Towa Tei の Sweet Robots Against The Machine – Free
我が家で大人気のTowa-Teiさんの『Sweet Robots Against The Machine – Free』。
正直、こんなアーティストがいるとは知らなかったし、この系統の音楽もほとんど聞かないんだけど、Sweet Robotsにはハマった。
麻生久美子ちゃんと桃生亜希子ちゃんの演じる動画もとってもキュート。
国宝ものの美しさです。
※ YouTubeの動画は、外部サイトで再生できないので、綺麗な画像で観たい方は下記のリンクからどうぞ。
https://youtu.be/Rew1UrV2Ix8
※ ニコニコ動画の埋め込み。コメントが見苦しい方はオフにしてね。
※ Spotifyで聴いてみる
こちらがデニス・ウィリアムスの歌うオリジナルの『Free』。
原曲はスローバラードです。
【音楽コラム】 日本人女性のSweetな魅力
私のように金髪碧眼の世界に身を置いていると、日本女性のふっくらとした肉の柔らかさや、蜂蜜みたいな肌のなめらかさ、黒いつぶらな瞳がとても魅力的に見える。
金髪のお姉さんたちも、確かに綺麗だ。
しかし、骨格標本のような線の細さや硬質の肌、メリハリのない白い肌やガラスのような青い瞳は、まるでブティックのマネキンみたいで「抱きしめたい」という気持ちにはならない。
見るにはいいけど、抱いて温もりを求めようとは思わない。
西洋の男性が東洋の女性に興味を持つのも、こうした理由が大きいだろう。
このビデオクリップを見ても、麻生久美子ちゃんや桃生亜希子ちゃんの美味しそうで、柔らかそうなこと。(表現がおっさんみたいやけど……)
お肌もぷるぷるで、指でつんつんと突きたくなるくらい。
近頃は「痩せたい。できれば金髪のスーパーモデルのようになりたい」と願う女性も少なくないけど、あれはシャネルやジバンシィのような高級モードに身を包むから映えるのであって、普通にジーンズやTシャツ姿で過ごす分には、東洋女性のふっくらした体型の方が絶対に魅力的だと思う。
実際、白人女性が、東洋女性のような健康的な肌の色に憧れていることは、町の至る所にあるソラリウム(日焼けサロン)を見ればわかる。
日本女性が「美白」を追求するように、こちらの女性は「ブロンズ ジューティ(黄金の肌)」が憧れで、夏にコスメ・ショップにいくと、うっかり「日焼け用クリーム(防止用ではない)」を買ってしまう恐れがあるほど。
「女の無いものねだり」は東西共通かもしれないが、白人女性が「黄金の肌」に憧れる気持ちは、日本女性が美白にこだわるより、ずっと強いかもしれない。
何故かといえば、黄金の肌には、溌剌とした生気を感じるからだ。
同じように微笑んでも、白人女性の微笑みと東洋女性の微笑みには決定的な差異がある。
失礼を承知で言うなら、東洋女性の微笑みは「肉感的」という点で、白人女性より、はるかに美味しそうなのだ。
だから、日本人女性の皆さん。
硬質で深みのない白い肌や骨格標本のような体型に憧れる必要はない。
自らの美しさをもっと誇ればいい。
外に出れば、きっと分かる。
日本女性は自分たちが思っている以上に魅力的だということが。(褒めすぎ??)
