谷川俊太郎の詩集『空の青さを見つめていると』『魂のいちばんおいしいところ』より

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谷川俊太郎の詩集『空の青さを見つめていると』

世界が私を愛してくれるので

私が谷川俊太郎さんの詩に魅せられたのは、初期の詩集、『空の青さを見つめていると』に収録されている『世界が私を愛してくれるので』がきっかけです。

私にとって、後にも、先にも、これに優る詩はありません。

世界で最愛の詩です。

世界が私を愛してくれるので

世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる

私に始めてひとりのひとが 与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを 聴いていた

私には単純な悲しみと喜びだけが 明らかだ
私はいつも世界のものだから

空に樹にひとに 私は自らを投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるために ……

私はひとを呼ぶ すると世界がふり向く

そして私がいなくなる

空の青さをみつめていると 谷川俊太郎詩集I

私はひとを呼ぶ すると世界がふり向く そして私がいなくなる」 

この一行に収められた世界観は、実存主義に限りなく近いと感じます。

実存主義とは、分かりやすく喩えれば、元々、実体というものは存在せず、あなたがそれをどう定義するかで、そのものの意味が変わってくる・・ということです。

たとえば、松本零士に漫画『銀河鉄道999』には、メーテルという謎の女性が登場します。

メーテルが何ものであるかは、作中にもはっきり記載されていません。

「鉄朗と一緒に旅をする、母のように心優しい女性」

「女王プロメシュームの一人娘で、勇ましい女戦士」

「時をかける不老不死の人。若者の味方」

読む人によって、印象は様々です。

そして、メーテル自身も、自分が何ものかなど定義することはできません。

だから、劇中でも言いますよね。

(プロメシュームの娘である自分も、鉄郎と共に戦う私も)どちらも私。本当の私なのです

つまり、メーテルという女性に、絶対的な定義は存在しません。

誰かが「メーテルって、勇敢な女性だよね」と思えば、その人の心の中に「勇敢な女戦士のメーテル」が存在するし、「若者にとって夢のような女性」と思えば、その面影が胸に焼き付きます。

映画版のラストでも、若い鉄朗に「私は時の流れを旅する女。青春の幻影」と告げて去って行きますが、まさにその通りで、メーテルが実際に何ものであろうと、鉄朗が「青春の幻影」と思えば、「青春の幻影」なのです。

