わたしたちは、孤立と孤独のちがいを学ぶ必要があります。
孤独とは、みずからひとりでいることを選ぶ時間のこと。
自分を見つめる時間、本来の自分を引きだす時間、自分の心のなかで何が起こっているのかを知る時間、自分のなかの霊的な声を聞く時間なのです。
孤独になる時間をもたなければ、自分のなかの神と連絡をとることはできません。自分が壊れてしまいそうなほど苦しい問題に直面しているときでさえ、孤独な時間は平和で静かです。
一方、孤立はまったくちがいます。孤立してしまったときは、自分が自分でなくなります。自分から抜けだしてしまうのです。そして、活き活きとした人生が歩めなくなってしまいます。
孤立感は、たいていの場合、ある日ふと忍びこんでくるもので、ひとたび感じてしまうと、漠然とした不安におそわれ、自分を見失ってしまいます。いったんそうなってしまうと、他人が近づけないだけでなく、自分も自分自身に近づけないことになります。自分がわからなくなるのです。ですから、そういうときは誰かの助けが必要です。しかし、孤独でいるときはその必要はありません。
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もし、「ひとりでいる時間」を心配することに費やしたら、「ひとりでいる時間」は「孤立した時間」になってしまいます。そうして孤立してしまうと、人は破滅に向かいます。もがき苦しみ、見捨てられる不安や、恐れや救いのなさを感じたりするでしょう。
「ひとりでいる時間」には、何かを創造したり、心を落ち着けたり、霊的なものを感じたり、休んだり、リラックスすることができます。
さらに、ひとりでいるときをどうすごすかは、自分で決めることができるのです。もしひとりでいるときに自滅的・破壊的になってしまったら、祈ったり、誰かに電話したり、何かほかのことをすることもできるはずです。いつも選択権は自分にあるのですから。もしもそんな選択権はないと思うのなら、自分をだましていることにほかなりません。
人は、自分の孤独に正面から向きあうことで、「幸せになるための切符」を手にすることができます。
孤独が恥ずかしいのは見栄を張るから
孤独を辛く感じる人は、「一人で居ること」が辛いのではなく、周りに「淋しい人」「イケてない奴」と思われるのが嫌なのだと思います。
SNSなどを見れば、みな、フォロワーもたくさんいて、仕事も楽しそうです。
そうでない人は存在を無視され、存在価値さえないように蔑まれます。
そうした風潮にあっては、あえて孤独を選ぶのは難しいし、ネットいじめや仲間はずれも深刻です。
だからといって、無理に友だち付き合いをしたり、自分が馬鹿にされるのが嫌だから、自分よりもっと立場の弱い人を見つけて、皆と一緒にいじめていたら、ますます、がんじがらめになりますね。
周りから「イケてる人」「友だちが多い」「人気がある」と思われたい気持ちがある限り、本当の意味で自由になれないし、いつも人の目を気にして、生きることがますます辛くなってしまいます。
見栄は自分自身を苦しめるだけで、本当に価値のあるものは何も身につきません。
背伸びして、周りの賞讃を得たところで、今度は失うのが怖くなり、ますます自分を大きく、美しく見せるようになる、その繰り返しです。
それより、静かに自分と向かい合い、心の障壁になっていることを、一つ一つ取り除いていきましょう。
辛いこと、見たくないことの中に、解決策が隠れています。
見た目が気になる人は、暴飲暴食をしてないか。
能力が気になる人は、毎日だらけた生活をしてないか。
それを認めて、少しずつでも改める努力をしない限り、人生が好転することなどありません。
結婚や就職で一発逆転を狙っても、いつか必ずボロが出て、また不幸の坂を転落するでしょう。
自分を省みる為に、あえて独りの時間と空間に身を置くことは、決して恥ずかしいことではありません。
受験生がそうであるように、本当に大事な勉強は、孤独の作業でしか身につかないものです。
あえて独りになる勇気をもって、今日からでも、新しい道を歩き始めましょう。
見栄を張り、偽りの仲間に囲まれても、誰とも心を通わせることなく、日々緊張を強いられるなら、それは孤独ではなく「孤立」です。
孤立は、孤独よりもっと不幸で、問題の根が深いものです。