鈴虫寺の幸福地蔵さま ~自分を信じて、奇跡を信じて~
京都・嵐山に、「この世の願いならどんなことでも一つだけ叶えて下さる」というお地蔵さまをお祀りする、通称『鈴虫寺』と呼ばれるお寺がある(正式名は妙徳山 華厳寺)。
公式サイトはこちらhttp://www.suzutera.or.jp/index.html
若い女の子向けの雑誌でも何度も取り上げられているので、「どこかで見たことがある」という人も多いだろう。
実際、京都や大阪に住んでいる若い女の子で、願掛け用の『幸福御守』をこそっと財布にしのばせている人は少なくない。
その多くは、彼氏や結婚に関することなのだけど、「鈴虫寺に行ったその月に彼氏ができた」という人から、「ぜんっぜん効果ない」という人までいろいろで、ワガママな女の子達の願いを聞いて回るお地蔵さんも大変なようだ。
実は私も何度か参じた一人で、願いの一つは速攻、もう一つはじわじわと効いた。
もともと神社仏閣巡りが趣味だったので(笑わんで下さい)、特別叶えたい願いはなくても、手入れの行き届いたお寺で有り難いお話を聞き、おいしいお茶を頂き、美しい庭を散策して、東山三十六峰を臨む美しい京都の町並みを眺めることは、心癒される時間だった。
他にも「行きつけの神社」(なんじゃそりゃ(笑)はあったのだけど、京都のお寺の静けさもまた格別で、贅沢というなら、ほんのちょっと足を伸ばすだけで、鈴虫寺のように見事な眺望と優しい空間を備えた場所にいつでも行けてしまう京都の暮らしこそ、と思わずにいなかったものだ。
で、この鈴虫寺。
何度も女性誌やTV番組で取り上げられたこともあって、今や全国区の人気であり、土日にもなれば、境内に入るのに二時間、三時間待ちということも珍しくないそうだ。
そのせいか、それまで明らかに普通の民家であった寺周辺の住まいが、次々にうどん屋や甘味処に早変わりし、混み合う時間に行くと、「去年まで、ここで家の人が寝てたんだろうなぁ」というような二階の和室に通されたりする。
まさに幸福地蔵さまさまである。
私が初めて訪れたのは平日の昼間で、参拝客も少なく、すんなりお寺に入ることができた。
そして、最前列の、ちょっと右寄りに座っていたら、入ってきた住職さんがぱっと私の顔を見て、
「あなた、ラッキーですな。そこは『芸能人席』と言って、先日は鈴木蘭々さんがお座りになった場所ですよ」
瞬間的に「今日の願いは叶うかも」と思ったら、本当に一ヶ月後に電撃的に叶ったので、すっかり鈴虫さまのファンになった私。
その後は、友達に幸福御守をプレゼントし、落ち込んでいた妹を参拝に連れ出し、「みんな幸せになろう」ムードで盛り上がったのだが、結果は半々。
こういうものはやはり無邪気に信じられる人、自分から進んで「願掛けしよう」と心に決めた人しか、効果がないのかもしれない。
奇跡というと、嫌悪感を示す人も少なくないけれど、人間の想念が何かしら現実に働きかけるのは真実だと思う。
そう言うと、「アタシはいつも幸せになりたいって願ってるのに、ちっともいいコトがいない」と思う人もあるかもしれない。
でも、『感情』や『思考』のような心の表面をさらに掘り下げて、魂の核まで降りてみると、頭では幸せについて思い描いていても、核の部分では幸せになることを恐れていたり、自分に否定的で、「こんな私が幸せになるわけがない」というマイナス・イメージが焼き付いていたりする。
願望を叶えるには、このセルフイメージから書き換えることが肝要で、「どうせ私なんかダメ」というイメージに囚われながら「なんかいいコトないか」と漠然と思い描いても、やはり効果はないのである。
とはいえ、何十年とかけて心を毒してきた思い込みから解き放たれ、「幸せなわたし」を思い描くのは容易なことではない。
一度、不幸が染みつくと、不幸でいる方が自分らしく感じ、それ以外の何かになることが罪悪のように感じられたりもする。
皮肉にも、幸せになることを罰しているのは自分自身に他ならず、そういう人にとっては、「幸せになりたい」という願掛け自体、白々しく思えて仕方ないのである。
