半分というのは、カタツムリが自分の肉体の一部分を「家」としているという気安さと、「家」そのものが制度ではなくて、きわめて具体的な殻である、という点です。
そして、あとの半分(つまり好きになれない部分)というのは、カタツムリが自分の力で「家」を変えることができない、という点と、一つの「家」には常に自分自身しか入ることができない、という点にありました。
《家出のすすめ》 角川文庫
若者が自立ではなく「自由」を求めて家を出たら、いつか心を挫かれるだろう。
若者の求める自由とは、「好きなだけゲームができる」とか「門限を気にせず遊べる」とか「いつでも気兼ねなく行きたい場所に行ける」とか、自由というよりは制限なしの世界だからだ。
親から離れて自由になり、うるさい人間が傍から消えても、ゲームをするにはお金がいるし、友 だちと遊ぶにもお金がいる。行きたい場所に行くには、やっぱりお金がいるし、有り余るほどの時間があっても、お金がなければ何も出来ない。そこでお金を稼ごうとすれば、朝から晩まで働かねばならず、就職すれば、好きな時に出掛けて、好きな時に眠るという訳にもいかない。
結局、殻から殻に引っ越すだけで、自由など夢のまた夢だ。
むしろ親元で不平を感じながらも、自分のバイト代をゲームや洋服代にあてられた頃の方が気楽だったと思うかもしれない。
いつの時代も家賃と光熱費は自由より重いのだ。
その点、自由ではなく「自立」を求めたなら、殻の維持費も負担とは思わなくなる。何故なら、それは親に背負わされた殻ではなく、自分で選んだ殻だからだ。生まれながらに背負う殻は重いが、自分で選んだ殻は狭くても心地よい。自分で選んだのだから、何とかやっていこうという気持ちにもなる。
好きな時に寝て、好きな時に食べる自由からは程遠いかもしれないが、合わない殻に縛られるよりは、はるかに自分の肉にしっくりくるのではないだろうか。
家は宿命だが、絶対ではない。
いざとなれば自分の肉から切り離し、新しい殻に移ることもできる。
それこそが自由であり、自由への憧れは、制限からの解放ではなく、選択にこそ使われるべきだろう。
そして、いつか自力で立派な殻を作り上げたなら、親の作った殻の良さも分かるかもしれない。
あれは自分の肉には合わなかったが、親にとっては、あれが人生だったのだと。
良き家出とは、カタツムリの引っ越しと同じ。
殻を壊すのではなく、殻から殻に移る旅だ。
誰にとっても殻は重いが、殻があるからこそ、肉もまた生きていけるのである。
だが、家というのは「在る」ものではなくて「成る」ものです。マルク・フラスコの『週の第八の日』の恋人たちのように、自分たちの共通の理念を、かたちとして創造してゆくものであって、他からあたえられるものではけっしてなかったはずです。
《家出のすすめ》 角川文庫