CDとSpotifyの紹介
『Sweet Robots Against The Machine – Free』はこちらに収録されています。
日本の女の子はSNS下で絶滅したかもしれない
それにしても、麻生久美子ちゃんと桃生亜希子ちゃんの溌剌と可愛いこと。
これは彼女らが元々、美人だからではなく、内面が顔に表れているからだろう。
本来、女の子というのは、「若い」というだけで万能感にひたれるものだし、それがまた許される年代でもある。
逆に自信もなく、元気もなく、変に謙虚な方が問題で、それこそ Sweet Robots Against The Machine みたいに、世の中全てに反抗してもいいんだ。
何故なら、それが『女の子』だから。
可愛いは正義。
美しさは天性。
長い人生のほんの数年でも、動画の麻生ちゃんや桃生ちゃんみたいに、のりのりで踊ったり、自転車で駆け回ったり、些細なことで笑い転げたり、溌剌と、楽しい時間をもてた女の子は、そこから先の老いや迷い、不安や苦労にも打ち勝つことができるのだ。
この動画を見ていると、遠く過ぎ去った春の時代を思い出す。
いろいろ辛いこともあったけど、友だちとカラオケで歌ったり、小旅行に出掛けたり、本当に楽しかった。
女の子は、みんな彼氏が欲しいはずと思うかも知れないが、人生のある時期においては、男性と付き合うより、気の合う女友だちといちゃいちゃつく方が楽しいこともある。
おそろいのファッション。おそろいのバッグ。おそろいのコスメ。
朝から晩までお喋りするのが楽しくて。
お茶を飲むのも一緒。トイレに行くのも一緒。
傍に「レズビアン」と揶揄されても、決して離れようとせず、「○○ちゃんが死ぬなら、私も死ぬ!」みたいな勢いで。
そうした思い出があるからこそ、年を取ってから孤独に感じたり、若さに執着することもなくなるのだ。
あれだけ楽しんだのだから、もういいよね、みたいな。
逆に、若い時代を萎縮して過ごせば、そこから先の人生もずっと萎縮したものになる。
あるいは萎縮の反動で、あらぬ方向に引っ張られる人もあるかもしれない。
どのみち、若いエネルギーを持て余し、燃えることさえできなかった虚無感は、人生未完の苦い思い出となって、いつまでも心を苦しめるだろう。
たかが自転車、たかがカラオケと思うかもしれないが、大好きな友だちと笑い転げた日々は、そこから先の数十年を永久に照らす不滅の光なのだ。
その点、今の若い女の子が気の毒に思うのは、常に誰かに見張られ、評価され、自分の魅力や才能といったものが数値化されて、全国区で見世物になるからだ。
昭和の時代なら、せいぜい学内で美貌を争う程度だったのが、今では世界中の何万、何十万の同性代の女の子がライバルで、たとえ一人に深く愛されても、100万のイイネがもらえるセレブには到底叶わないと思う。
一人の友人、一人の励ましなど、100万のイイネの前には褒め言葉にもならず、自分より美人で人気のあるアカウントを眺めては、「私はダメだ」と落ち込む日々。
そんな精神状態で、どうして青春を謳歌できるだろう?
ずっと以前、YouTubeのコメントで、「最近のアイドルはいつもビクビクして、表情も硬い。昭和のアイドルはもっと生き生きと輝いていた」という書き込みを目にしたことがあるが、本当にそう思う。
容姿に限らず、持ち物、発言、ライフスタイル、全てがデジタル界の見世物で、ちょっとでも粗相をしようものなら、たちまち炎上、謝罪。
自分では頑張ったつもりでも、また知人に高く評価されても、イイネがたくさん付かなければ意味がないし、実力はあっても仕事は来ない。
こんな状況で、どうして麻生ちゃんや桃生ちゃんみたいに明るく笑い転げることができるだろう?
動画の彼女たちは、本当に日本人らしい、日本人の女の子に感じる。
日本人らしさとは何かといえば、真面目でキュート、ふざけても上品、自分の世界を大切にして、他人がくだらないと思うものにも目を輝かせる感性の豊かさだ。
それは長く外国暮らしをしていると、よく分かる。
日本人女の子の可愛さは、とにかく尋常ではないから。
でも、そんな輝きも、SNS監視社会と評価経済の中で失われつつある。
女性の自立、個性の時代と言いながらも、カメラの前で、ウケ狙いのポーズを作っている昨今の女の子を見ていると、一体、彼女らは誰のために歌い、誰のために人生を生きているのかと思う。
好評価と引き換えに、本来の自分を押し殺し、意見も、振る舞いも、ウケのいいように演じているならば、いつか『カメラの前の私』は、やがて訪れる老いと孤独の中で、それらが何の慰めにもならないことを悟るだろう。
何故なら、あの日、砂浜で飛び回っていた私は、「本当の私」ではなく、「カメラを意識した私」だからだ。
わかりきったことだが、若さも、美しさも、あっという間に過ぎ去る春の夢みたいなもの。
ならば、春の空を飛び回るツバメのように自由に生きた方がいい。
みっともなくても、若いというだけで全てが許される。
いつか全速力で自転車を漕ぐ力もなくした時、それでもいい人生だったと納得できるのは、イイネの数ではなく、麻生ちゃんや桃生ちゃんみたいな友だちと夜遅くまで笑い転げ、歌ったり、踊ったり、パワフルに過ごした思い出だけだから。
追記 2021/08/29