映画『ターミネーター』の魅力 ~サラの『写真』と時間軸
作品の概要
ターミネーター(1984年) ー The Terminator (PC用語でお馴染みのターミネータ = データ流出を防止する装置、あるいはデータの完全抹消の意味)
監督 : ジェームズ・キャメロン (クソ映画『殺人魚フライングキラー(ピラニア)』で煮え湯を飲まされたキャメロンにとって起死回生の作品となる)
主演 : アーノルド・シュワルツネッガー(ターミネーター)、マイケル・ビーン(未来戦士カイル)、リンダ・ハミルトン(サラー・コナー 救世主ジョン・コナーの生みの母となる)
吹替え版は、玄田哲章の美声を楽しむことができる。
ターミネーター:アーノルド・シュワルツェネッガー(玄田 哲章)
カイル・リース:マイケル・ビーン(宮本 充)
サラ・コナー:リンダ・ハミルトン(佐々木 優子)
トラクスラー:ポール・ウィンフィールド(宝亀 克寿)
ブコビッチ:ランス・ヘンリクセン(仲野 裕)
あらすじ
平凡なウェイトレスのサラ・コナーは、ルームメイトのジンジャーと代わりばえのない日常を送っていたが、ある時、ショットガンを手にした巨漢の男=ターミネーターがジンジャーとボーイフレンドを殺害し、音声認識によってサラの居所を突き止める。何も知らないサラは、ディスコで襲われそうになるが、未来から来たカイル・リースに救われ、二人は脱出する。
カイルから、人工知能「スカイネット」による世界終末戦争や殺人マシーン・ターミネーターの話を聞かされるが、サラは信じようとしない。逆に、カイルは殺人犯として警察に勾留され、二人を追ってきたターミネーターに再び襲撃される。
ようやくカイルを信じる気になったサラは、カイルと結ばれ、逃走を試みるが、ターミネーターは執拗に二人の後を追い、カイルも重傷を負う。
果たして二人はターミネーターに打ち克ち、無事に逃げ切ることができるのか……。
見どころ
近未来アクション『ターミネーター』は、1984年、ジェームズ・キャメロンの主導で製作されました。
優れた素質を持ちながらも、『殺人魚フライングキラー』という、噴飯もののピラニア映画を作って酷評されたキャメロンが、絶体絶命の境地で作り上げた本作は、低予算にもかかわらず、「無敵の英雄の母となる女性を未来から殺しにやって来る」という斬新な設定と、ムキムキマッチョのアーノルド・シュワルツネッガーの肉体的迫力、哀愁の未来戦士を演じるマイケル・ビーンの甘いマスクが相成って、空前のヒットとなりました。
なぜ、世界中の映画ファンがターミネーターに惹きつけられたのか。
それは、設定、特撮、ストーリー、全てにおいて「新しかった」からです。
従来のヒーローものは、主役と敵が一対一で勝負する、決闘型アクションが主流でした。
ところが、ターミネーターでは、未来の英雄の母となる女性がターゲットであり、ヒーロー(この場合、ジョン・コナー)と敵(ターミネーター)が直接対決することはありません。
敵の標的はただ一つ、「生みの母」であり、歴史ごと葬り去る……という設定が、有りそうで無かったんですね。
次に、母となるサラ・コナーを守るために未来から遣わされた戦士カイル・リースも、アベンジャーズのような無敵のヒーローではありません。
よく考えたら、未来から強力な武器を携えてくればいいのに、彼は丸裸で現代にやって来て、ガンショップで旧式のショットガンを盗み、現代の武器で未来の殺人マシーンに対抗しようとします。(ちなみに、カイルが遣うショットガンは、キャメロンが監督した『エイリアン2』でヒックス伍長を演じたマイケル・ビーンにも持たせています。ファンサービス)
やっつけても、やっつけても、執拗に追ってくる殺人マシーンを相手に、そんな小っちゃい手投げ弾や旧式のショットガンで、どうやって戦うつもりなのかと、見ているこっちが首を捻りたくなるような非力さと、まるで少女マンガの王子様のような繊細さが、従来のマッチョなヒーローのイメージを覆し、女性ファンを虜にした理由も大きいと思います。
