どんな育児の辛さにも、「時間薬」という魔法があって、夜泣きで悩もうが、癇癪に泣こうが、たいていは期間限定の苦しみで、いつかは時間が解決してくれるものです。
この「時間が解決してくれる」という希望は、どんな育児アドバイスよりも有効で、「あと1~2ヶ月の辛抱」「半年もすれば状況が変わる」と思えることは、私にとって、この上ない心の支えだったりします。
が、反面、時間とは残酷なもので、私から若さを奪うと同時に、子供を否応なしに大人にしてしまいます。
十年後、育児が一段落ついた時、どんなに望んでも、ちいちゃい我が子を庇うようにして、胸に抱きしめることは出来なくなるんですよね。
子供が一歩一歩、成長して、あれもこれも出来るようになるのは、この上ない悦びであり、育児の泥沼にいる者には、憑き物が落ちるように楽になることなのですが、その分、その時にしか味わえない幸せも遠ざかっていく訳で、そう考えたら、我が子の成長を「早く、早く」と望むのは、非常に勿体ないような気がします。
今月、上の子は二歳になり、去年の今頃に比べたら、本当に多くの事をこなせるようになったと思います。
しかし、私は、歩き始めた頃の息子の手を引いて、毎日のように公園で遊んでいた頃のことが非常に懐かしい。
下の子の世話で精一杯で、息子のことは、ほとんど、父親やベビーシッターさんに任せている――任せざるをえない状況にある今、あの一時が、自分や子供にとって、どんなに輝いていたか、今さらのように思わずにいません。
もう一度、よたよた歩きの息子の手を引いて、滑り台に乗せたり、お砂遊びをしたいと思っても、もうあの頃って、二度と戻って来ないんですよね。
育児が辛い時、私たちは、ついつい「早く成長しろ、早く出来るようになれ」と思ってしまうけれど、それは同時に、別れの日々でもある訳で、育児が楽になったと万歳三唱した時には、同じだけの悦びが失われているのだなあと感じます。
最近は、術後の傷も回復して(帝王切開だったので)、余裕のある時は、息子と公園に遊びに出かけることも出来るようになりましたが、それもまったく叶わない――出産さえ済めば、また以前のように、息子をぎゅっと抱きしめられると信じていたにもかかわらず、傷の痛みでしばらくは遠ざけざるをえなかった時――私は、息子がよちよち歩きを始めた頃の写真を見ては、よく泣いていました。
あの頃も、夜泣きに悩まされながらも、一所懸命、遊び相手をし、離乳食を食べさせ、なんだかんだと頑張っていたけれど、それでも足りなかったような気がして。
振り返れば、やっても、やっても足りない。
それが育児なのかな、とも思います。
もちろん、後を振り返った今だから、思える事だけど。
街角で、自分でスタスタ歩いて、食事もこぼさず食べて、車道と歩道の違いがしっかり分かって、着替えもトイレも全部自分で出来る子供を見ると、
「ああ、羨ましい~。いつになったら、あんな風になるのかしらーー」
と、溜め息が出ることもあるけれど、一方で、いつまでも、手乗りザルみたいな赤ちゃんでいて欲しいとも思う。
母親って、複雑なものですね。
初稿: 2006年7月3日(月)