーの母アイルランドの王妃は、草根木皮を葡萄酒にひたして、芳醇な強い愛の飲料を醸し出し、これを素焼きの壺に納めて、イズーに付き添ってゆくブランジァンに托し、婚姻の夜、マルクとイズーの二人だけがこれを飲むように、その他のものは決して手を触れさせないようにと、きびしく戒めました。それを、あやまって船上でトリスタンとイズーが飲むことによって、運命の輪が狂い、悲劇の物語に始動がかかるようになるのです。
ケルトの物語では、女が呪文をかけて駆落ちを強制することによって始動がかかるのを、トリスタン伝説では、誰の意志によるのでもなく、偶然が、つまりブランジァンの知らぬまに、ひとりの幼い侍女が、それと知らずに持って来て、それをトリスタンとイズーに飲ませてしまうという偶然が、起るのです。
普通民間処方でフィルトル(媚薬)と言うと、ある特定の男または女が、懸想する相手に飲ませその心をこちらに向けさせて思いを遂げる処方を指してそう言います。ある学者は物語のこの部分を解説するとき、フィルトルの生理的な効用について、イズーの母親の心を忖度して次のように言っています。つまり「それはイズーとマルク王の結婚が、失敗に終ることのないように配慮したからである」と。「トリスタンはイズーにとって、叔父モルオルトを殺した仇であるといっても、若くて、美男で、好ましい。ところがマルク王はどうであろうか? そういう彼が若い妃のこころを引きつけるためには、多くの心遣いと、優しさと、それに敬意のまことを注ぐか、さもなくば、その反対に、のっけから肉体の抱擁と快楽の何たるかを、その場で、しかも全的に覚えさせるか、そのどちらかが必要であろう。もし最初から二人が、肉体的に完全な一致がもてたなら、賭は成功である。なぜならこころはそれについてゆくから。まさにそのとおりなのだが、それをえるにはどうすればよいか、それはフィルトルを使うことだ」(ピエール・ガレー)と、この筆者は言っています。
ところでトリスタン伝説の中に見るフィルトルを見ると、それは、ただ譚にそのような肉体の完全な合一への刺戟剤なんかではありません。それはそれを飲む者の人格をその根底から変えてしまう一つの妖しい力の象徴(Symbole)として用いられているという考うべきです。ベディエがこの本のこの部分を書くとき専ら寄り掛かったと自分で述べているのはドイツの作者アイルハルトで、その流布本『トリストラント』のこの部分を見ると、フィルトルを飲んだとき「二人は全然なぜともよくわからぬままに、たちまい顔がこもごも赤くなったり、青くなったりした。めいめいが、相手の故(せい)で死ぬのではないか、と思った。それほど二人のあいだには愛しいと思うこころが亢(たかま)った。別にそうしなければならぬようなことはなに一つしなかったのに」(ビュサンジェ仏訳本・1361-2367行)と、詩人は書いて、さらにそれに注して、「それはみな、そのフィルトルが因(もと)だった」(2368行)と言っております。
この変化の条りをなおもう少し引用しますと、「貴女は、こんなにも僅かのあいだに、トリスタンを愛するようになったことを恥かしく思った。トリスタンもまた、愛の縛(いまし)めが、自分の中の生きる力を奪い去ったことを恥かしく思った。愛は彼を網の目に搦(から)めて、大いなる苦痛を与えた」(2369-2373行)とこう書いて、「二人とも、これまでの在り方とはすっかりちがう情況の中にいた」(2367行)と言っています。こう見てくると、フィルトルはただ単にそのような肉体の合一への刺戟剤なんかではなく、それは服用者の人格まで変えてしまう、いわば変身(Metamofphose)そのものを指し、恋人二人の部屋の中では《愛》(ミンネ)が同居していた、と流布本の作者は語るので、フィルトルは愛の象徴として使われていたことが明らかになります。
繰り返し言えば、ケルトのトリスタン的傾斜を持つ譚の中では禁忌(ゲイス)と証兆(シーニュ)の結合であったケルト的表兆を、フィルトルという象徴にまで改変したことは、フランスにおける伝説第一の作者の大胆な作業で、ケルト伝説はここにおいて大きく人間的なものに成長したことになるのです。
フィルトルと愛の誕生
さて、このメタモルフォーズの内実を明らかにするために、フィルトルの服用以前にあった二人の関係や相手に対してそれぞれが持った感情がどのようなものであったかを思い出してみましょう。