『世界が私を愛してくれるので』の世界観も、それと同じです。

自分と世界の関わりを謳った詩で、そこに絶対的に定義された「世界」や「私」は存在しません。

世界が「こうだ」と思えば、その通りであるし、自分が思う自分と、世界が見つめる自分は違います。

だから、「世界がふり向く」と、「そして私がいなくなる」んですね。

また、詩の書き手は、「世界が私を愛してくれるので (むごい仕方でまた時に やさしい仕方で)私はいつまでも孤りでいられる」と謳っています。

ここで謳われる『愛』とは、恋人同士の恋愛とは異なる、『意識』と『点』のような関係です。

世界という大きな意識の中に、「私」が点のように存在しています。

「私」に対する、絶対的な定義も存在しないので、世界(他人)が意識した時だけ、私というものが世界の中に現れます。

世界がどのように私を見つめようと、「私」という存在は変わらないので、「いつまでも孤りでいられる」ことができます。

ここでいう『孤り』とは、孤立や寂寥ではなく、Solitude。 俗世から超越した、明鏡止水の境地です。

それを念頭において、残りのパートを読めば、世界の中で、ありのままに生きる豊かな詩情を感じ取ることができるでしょう。

世界とは、自分を傷つけるものでもなければ、賞賛する額縁でもありません。

ただ、存在すればいいのです。

さながら風が木の葉をそよがすように

さながら風が木の葉をそよがすように
世界が私の心を波立たせる

時に悲しみと言い時に喜びと言いながらも
私の心は正しく名づけられない

休みなく動きながら世界はひろがっている
私はいつも世界に追いつけず
夕暮や雨や巻雲の中に 自らの心を探し続ける

だが時折私も世界に叶う
風に陽差に四季のめぐりに 私は身をゆだねる──
──私は世界になる
そして愛のために歌を失う

だが 私は悔いない

人間が饒舌なのは、世界を自分の好きなように解釈したいからです。

しかし、愛は多くの言葉を必要としません。

何故なら、世界との深い一体感があるからです。

私は言葉を休ませない

私は言葉を休ませない

時折言葉は自らを恥じ 私の中で死のうとする
その時私は愛している

何も喋らないものたちの間で 人だけが饒舌だ
しかも陽も樹も雲も 自らの美貌に気づきもしない

速い飛行機が人の情熱の形で 飛んでゆく
青空は背景のような顔をして その実何も無い

私は小さく呼んでみる 世界は答えない

私の言葉は小鳥の声と変わらない

詩人の魂は、世界の奥深くに入って行こうとします。

だけども、世界を言葉で表すには、言葉だけでは不十分なんですね。

時に喋り、時に沈黙する。

沈黙するのは、たいてい、言葉の限界を感じる時です。

私が歌うと

私が歌うと 世界は歌の中で傷つく
私は世界を歌わせようと試みる
だが世界は黙っている

言葉たちは いつも哀れな迷子なのだ
とんぼのように かれらはものの上にとまっていて
夥しい沈黙にかこまれながらふるえている

かれらはものの中に逃げようとする
だが言葉たちは 世界を愛することが出来ない

かれらは私を呪いながら
星空に奪われて死んでしまう

──私はかれらの骸を売る

谷川俊太郎さんの詩は、一言で言うなら、『宇宙』ですね。

誰にも属さず、誰にも真似できない、完全に独立した一つの小宇宙のように感じます。

たとえば、詩を書く人はたくさんいるけれど、本物の詩人は少ない。

有名な詩は多いけれど、天性を感じさせる詩は少ない。

そして、谷川さんは、唯一無二の詩人であり、シンプルな言葉の羅列を芸術の域にまで高められる人という気がします。

ちなみに、お父さまは、哲学者の谷川徹三さんです。

宮沢賢治さんの作品を世に広く知らしめた方です。

京都・祇園の名妓だった岩崎峰子さんの著書『祗園の教訓―昇る人、昇りきらずに終わる人 (だいわ文庫)』の中に、谷川徹三さんとのやり取りが紹介されているのですが、谷川さんの仰る「物事はね、感じたままでいいんだよ」という言葉が今も心に残っています。

空の青さを見つめていると

空の青さを見つめていると
私に帰るところがあるような気がする
だが雲を通ってきた明るさは
もはや空へは帰ってゆかない

陽は絶えず豪華に捨てている
夜になっても私たちは拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない

窓があふれたものを切りとっている
私は宇宙以外の部屋を欲しない
そのため私は人と不和になる

在ることは空間や時間を傷つけることだ
そして痛みがむしろ私を責める
私が去ると私の健康が戻ってくるだろう

孤独というのは、この世の何処にも帰る場所が無いことです。
そんな絶対的に孤独な人間にとっても、空は万人に同じように開かれています。
この世で、そこだけが平等で、恥も過ちも許される。
人が空を見上げる時、恍惚となるのは、自分を愛してくれる存在が何処におわすか、魂に感じるからかもしれません。

Kiss

目をつぶると世界が遠ざかり
やさしさの重みだけが
いつまでも私を確かめている……

沈黙は静かな夜となって
約束のように私たちをめぐる

それは今 距てるものではなく
むしろ私たちをとりかこむ やさしい遠さだ
そのため私たちはふと ひとりのようになる……

私たちは探し合う
話すよりも見るよりも確かな仕方で
そして私たちは探し当てる
自らを見失ったときに──

私は何を確かめたかったのだろう
はるかに帰ってきたやさしさよ

言葉を失い
潔められた沈黙の中で
おまえは今 ただ息づいているだけだ
おまえこそ 今 生そのものだ……

だがその言葉さえ罪せられる
やがてやさしさが世界を満たし
私がその中で生きるために

唇を合わせ、すぐ側に相手の存在を感じているような時でも、人はふと孤独を感じずにいません。
それは、どんな恋人同士も、心と肉体の隔たりを超えて、完全に一つになることは出来ないからです。
探しては巡り会い、巡り会っては見失う。
恋は幸福な幻想と、現実の隔たりの狭間で、不安な波に揺られながら、自分が孤独ではない証を探し求めるようなもの。
だから、時々、口づけて、この恋が本物であることを確かめずにいないのです。