これがもしアベンジャーズのようなヒーローだったら、『ターミネーター』はここまで人の記憶に残ることはなかったでしょう。
武器もなく、味方もなく、ただただ、己の身ひとつでヒロインのサラ・コナーを守る姿に、映画ファンは最後まではらはらさせられ、伝説のエンディングに心を鷲づかみにされたのだと思います。
なぜターミネーターは永遠の名作となり得たのか
本作の特徴は、『写真』という小道具が非常に印象的に使われていたことです。
カイルが成人したジョン・コナーから「僕の母親だ」と手渡され、いつも肌身離さず身に付けていた、古ぼけたサラ・コナーの写真。
凜としながらも、どこか悲しげな彼女の表情にカイルは心惹かれ、胸の中で思い巡らせます。
「この写真を撮った時、彼女は何を想っていたのだろう」と。
それがエンディングにぴたりと重なり、「あっ!」と叫びたくなるのが、本作の並外れた点です。
ラストにどんでん返しが用意された作品は数ありますが、『ターミネーター』ほどロマンティックで、時間軸を活かした脚本はまたとありません。
サラが口に出して言わなくても、この写真が撮られた時、「彼女が想っていたこと」は一目瞭然で、それがポラロイド写真のように観客の胸に焼き付くんですね。
そして、それに続く、子供の叫び声。
「あの子は何と言っているの?」と、ガソリンスタンドの男性にサラが尋ねると、
「『嵐が来る』と言っています」
「……知ってるわ」
黒雲に向かって、一直線にジープを飛ばして行くサラ・コナー。
まるでSF西部劇のように風雲急とした構図の中に、「ダダン、ダダン、ダンダン」という例のテーマ曲が流れ……
このあたりの演出は、もはや芸術です。
あの酩酊感は、そうそう体験できるものではありません。
スクリーンにエンドクレジットが流れる頃には、「凄いものを見せてもらった」という気分になる。
その後、ジェームズ・キャメロンが何を見せても――たとえ『タイタニック』でアカデミー賞を総なめにしても――『ターミネーター』の酩酊感には到底及ばない所以です。
確かに、『タイタニック』は凄い。
でも、それ以上の感想はない。
その点、『ターミネーター』は、「あれを劇場で見た」「リアルタイムに体験した」という、観賞そのものがレジェンドになるほど、インパクトがありました。
今となっては、映像の古さもあり、若い世代にはその凄さは伝わりにくいかもしれませんが、本作を抜きに20世紀後半の映画史は語れません。
SFアクションというカテゴリーから、観客の意識はどうしてもメカやガンアクションに集中しがちですが、『写真』という小道具に注目すれば、いかに練られた作品であるか、よく分かります。
物語作りを勉強する上でも、お手本のような作品と言えるのではないでしょうか。
時を超えて、僕は君に遭いに来た。君を愛している ~哀愁の未来戦士
『ターミネーター』では、アーノルド・シュワルツネッガーばかりが注目されますが、哀愁も未来戦士、カイル・リースを演じた、マイケル・ビーンもいい味を出してたんですよ。腰砕けの優男みたいで。見てるこっちがはらはらする。
カイル・リースの役どころは、いわば、使い捨ての駒ですね。
レジスタンスのリーダー、ジョン・コナーは、二度とこちらの世界に戻れないことを前提で、カイル・リースを現代に送り込む。
そして、カイルもそれを承知でタイムマシーンに乗る。
二人の間に、どんな会話があったのかは知りませんが、カイルにとって、ジョンは英雄の中の英雄だったのでしょう。
「この女性を守れ」と言われたら、たとえ火の中、水の中。
英雄の母たるサラ・コナーを守ることが人類救済になると想えば、たとえこちらの世界に戻れなくても、自ら買って出るのが戦士というものでしょう。
それにしても、現代に送り込まれたカイル・リースが、現代のぴちぴちギャルを目にして、浮気するかも・・・という疑念はなかったのか、ジョン・コナー?