流布本に見るトリスタンとイズーの実質的な出会いは湯殿の場面から始まります。イズーにとっては竜を退治したまことの英雄を見出すことは、自分がその人の妻になるはずです。そこで彼女はあらゆる手をつくして治療に当り、湯を立てて自らその世話に当る。トリスタンはそうするイズーの髪の毛を見て、これぞ探し求めてきた(黄金の髪の毛の美女)であると思い、にんまりと笑みを洩らす。その笑みに刺戟されてそれに反応することはイズーもまた満足している証拠です。しかしその反応(別言すれば内省)が引金となってトリスタンが伯父の仇敵であることを識る。イズーはトリスタンの上に反射的に剣を振りかざす。しかしそれは反射的ながら内実は不本意な行為です。何故なら、和解が承認されて、トリスタンがいまだなお「マルク王の妃として」とは言わずして、約束通りイズーの手をいただきたいとアイルランド王に要求したとき、「それは姫のこころを悦ばした」と、アイルハルトは書いております。(本書の中では、このイズーの感慨は、マルク王の妃として貰い受けたいということが明らかにされた後に行なわせて、54ページにもあるように、「トリスタンはいったん自分をかちえると、もう、棄ててしまったのだ! 黄金の髪の物語もひっきょうつくりごとにすぎなかったのだ……」というように、いわば未練の表現に替えて書いております。)
こういうイズーのニュアンスの色濃い心情に対して、トリスタンの方はどうかというと、一度もイズーのことを美しいとも、好もしいとも言っていないのです。正気に復してイズーの金髪をつくづく眺め、「黄金の髪のイズーをついにかちえたことを考えて、思わずにっとほほえんだ」だけでした。こういうわけで、フィルトル服用以前の二人のあいだには、イズーの側からすれば、竜退治の懸賞として与えられるその当の相手が、立派な若者であるので嬉しかったが、それが結婚の相手ではないとわかると失望と嫌悪の感情に変ったという、ただそれだけにしか過ぎなかったのです。こういう、いわば無風状態に火をつけるのが他ならぬフィルトルなのです。それは中世文学においてかつて見られなかった愛の誕生をわれわれに告げることを意味します。
それまでに中世文学の中にエロースの登場がなかったわけではありません。十二世紀の初頭にフランスの南部、ポアトゥー、リモージュ、ギュイエンヌなど、いうところのオック語圏内に、忽然ととして貴女崇拝という、一種ミスチックな、疑似宗教的な思想の形を取ってエロースをたたえる詩が現われました。それがいわゆるトゥルバドゥールの詩で、詩人は現実世界の中にhとりの貴女を選び、あらゆる技巧をつくして、貴女への愛を謳い、その火を褒め讃えます。けれど詩人の愛と讃美は一方的なものであって、報われることはないのです。せいぜいぬかずく詩人の額にくちづけを受けるのが最高の栄誉でした。もちろん時にはそれ以上のものを詩人は望みます。――暗夜ひそかに馬を駆り、貴女の局に乗りつける。そして几帳の陰でつかの間の愛の語らいを夢にみる。けれっどその夢は、第三者の存在か、道廻しの拒絶かにあって、いずれにしてもその夢はまさに一場の夢でしかないのです。彼等の愛は叶えるべくもない絶望的な愛なのです。
また十二世紀の中頃には、さいしょのルネッサンスといっていわゆる古代の古典が明るみに出て、限られた人々のあいだではあるが、ヴェルギリウスやスタチウスや、なかんずくオヴィディウスの詩を通じて、古代人のこころを支配する情炎のものすごさが知られてはいました。しかしそのものすごいまでのすさまじさの故に、古代人はそれを怖れ、それを狂気として受け取っていました。やがて中世は古代の物語を換骨奪胎して、時流にのるように古典を書き改めますが、それm乙女のこころにほのかに出るはじらいの恋の芽生えというくらいの甚だ幼稚なものでした。そこへトリスタン伝説が伝えられました。それは愛自身が伝説全体を貫き通すテーマです。それは燎原の火のごとき勢いをもって人心を炎に焼きつくしたと言ってよろしい。それは愛によって始まり、そして死をもって終る愛、否、死後にまで続く愛なのです。人々は、そうした愛の到来を待ち望んでいたのにちがいないのです。
ケルト渡来の伝説 ~宿命の愛と死