KISS

生長

わけのわからぬ線をひいて
これがりんごと子供は云う

りんごそっくりのりんごを画いて
これがりんごと絵かきは云う

りんごに見えぬりんごを画いて
これこそりんごと芸術家は云う

りんごもなんにも画かないで
りんごがゆを芸術院会員はもぐもぐ食べる

りんご りんご
あかいりんご

りんご
しぶいか
すっぱいか

大人になると、想像力を失うのではなく、
想像を肯定する勇気を失うのです。

大人になってから、それを口にすると、笑いものになるので。

なくしもの

ごくつまらぬ物をひとつ失くした

無いとどうしても困るという物ではない
なつかしい思い出があるわけでもない
代わりの新しいやつは角の店で売っている

けれどそれが出てこないそれだけのことで
引き出しという引出しは永劫の目色と化し
私はすでに三時間もそこをさまよっている

途方に暮れて庭に下り立ち
夕空を見上げると
軒端に一番星が輝きはじめた

自分は何のために生きているのかと
実に脈略の無い疑問が頭に浮かんだ

何十年ぶりかのことであるけれど
もとよりはかばかしい答のあるはずがない

せめて品よく探そうと衣服の乱れをあらため
勇を鼓してふたたび室内へとって返すと
見慣れた什器が薄闇に絶え入るかと思われた

意外なことに、人は大事なものほど無くしやすいのです。
何故って、大事なものは無くさない・・という思い込みがあるからです。
本当は大事なものほど心にしっかり持っておかないといけない。
ちゃんと、そこに在るか、しつこいほど確かめて、
大事に、大事に、持っておかないと、
大事なものほど二の次になって、最後には自分自身が忘れてしまうのです。

夕焼け

ときどき昔書いた詩を
読み返してみることがある
どんな気持ちで書いたのかなんて
教科書みたいなことは考えない

詩を書くときは
詩を書きたいという気持ちしかないからだ

たとえぼくは悲しいと書いてあっても

そのときぼくが悲しかったわけじゃないのを
ぼくは知っている

書く人は、嘘つきです。
何故なら、書く人にとって言葉は作品になってしまうからです。
心から飛び出したものでも、作品になってしまえば、作品として完成されることが第一義になってしまいます。
だから、悲しくなくても悲しいと書けるし、必要とあらば、自分とは違う人間にもなってしまえるのです。

うつむく青年

うつむいて
うつむくことで
君は私に問いかける
私が何に命を賭けているかを

よれよれのレインコートと
ポケットからはみ出したカレーパンと
まっすぐな矢のような魂と
それしか持ってない者の烈しさで
それしか持とうとしない者の気軽さで

うつむいて
うつむくことで
君は自分を主張する
君が何に命を賭けているかを

そる必要もない
まばらな不精ひげと
子どものように
細く汚れた首筋と
鉛よりも重い現在と

そんな形に
自分で自分を追い詰めて

そんな夢に
自分で自分を組織して

うつむけば
うつむくことで
君は私に否という

否という君の言葉は聞こえないが
否という君の存在は私に見える

うつむいて
うつむくことで
君は生へと一歩踏み出す

初夏の陽はけやきの老樹に射していて
初夏の陽は君の頬にも射していて

君はそれには否とはいわない

青年の本質は、うつむいてばかり。
だから、意識して「前向きに」と号令をかけないと、すぐに項垂れてしまう。
自分の力不足から、現実に対する失望から、うつむいてばかりの青年に、己を啓発する言葉ほど心地よいものはありません。
言い換えれば、不格好でもうつむいていられる青年は、十分に自分を楽しんでいるといえるのです。

うつむく青年

一篇

一篇の詩を書いてしまうと 世界はそこで終わる
それはいまガタンと閉まった戸の音が
もう二度と繰り返されないのと同じくらい
どうでもいいことだが

詩を書いていると信じる者たちは
そこに独特な現実を見出す
日常と紙一重の慎重に選ばれた現実
言葉だけとか言えばそうも言えない
ある人には美しく
ある人には分けの分からない魂の
言いがたい混乱と秩序

一篇の詩は他の一篇とつながり
その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり
詩もひとつの世界をかたちづくっているが
それはたとえば観客で溢れた野球場と
どう違うのだろうか

法や契約や物語の散文を一方に載せ
詩を他方に載せた天秤があるとすると
それがどちらにも傾かず時に
かすかに 時に激しく揺れながら
どうにか平衡を保っていることが望ましいと
ぼくは思うが
もっと過激な考えの者もいるかもしれない

一篇の詩を書く度に終わる世界に
繁る木にも果実は実る
その味わいはぼくらをここから追放するのか
それとも ぼくらをここに囲い込んでしまうのか

絶滅しかけた珍しい動物みたいに
詩が古池に飛びこんだからといって
世界は変わらない

だが世界を変えるのがそんなに大事か

どんなに頑張ったって詩は新しくはならない
詩は歴史よりも古いんだ

もし新しく見えるときがあるとすれば
それは詩が世界は変わらないということを
繰り返し僕らに納得させてくれるとき

そのつつましくも傲慢な語り口で

詩人は、詩を書き上げる度に、それまでの自分を完結してしまうもの。
そうして、詩を書く度に、現在の自分と決別するから、未来に足を進めることが出来るのです。
言い換えれば、読者が見ているのは、過去の自分であって、今現在の自分ではありません。
それはいつだって今書き上げた言葉の一歩先にあり、
実体がどこにあるのか、当の詩人自身でさえ分からないというのが本当です。