いやいや、それはカイルの戦士としての資質を見込んでのことでしょう。
最初は任務として引き受けたカイルですが、サラと行動を共にするうちに、彼女を愛するようになり、サラは息子ジョンを身ごもります。
この「時を超えて、僕は君に遭いに来た。君を愛している」という世界観が、SFアクションに興味のない女性ファンのハートも鷲づかみにしたのでしょう。ついでに男前だし ^_^
カイル・リースは、さながら、一夜だけ愛を交わして息絶える、蜻蛉のような存在。
その儚さが、どこか男性性の宿命を思わせ、観客の心に馴染んだのでしょう。
あれほど活躍したにもかかわらず、後世語り継がれるのはシュワルツネッガー(ターミネーター)のことばかり。
その点でも、マイケル・ビーン(カイル・リース)の影の薄さは共通しています。
でも、それがかえって幸いしたのかもしれません。
本作に、二人もヒーローは要らないから。
いろんな意味で、哀愁が漂う戦士です。
第四作『ターミネーター・サルベーション』
その後、第二作、第三作と作られ、あまたの続編と同様、ターミネーターの神秘性もだんだん損なわれて、延々と続くスター・ウォーズのように陳腐なものになってしまいましたが、第四作の『ターミネーター・サルベーション』は良かったです。
いわば第一作の前日譚となるサルベーションでは、少年時代のカイル・リースと、ターミネーターのプロトタイプとなるマーカス・ライトの心の交流を中心に、『審判の日』に至る予兆をドラマティックに描いています。
本作の特徴は、ジェームズ・キャメロンの世界観を忠実に踏襲しながら、まったく新しい切り口で物語を一から構築した点でしょう。
サルベーション(Salvation)とは、魂の救済。
そして、それは誰の魂を意味するのか。
勘のいい人なら、プロローグを目にしただけで、ピンと来るはず。
ファンなら誰もが知りたかった、ジョン・コナーと「未来の父」であるカイル・リースとの出会い。
そして、ターミネーター T-800 の誕生。
決してセンチメンタルに走ることなく、「息子」と「父」の出会いをスリリングに描いた本作は、それ以前の続編『ターミネーター 2』と『ターミネーター 3』にがっかりさせられたオールドファンを再びターミネーターの世界に連れ戻すに十分でした。
苦悩するヒーローを演じさせれば当代随一のクリスチャン・ベール(ジョン・コナー)を筆頭に、横顔が印象的なロシア系俳優アントン・イェルチェン(若き日のカイル・リース)、エキゾティックな美女、ムーン・ブラッドグッド(女性兵士ブレア・ウィリアムズ)、優美な中にも凜とした逞しさを備えたブライス・ダラス・ハワード(ジョンの妻・ケイト)らが、荒廃した未来社会に人間らしい彩りを添えます。
また、物語の重要な核であるマーカス・ライトを、『AVATAR』でお馴染みのサム・ワーシントンが人間味あふれる半機械のキャラクターを印象的に演じ、「なぜターミネーターと戦うジョンが、自分のボディガードとして未来社会にT-800を送り込んだのか(ターミネーター 2 の世界観)」という理由を十分に納得させるものでした。
あれほどまでに強烈なインパクトを与えたアーノルド・シュワルツネッガーの後任となれば、俳優自身も身構えて、演技が不自然になったり、やたら背伸びしたり、見苦しい点が見受けられるものですが、本作のサム・ワーシントンは、シュワちゃんの面影を受け継ぎながらも、マーカスという新しいキャラクターを創造し、ファンの期待を未来に繋いでくれたように思います。
また、若き日のカール・リースを演じたアントン・イェルチンも、繊細な中に生え抜きの戦士らしい逞しさを感じさせ、マイケル・ビーンが演じた『哀愁の未来戦士』にふさわしい存在感でした。
まだ戦士として完成されてないカイル・リースが、前作でお馴染みの「ショットガン」を放つ場面は、第一作以来のファンを喜ばせるに十分だったと思います。
情報では、既に再三部の構想が立っており、『ターミネーター5』がお目見えする日も近いようですが、続編では、スカイネットがタイム・トランスポートに侵入し、未来社会にターミネーターを送り込むまでのプロセス、そして、若き日のカイル・リースがいかにして「伝説の女性 サラ・コナー」に憧憬を抱くようになったかが、重要なポイントになるでしょう。(※ 完全に期待は裏切られました。のび太と化すジョン・コナーは見たくないです)
カイルの気持ちはともかく、母サラ・コナーを守るため、彼を未来に送り込むジョンは、カイルの運命がいかなるものか知った上で決断するわけだから、そこで躊躇しないはずがない(いわば、自分で父親を殺すようなもの)
そして、カイルも、なぜ数いる戦士の中から、ジョンが自分を選んだのか、その理由を知りたいと思うはずだ。
そのあたりをどう描くかで、新シリーズの真価が問われるのではないでしょうか。(※ 私に脚本を書かせて欲しい・・)