ケルト渡来のトリスタン伝説を聞いた流布本の最初の作者は、強い感動を覚えたにちがいありません。彼はトゥルバドゥールの謳う貴女崇拝の観念をうちに存しながらも、それが永遠の愁訴に終るような恋愛感情ではなく、全き恋愛、そして仮の、一時期の恋情ではなく、死に到るまでの、言葉を替えて言えば、全生涯にまで持続する愛を描こうとする構想をもったものでした。人物の配置はトゥルバドゥールのそれをそのまま踏襲する。すなわち貴女と騎士、――それは既にしてケルトの伝説がその形を損しています。しかもその貴女の夫はといえば騎士の主筋に当る高貴の人物、すなわち王者。
いまもしこういう社会的はいけいと主要人物の組み合わせによってケルトの伝説を現代的に描こうとすれば、勢い伝説に種々な改変を加える必要があったと思われます。その最も根本的なものは、既に述べたように主要人物を結びつける契機としてのケルトの《禁忌》と《証兆》、これを《フィルトル》(愛の飲料)に置き替えたことです。同じフォークロア的素材であるにしても、聴衆ないし読者の納得性がまったくちがう。粗本の作者は、これに宿命的な意味を持たせて、これを飲むものは永遠に結ばれて別れることがない、しかもフィルトルの有効期限を三年(あるいは四年)と限定したのです。この全き有効期間にあっては、恋人は愛の自律性によって一日たりと離れて生きることができません。その間にあっては、愛は全き盲目性をもって生き、自己保存のためにはいかなる策謀と自己防衛をもこれを辞さぬというほどの強さです。完全なエゴイズムか、全き反社会的か、むしろ彼等は善悪の彼岸を超えて Amoral の境地に生きるわけです。それどころではなく、神も自分たちの見方であるとさえ信じます。
しかし不思議なことに、こういう彼らの生活と行動に、作品で見る限り、作者も、民衆も、同情的であり、そういう彼等を追及する宮廷のアンチ・トリスタン的精力、いわゆる(悪人ども)を、つねに憎悪するのです。それはトリスタンが英雄であり、かつてコーンウォールの自由のために戦った戦士であり、イズーが若くて優雅で美しいからというばかりでなく、彼らの行為が、愛のオートマチズムの故であることを譲らずしてしかもそれを理解し、好ましいとする人情のせいではなかったのではないでしょうか。
こうしてある帰還が過ぎると、ある日突然に二人のこころに変化が起きる。彼等は互いに他を顧みて、それぞれ相手を不憫に想う。これはこれまでまったくなかったことです。そして不憫は反省を生み、反骨は悔恨を生みます。これはしかし愛の自律性が壊れたのではない。それに制裁を加えることも覚えるのです。こうして彼らは離れて生きることができるようになる。けrどそれは愛の力が衰えたというのではない。それどころか、堰き止められていた水があふれると、その勢いを増すように、トリスタンは折りを見つけては変装したイズーを城に訪れてゆきます。これもまた愛のオートノミーがそうさせるのです。そして自分が動けなくなると、相手を呼び、そしてそれが二人の死を招くというわけです。
このようにケルト渡来の伝説を受けて、最初に物語に仕組んだ作者は、トゥルバトドゥールのミスチックな、もしくは観念的な、一方通行的な愛の詩では満足することができなかった。このことは、今日にまで残されている当時の、また後の時代のトゥルバドゥールやトゥルヴェールたちの多くがその物語を読み、いかに感激したか、そして恋人たちの行為にいかに共感することの深かったか、それを、今日にまで残されている彼らの告白や詩作品の中に見る暗示が、逆に証明してくれるように思うのです。
このように流布本最初の作者はフィルトルという一枚のカードを握っていて、トリスタンとイズーの間の愛の成立をまことに巧みに説明したのです。このフィルトルは元来マルク王とイズーのためにその母親によって醸し出されたものでした。それをトリスタンとイズーが誤って飲んでしまった。いわばそれはブランジァンの過怠による偶然によって生じた。この偶然が起るまで、イズーの心の奥底にはいくらか不透明さは残るが、トリスタンにおいてはイズーは完全にマルク王のために捷(か)ちえた恩賞であって、そこには妃たるべきイズーに寄せる主と従との感情があるのみで、情熱的には赤の他人でったはずです。それがこの偶然によって結ばれる。偶然にはまだ主体性はないが、それは一種の賭でもあるのです。裏か表か、それをきめるのが賭ですから。その賭を決めるのが神であるとするなら、《神の御心のままに!》はまた必然とも言い換えてよいのではありますまいか。そこからこの最初のトリスタン物語の《愛》は逆に宿命とも言えると思います。トリスタンとイズーは宿命によって結ばれたと。フィルトルというカードが裏目に出た、偶然がこれを支配し、そして彼らは生と死において結ばれた、と。言わば流布本の愛はかく課せられた愛、それゆえ恋人たちはつねに神が味方であると思っており、またそう念じてもいるわけです、そして読者もまた。