谷川俊太郎の詩集『魂のいちばんおいしいところ』

谷川俊太郎氏の初期の詩集『魂のいちばんおいしいところ』から、お気に入りの詩を紹介しています。

自己紹介

時に私は

とほうもない馬鹿になり
とりかえしのつかぬ
あやまちをおかし
平然として
キァンティなど飲んでいる

そんな私に誰も気づかない

時に私は

一介の天使となり
すべてを慈悲の眼で見つめ
ゆり椅子におさまって
昼寝している
そんな私に私もきづかない

時に私は

何ものでもなくなり
じわじわと怪物のように時空に滲み出し
水洗便所で流されてしまう

そんな私をフェラリも轢くことができない

内在する「わたし」と、他人の目に映る「わたし」。
自分でも気付かぬ「わたし」と、他人だけが知っている「わたし」。
わたしとは何かと問われたら、きっと多くの人は、自分が知っている「わたし」と答える。
だけども、それが「本当のわたし」かと問われたら、たちまち根拠が揺らいで、何ものでも無くなってしまうのは何故だろう。
もしかしたら、「わたし」なんてのは、何処にも存在しないかもしれない。
自分だけが「これがわたし」と思っているだけで、本当は何でもないかもしれない。
「わたし」から、わたしを開放すべきは、他ならぬ、自分自身かもしれないね。

わたしの捧げかた

絵は窓なのよ わたしにとって
わたしは世界を眺めるの

映画は夢なの わたしにとって
わたしはすぐに忘れてしまう

本はカタログ わたしにとって
わたしはいつか世界を買うわ (多分月賦で)

でも歌は歌なの
いつもいつも わたしは小鳥に負けないわ
そしてあなたはあなたなの
わたしにわたしの捧げかたを 教えて下さい

幸福なんてなんでもないのよ
不幸なんてなんでもないのよ

わたしがわたしになれるなら

つらいこと 悲しいこと
いつでも たくさんあり過ぎて
存在すること自体に耐えられない時もあるけれど
ふと窓を開け放してみれば
わたしが世界をそんな風に見ているだけで
本当は何でもない、という事に気付くかもしれない

幸福も 不幸も わたしの一部
痛みも 悦びも この心の一部に違いないから
どんな時も わたしが感じることを大切にしたい
人生はこの目に映る世界ではなく 
わたしの内側にあるのだから

二月のうた

鳥は空を飛んでゆく
魚は水に泳いでいる

私は地上でいったい
何をしているだろう

そう 私はたとえばあなたに
花を贈ることができる
鉢植えの黄水仙を
うす曇りのこの午後に

あなたをみつめて──

それは歴史とは
何のかかわりもない事だけれど

それはまったく
それだけの事だけれど

人ひとりの存在なんて 草原の花一輪みたいにちっぽけなものかもしれない
必死で叫んでも 恋をしても
長い歴史の中では 閃光ほどの意味もなく
生も死も一瞬で掻き消えてしまう

