谷沢永一の言葉
悟り、という無意味で馬鹿馬鹿しい言葉がある。
生死すなわち迷いの世界を超越することであるらしいが、万一そういう境地に達すれば、それ以後は生きている必要もないであろう。
われわれは如何に生きるかを問題としているのである。
それが迷いとするなら、人間の生存はすべて迷いであると観念すべきではないか。人倫、すなわち社会の人間関係、この人倫について深く考えることこそ人間の生きる道なのだ。人倫を外にして道なし、と伊藤仁斎は喝破した。(『童子問』)
人生の或る一定段階において何かを悟りえるなどの言い方は傲慢の極である。悟った、という奴は大嘘つきであろう。
人生は、所詮、迷い、である。そして、迷い、とはすなわち、学び、にほかならぬのである。
人間にとって、本当に意味のある教科書は、世の中である。
人の世がどんな構造(からくり)になっているか、そんなことを初めから解ろうとするのは無理である。実際に多くの人と交わってみなければ何事も見えてこない。書物を読んであらかじめ知り尽くそうなんて、そんな甘い考えでは結局なにひとつ理解できない。
まず経験してよく反省して、直接に実社会から教えられたことを、整理して納得するための道具がしょもつである。
それなら経験を多く重ねなければならないのか。
決してそんなことはない。
ごく若い時のほんの僅かな経験からでも、よく考えて反芻するなら、世の中がどういう仕組みで動いているか、おのずから見通しをつけることができる。若い時に鈍感でぼんやりしている人は、いくら年をとっても世間が解らぬままである。
人を生かすのも殺すのも「評判」なのです。
世間の誰もが忙しい。人を見るのにいちいち細かく観察している暇がないではないか。人間は他人に非常な関心を寄せるのだが、他人を評価するのに突っ込んだ詮索ばかりもしておれない。
そこで極く大雑把にレッテルを貼ろうとする。
そしてまことに厄介なのだが、いちど貼られたレッテルを剥がすのは不可能に近い。あだ名を消したり変えたりできないのと同じである。だから若いときに良い評判を立てられた人は一生を通じて得をする。もちろん、逆もまた真なり、である。
しかし、たとえ運が強くて良い評判を得たところで、それは必ずしも自分の本体とは一致していないのだと心得るべきである。その心構えさえあれば、悪評にたぶらかされることはないであろう。
「物知り」「理屈屋」が発展すると、「学問のある馬鹿」になります。
いくら知識が豊富であっても、それだけではむしろ弊害の方が大きい。昔の出来事や既に古くなっている物の見方を盾にとって、新しい状況になんらかの反感を抱くようになる所以である。いわんや何事をも理論で割り切ろうとする人は現実を見ていない。知識なんて所詮は古い事柄をたくさん知っているというだけのことである。
そして世にいうところの理論なるものは、その古い時代の材料から引き出した決算報告にすぎない。
知識はえてして足枷となる。
理論はほとんどの場合、自分を縛って前方を見えなくする。
知識や理論に符号しない新たな目前の現実を感知すべきである。
人間の虚栄心をくすぐるのに、「個性的」ほど便利な言葉は見出し難い。
職場での仕事ぶりが至ってのんびり、怠けているという程ではないが、さりとて精励でもなく効率的でもない型を指して、あの人はマイペースでやっている、と評する。褒めようがないけれど、悪口にならぬようにと気をつけて、噂する場合の常套語である。
それよりもう少しひねって、可もなく不可もなしという性格をあげつらうなら、あの人は個性的で、と言っておけば済む。
さらに多少の悪意をこめて、協調性のない扱いにくい人物が、普通に、個性的、と貼札される。つまりは鼻つまみの敬遠である。
個性、などという結構らしい言葉にたぶらかされてはならない。
個性的、とは、変わり者、という意味である。
有能で尊敬されている人は、普通、個性的、などとは評されないようである。
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何か ある絶対視されているものが、論理、議論のなかに登場した瞬間に、それはおかしい、それは誤りである、と考えなければいけない。
人間性はほとんど変わらぬにしても、時代は刻々に変化してゆく。
常に新しい条件が生まれ、異なった状況がたちあらわれる。
われわれは休みなくその変転に即応しなければならない。
何事につけても、これですべてが解ったという境地はありえない。
しかしその限りなき対応はまことに気苦労である。
どこかの地点において、もうそれ以上に考えなくてもよいという認可が欲しい。
この気疲れを癒してやるという名目を掲げて、絶対的な真理と称するものが提供される。それは人間の弱みにつけこんだ偽りの説教である。いったんこの媚薬を服用すれば、思考の停止を許され安堵して尻餅をつくのである。
人の心を動かすものは、才に非ずして誠である。
ほよど根性のねじけた変わり者でないかぎり、才能は人に賛嘆の念を呼び起こす。拍手喝采が鳴り響く。しかしそれは見事に出来上がった工芸品を見るに等しい。彼等はわれわれに何者かを提供する機械である。光輝いてはいても懐かしみの情とは別箇である。それゆえ時には反感を催す。多少の妬みも生じるであろう。少なくとも彼等との間に信頼関係は生じない。
それに対して誠実な人柄は世の人々から頼られる。任せておいても大丈夫ではないかと思わせる。いわんや自分の身辺に誠実な人を見出した喜びは大きい。そしてよほど性悪な人でない限り、誠には誠をもって答えようとする。