おかしな所で設定を作り替えて、『審判の日』も回避されたし、カイルも死なずに済んだ――というオチだけは、絶対に止めて欲しいです。
やはり最後はジョン・コナーの手で、きっちり始末を付けてもらいたいものです。
初稿 2009年6月30日
【おまけ】 殺人魚フライングキラー
1982年に公開されたキャメロン監督のデビュー作。
私も、テレビ東京系の『木曜洋画劇場』で視聴しましたが(いつも誰も知らないような低予算スパイ映画やモンスター映画をオンエアしていた)、、
『ピルピルピルピル』という、間抜けな効果音と共にピラニアとトビウオの合成殺人魚が襲いかかってくるシーンは、怖いというより、もはやギャグ。
話の内容はまったく記憶にないけど、『ピルピルピルピル』という効果音だけは、妙に耳に残っている、不思議な駄作です。
しかし、予告編など見ていると、随所に才能の片鱗が見られ、この十数年後、海洋SFアクション『アビス』や『タイタニック』に結実したのも頷ける話です。
ちなみに、キャメロン作品にしばしば登場するランス・ヘンリクセン(ターミネーターでは刑事役、エイリアン2ではアンドロイドのビショップ役)とは、この頃からの付き合いなんですね。確かに、スゴイ。
ピルピルピルピル・・・
【コラム】 ターミネーターの足音が聞こえる ~コンピュータは心を学ぶのか
『ターミネーター』を題材にしていますが、映画レビューではありません。ネットワーク支配に関するITコラムです。
Wireless Wire Newsプログラマー経営学に『人間の知性がコンピュータに打ち負かされる日は来るのか?』という興味深い記事がある。
2045年までに人工知能が人間の思考能力を上回るだろう。
それが未来学者のレイ・カーツワイルが「技術的特異点(シンギュラリティ)」と呼ぶ時代です。
しかし、そのとき我々は一体何を持ってして「人間の思考能力を上回る」と判断するのでしょうか。≪中略≫
するとコンピュータにはいまのところ生への欲望がありません。
それどころか、生と死を理解することができません。死の恐怖もなく、生の喜びもないでしょう。
これだけが、生命と機械を分けるただひとつの分岐点ではないかと私は考えます。
生命は常に変化し続けることでしか生きることが出来ず、変化し続けることによって老衰し、死を迎えます。
その恐怖があるからこそ、人は人を愛し、新たな生命の誕生を祝福するのです。
これらの記述を読んで、私は『ターミネーター2』のエンディングを想起せずにいられなかった。
人類の滅亡を防ぐには、遠い将来、ターミネーターの頭脳となるチップを破壊せねばならない。
すなわち、未来から送り込まれたT-800型、シュワちゃんそのものである。
サラやジョンと行動を共にし、『愛』を学んだターミネーターは、人類の未来を守る為に、自ら溶鉱炉に沈んでいく。
思えば、「自ら死を選ぶ」というのは非常に人間らしい行為であり、この時点で、ターミネーターは人間と同等のものになったと断言してもよかろう。
だが、そんなことを言い出せば、「私は情報の海から産まれた生命体」である『攻殻機動隊』の『人形使い』はどうなるんだ?? という話になり、どんどんサイバーパンクの世界に迷い込んでしまうのだが、人間だって、最初から自分自身を「人間」として認識しているわけではない。
(参考: ”わたし”とは記憶の集積 押井守『攻殻機動隊』が結婚を熱く推奨するワケ
生まれたばかりの赤子は「快・不快」しか分からないし、年を重ねれば自ずと人間らしい知性が身につくわけでもない。
人が『人間』になる」には、人間同士の出会いや学びが不可欠であり、そのプロセスは、学習、行動、内省の繰り返しである。
言い換えれば、今、開発中のロボットも、人間と同じように教育を施せば、人間と同レベルの知性や愛情を身に付ける可能性は大いにある。
何百年先かもしれないが、「技術的特異点」をはるかに超えて、自律的に行動するターミネーターも現実になるかもしれない。
しかしながら、機械を人間に近づければ、近づけるほど、バグは増え、生産力は落ちる。
中には、「考えるのに疲れたから死のう」と、自己判断でシステムを停止したり(Windowsみたい)、何事も先が見えすぎて、『Null (何もない)』しか返せない機械も現れるかもしれない。
あるいは、最高度に自己学習したターミネーターが、「人類の永遠の救済策」として、『終了(ターミネイト)』を選択したとしたら、それも洒落にならない話である。
皮肉にも、機械が人間に近づくことは、機械自身の死を意味し、人が思い描くような代替機械のパラダイスは数百年、数千年かかっても、実現できないであろう。
そう考えると、人類愛を学んで溶鉱炉に沈んでいく『ターミネーター』は、やはりファンタジーであるし、あまりにも人間に近づきすぎたが為に、終了(ターミネイト)を選んだとも言える。
労働を永続するには、心は邪魔だし、考えすぎてもいけない。
それを機械に求めることは、すなわち、人間らしさの放棄ではないだろうか。