けれども その何でもない事に
何とたくさんの想いが詰まっていることだろう
歴史の中では一瞬でも
たとえ 他人にとっては何でもなくても

ここに生きて 恋して 泣き叫ぶ自分がいる

世界にとって 意味があろうと なかろうと
この想いを大切にしたい

九月のうた

あなたに伝えることができるのなら
それは悲しみではありはしない
鶏頭が風にゆれるのを
黙ってみている

あなたの横で泣けるのなら
それは悲しみではありはしない
あの波音はくり返す波音は
私の心の老いてゆく音

悲しみはいつも私にとって
見知らぬ感情なのだ

あなたのせいではない

私のせいでもない

本当に大切なのは 愛でもなく 幸福でもなく
あなたという人が在ること
ただ側に居る それが何よりも大事なのだ

いつか愛が返らなくなっても
また私から返せなくなっても
それもまた時の定め
どうして恨んだりするだろう

この平凡な人生
ただ あなたという人に出会った

それが一番大切なのに
傷つこうと 悲しもうと
そんなことは問題じゃない

それよりも 何よりも
今 わたしがここに居て
あなたという人が在る

それ自体に意味があるのだ

魂のいちばんおいしいところ

神様が大地と水と太陽をくれた
大地と水と太陽が りんごの木をくれた

りんごの木が真っ赤な りんごの実をくれた
そのりんごをあなたが私にくれた

やわらかいふたつの てのひらに包んで
まるで世界の初まりのような 朝の光といっしょに

何ひとつ言葉はなくとも
あなたは私に今日をくれた
失われることのない時をくれた
りんごを実らせた人々のほほえみと 歌をくれた

もしかすると悲しみも
私たちの上にひろがる 青空にひそむ
あのあてどもないものに逆らって

そうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂の いちばんおいしいところを
私にくれた

【サブラ姫】 ガブリエル・ロセッティ

【サブラ姫】 ガブリエル・ロセッティ

迷子の満足

右へ曲がれば家へ帰れる十字路を
幼い私はどうして左へ曲がったのだろう

生垣のつづく似たような小道が
異国のどこかのように新鮮だった

今ならまだ迷わずに戻れると
自分にむかって心の中で くり返しながらも
憑かれたように先を急いだのは 何故だろう

どんな目的地ももたずに
体の半分は心細さに泣きながら
もう半分は訳の分からぬ喜びに おどっていた

道から道へただカンだけで 何度も折れて
その夜初めて私は 自分の手で世界に触れた
夕闇のますます濃くなってくる
見知らぬ町かどにたたずんで
ひとりぼっちの私の感じた満足は
あれはいったい何だったろう

烈しい言葉で叱る母親を
幼い私は寛大に許していた
私の初めての冒険の意味は
ただ私自身にしか分からないと知っていたから

最初の一歩は、いつだって、孤独で淋しいもの
でも、その歩みの先に、新しいわたしと更なる道筋がある。
わたしは未知なるものに会いに行くのではなく
本当の自分に出会うために見知らぬ道を行くのだ。

誰にでも運命の第一歩があり
自分でも気付かぬ力を秘めている

冒険が教えてくれるのは
世界の広さではなく
自分という人間の可能性なのだ

明日

ひとつの小さな約束があるといい

明日に向かって ノートの片隅に書きとめた時と所
そこで出会う古い友達の新しい表情

ひとつの小さな予言があるといい

明日を信じて
テレヴィの画面に現れる雲の渦巻き 〈曇のち晴〉
天気予報のつつましい口調

ひとつの小さな願いがあるといい

明日を想って 夜の間に支度する心のときめき
もう耳に聞く風のささやき川のせせらぎ

ひとつの小さな夢があるといい
明日のために
くらやみから湧いてくる未知の力が
私たちをまばゆい朝へと開いてくれる

だが明日は明日のままでは
いつまでもひとつの幻
明日は今日になってこそ 生きることができる

ひとつのたしかな今日があるといい
明日に向かって
歩きなれた細道が地平へと続き
この今日のうちにすでに明日はひそんでいる

書籍の紹介

谷川さんの類い希なるセンスと世界観がたっぷり味わえる初期の傑作集。
「空の青さを見つめていると 私に帰るところがあるような気がする」なんて言えそうで言えません。
まさに天才。
初めての方にもおすすめの一冊です。

空の青さをみつめていると 谷川俊太郎詩集I (角川文庫)
空の青さをみつめていると 谷川俊太郎詩集I (角川文庫)
1952年に『二十億光年の孤独』で鮮烈なデビューを果たし、日本を代表する詩人となった著者の1950年代~60年代の代表作を精選した詩集が、読みやすくなって再登場!著者によるあとがきも収録。

何気ない言葉の中に尽きることのない想いが感じられる。
恋と孤独と悦びのバラッド。
谷川俊太郎のきらめくような詩の宇宙が感じられる傑作です。

魂のいちばんおいしいところ Kindle版
魂のいちばんおいしいところ Kindle版
「あなたは自分でも気づかずにあなたの魂のいちばんおいしいところを私にくれた」透きとおった眼差しと、詩のいちばんおいしいところ―谷川俊太郎の新詩集。

「二十億光年の孤独」「ネロ」「はる」「わたくしは」……ひとりの少年が見つめた宇宙、孤独、そして未来──半世紀を超えて輝き続けるデビュー詩集が初の文庫化
これも言うまでもない名詩集ですね。
円熟期の作品もいいですが、やはり初期の瑞々しい詩に惹かれます。

これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)

ピンポンをするようにごく自然に詩を書き始めた青年は、やがて「ことばあそびうた」をあそび、自らの声でその詩を語り、透明感あふれる日本語宇宙を広げていった。いつもいちばん新鮮でいちばん懐しい谷川俊太郎の決定版・代表詩選集。

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