誠実な人は他人をも誠実にさせる働きがあるのではないか。
世のいかなる人といえでおも、愛情に餓えているという一面がある。
人間が心の底から頼りにするのは人間である。
いかなる名声を博しようとも、政界にせよ文化界にせよ、そこにはどうしようもない天敵がいるし、まわりにも折りあらば引き摺り下ろそうと待ち構えている曲者を見出す。
成功して富を蓄えれば、世をあげて嫉妬されるのが落ちである。
どちらを向いても、世の中は油断がならない。よほど神経が強靭で孤独に徹する人は別だが、普通の神経なら憩いの場が欲しい。自分の身を心から案じてくれる人がいれば、どれほど心が休まり落ち着けることだろう。
喜びを共にしてくれる者があってこそ本当の喜びとなる。
人間は自分に共感してくれる人を得て幸福になるようにできている。
愛情関係とは喜び悲しみを共感する間柄を言うのではなかろうか。
人間は常に不完全であり、不完全な人間の思念もまた不完全である。
不完全の自覚こそが人間同士の会話の出発点ではなかろうか。
自分の欠点ばかり数え上げてゆけばきりがない。
よく自分の欠点を直すように努めよと言われる。しかしそれは無用の忠告なのである。
みずからの欠点をあまり気にしていると、自然に暗い気分となり引っ込み思案となる。欠点を直そうと心掛けるのはマイナスの努力である。
それより自分のどこかに長所がないかと、それこそ鵜の目鷹の目で探し、誰にだってある何かの取柄を伸ばせそうと、そちらの方角へ気を向けて努力すべきである。そうすれば自然に張り合いが生まれて陽気になる。
そのかわり、自分にはこれこれの欠点があるのだと自覚して人づきあいに臨めばよい。自分の欠点を知悉しておれば、当然のこと、相手の欠点に対して十分寛容になれるのである。
ハッパをかける、のではなく、慰撫して、いやす、のである。
プロ野球の監督とか、相撲部屋の親方とか、つまりはじめから厳しい勝負の世界に生きようとしている人たちを相手にしている場合は、格別に叱咤する強硬な姿勢も必要であろう。
しかし一般社会において、多少はげしい声をかけて人を奮い立たせようとするのは無駄である。気合を入れたからといって、それに刺激されて人がおおいに働き出すなんて、世の中そんなにうまくゆくものか。
怠け者はもともと性根からして怠け者である。働き者は放っておいても勝手に働く。活を入れて人を動かそうなんて企む人は、よほど世間を甘く見ている。
人を育てる、などと意気込んだって効果はない。よきリーダーとは、押し付け育成など考えず、控えめに、しかし鋭く、人を鑑定する眼光の持ち主のことである。
人間は腹を立てると頭脳が働かなくなる。
論争に勝とうと思ったら、相手がかっとなって怒るよう仕向けるに限るようだ。
一般に、誰かを負かそうと思ったら、平素から準備を怠らず、相手の弱みを握っておくべしといわれる。つまり悪評たかい総会屋の手口である。
それを模倣する奴がまわりにいるかもしれない。
すなわち同僚であるだれかれの性格をよく見定めて、アイツを逆上するほど怒らせるには、どういう方角から攻めて、いかなる言葉を発すればよいか、平素からよく研究している厄介なタイプである。
それゆえおのれが激昂して不利な状態にならぬためには、自分は相手からどういう言い方をされたら、前後不覚になるまで怒るであろうかと、常日頃から反省を重ねておく必要がある。投げかけられるであろう言葉を予知できる訓練が大切であろうか。
人生に必要な赤字の期間を、身をちぢめて恐れる臆病者には、みのり多き黒字が決して訪れぬであろう。
若いときから収入の一部をきっちり貯金にまわし、通帳を眺めて楽しむような人を私は信用しない。いわんや子供のくせにお年玉を貯め込むなんて論外である。手に入る限りのお金をできるだけ有効に、今の自分にとって必要な方面へ、どんどん積極的に消費すべきである。可能な限り親のすねをかじるべし。
若い時ゃ二度ない、と唄の文句にもある。
商売は仕入れが肝心、と言い慣わす。
人生の前半はもっぱら仕入れの期間、と心に決めるべきである。
これは或いは無駄かもしれないと思えることであっても進んで手を出す。
なんでもいいから取り込むことだ。
棒ほど願うて針ほど叶う、という。
必ずあとで取り戻してやる、という意気込みでの出費が肝心であるだろう。
リーダーはどこか人受けするところを持っているものである。
求めて人の歓心を買う姿勢は卑しい。そういう下心ある態度は必ず見透かされる。人間はすべからく毅然としているべきである。
人の世に交わる秘訣のひとつは、卑屈、と、親切、とを混同しない心掛けである。卑屈は身をかがめて薄ら笑いするゆえに醜い。親切は、まずみずから恃むところがあって、実力を蓄えて我が道を行くのを誇りを持し、そのうえで人に手をさしのべるのだから、人は多少とも仰ぎ見るし爽快である。
誰でもが心の奥底で他人に求めているのは、最小限のところ、優しさ、であろう。優しさ、は、心の温もり、から生まれる。精神的体温が他の人よりちょっと高ければ、おのずからひとびとが慕い寄ってくるであろう。
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この国の不条理 Kindle版
PHP研究所刊行の月刊誌『Voice』連載の時評コラム「巻末御免」。本書では、この10年分を集成する。(平成9年1月号分~平成18年12月号分まで)全120編の中に、その時々を映す論点が、著者ならではの眼光で見事に捌かれる。知的刺激に満ちた、読書人待望のコラム集。