愛の顕在化とフィルトル
これに反してとマーゴットフリートの系列が代表する風雅体物語に見る愛はちがいます。フィルトルは何といってもトリスタン伝説の《紋章》ですから、もちろんそれは当然のことながらここにも出ています。ところが流布本では、愛はフィルトルによって課せられた愛であるのに対して、風雅体系の中では愛は当事者のあいだにフィルトル以前から早くも芽生えていて、曲折はあったにしても、それはフィルトルにおいて(よってではない)完きなものとなる、そう言った愛だと思います。
予定の紙数の関係で詳しく申し述べられませんが、トリスタンとイズーの間にはトリスタンの最初のアイルランド漂着の砌(みぎり)から、既にういういしい初花のような愛情が芽生え、それが洗剤意識となって地下を流れる水脈のように、それ以後ずっと隠れ続いていたことは、瀕死の重傷を癒やすため友カレルダンをコーンウォールの妃イズーの許に遣わして、述べさせる言葉の中に、「昔、身に受けた傷を癒やして下さったころの二人のあいだの、あの清らかなまことの愛のあの喜悦と友愛の証しのこと、また、海上で一緒に飲んで、愛に身を焦がしたときの、あの飲み物(ポアーブル)のこと……」(トマ・249-294行)というトリスタンの述懐から見ても明らかで、これまでずっと培われていたその愛の花が、流布本で見るようにこの時偶然に炸裂開花したのではなく、フィルトルを契機として、愛自体が顕在化したのだと思います。そういう訳から、彼等は相逢う機会がある時には、選び取った恋人どうしとして、いわゆる(純正の愛)(Finamor)に導かれ、後ろめたさの感情などみじんもなく、堂々と会っております。
次に、トマの風雅体が描く恋愛が流布本のそれと異なるもう一つの相違は、フィルトルの効力に期限がついていないことです。流布本では三年ないし四年が過ぎると効き目が低下するのですが、トマの本にあっては威力は低下するのではなく変質をする。別れ別れに生活していると相互の思慕はますます募る。情念が吐け口を持たぬとき、性的錯乱狂気が亢(たか)まり、それは嫉妬の感情を惹き起こす。 残存するトマの物語の最初に近いスネイド断片約八百行は、まさに離れて暮らす恋人どうしの、特にトリスタンのそういう意味での病理(性的錯乱)と心理(異常なまでの嫉妬)の炸裂などの延々たる証述であることに読者は唖然とするくらいです。そしてこの同じ嫉妬が、トリスタンの妻の白い手のイズーの心に籠もると、終にそれが恋人二人の死の引き金となるのです。
*
以上私はトリスタン伝説の証兆または紋章のようになっている《フィルトル》を忠臣にして流動する物語の変化をたどってきましたが、最後にベディエのこの本の執筆について一言付加しておきます。ベディエのトリスタン研究は記録に見る限り1885年に初まり、大著 Le Roman de Tristan par Thomas, poême du Ⅻ。 siècle, per Joseph bediet, 2 vol. は、1902-05年に刊行されました。この書がベディエちょの主著の一つであることは言うまでもありませんが、またこの書ほどトリスタン伝説研究に貢献した書もありません。今日でもトリスタン伝説の研究はこの書を踏み台にするのでなければできません。もちろんこの二十年間彼はこの研究だけに没頭していたのではなく、なお多くの研究著述をしておりますが、コーンウォールの恋人たちのことは一日たりともその念頭を去らなかったのではありますまいか。
このささやかな訳書の原書 Le Roman de Tristan et Iseut は、ベディエの長い研究のあいだに、徐々に凝集してきた上澄みをそっとすくってできた副産物か、または余戯か、そうでなければ精魂こめてフランスにおける最初の、彼のいういわゆる歩けチープ、すなわちこの伝説の原型の内容がこうもあったであろうかと考えた、その美しい構図か何かであったのではなかったかと、そんなふうに私は考えるのであります。
文 佐藤輝夫 1985年1月