ならば、せめて、背を向けることだけでも止めてみてはどうだろう。
私の知り合いに、雑誌の風水の特集を見て、「カーテンを変えるだけで幸せになるなんて、単純過ぎる」と批判的な人がいたが、そういう人でもオフィスの鉢植えが春らしい観葉植物に取り替えられると、「なんか癒されるよねぇ」などと言っているものだ。
確かに雑誌の書き方は霊感ツボのようなノリがなきにしもあらずだが、「身の回りを美しく整理整頓し、気持ちよく過ごすことが心を高めて幸福を呼ぶ」という風水の考えはその通りだと思うし、「東南の部屋は大吉(部屋が明るく、精神衛生によい)」「西日の当たるキッチンは凶相(物が腐りやすく、水回りも不潔になりやすい)」というのも、ちゃんと理にかなっているものだ。
いわば、昔ながらの生活の知恵に、女の子向けのファンシーな要素を取り入れたのが今時の風水ブームで、確かに、カーテンを変えたぐらいで今すぐ幸せになることはないかもしれないが、黒ずんだ分厚いカーテンをかけっぱなしでいるよりは、華やかなバラ模様のカーテンの方が気持ちを明るくさせるし、家に帰った時、どんよりした気分で一日を終わるよりは、お気に入りの素敵なグッズに囲まれ、「ああ、今日も頑張った」と一息ついてリフレッシュする方が、人の印象を明るくさせ、結果的に、いい男や楽しい仲間を引き寄せる結果になるのである。
鈴虫寺の幸福御守も、「どうせ、こんなもの持ってたって」という気持ちがある限り、願いが振り向いてくれることはないだろう。
でも、ほんの少しでいい。
「私にだって出来るかもしれない」
と、信じてみよう。
たとえその願いは叶わなくても──世の中には、叶わない方がいい願いもある──思いがけない所から運が開けることもある。
自分にとって心地よい空間、お気に入りの可愛いグッズは、そんな持ち主の気持ちを敏感に察して、想いに見合う幸せをきっと運んできてくれるはずだから。
初稿: 2009年2月10日
人間は幸せになるようにできている
人間は、幸せになるようにできている。
本来、それ以外になりようがないのに、そうなれないのは、人生の様々な過程でマイナス・イメージを植え付けられるからだ。
この世界は、90%のネガティブな感情と10%のポジティブな思考からできている。
言い換えれば、この世の90%の人々は、不安や恐怖、妬みや怨みといったネガティブな感情に生きていて、残りの10%――この世に恐れることは何一つ無く、人生は明るく、健やかに生きていける――とポジティブに考えられる人だけが、幸運に恵まれている。
では、不運な人、一人一人が、人間的にも運勢的にも根っから悪いのかといえば、決してそうではない。
不運でも、優れた人はたくさんいる。
真面目な人、優しい人、熱心な人、それぞれが幸福を得るに値する優れた資質を備えていて、人間的に何ら欠けるものはない。
悪いのは、考え方だ。
心のエネルギーの使い方である。
私たちは、頭では、
「楽観的になろう」
「明るく考えよう」
「良いことだけを考えるようにしよう」
と分かっているが、いざ、心で実践するとなると、どうしてもネガティブな感情に囚われてしまう。不安や恐怖、絶望の奴隷になってしまう。
というのも、物事は悪く考えた方が楽だからだ。
明るく考えれば、明るく考えるなりの努力をしなければならない。
ただ、椅子に座って、ぼんやり考えているだけではなく、成功に向けて行動しなければならない。
そして、万一、失敗したら――。
どんなに心が傷つくかわからない。
もう二度と取り返しがつかないかもしれない。
そう考えて、心に予防線を張った事が、結果的にネガティブなイメージを植え付けて、ネガティブな現実を引き起こす原因になるのだ。
失敗するとか、傷つくとか、まだ起こりもしないうちから考えるのだけは止めた方がいい。
心にチラとでも浮かんだことは、必ず現実になるから。
もし、ネガティブな感情の奴隷に支配されそうになったら、頑として闘えばいい。
その闘いに勝つことが、イコール、幸運を勝ち得るという事なのだから。
初稿 2002/08/13