映画『SHAME -シェイム-』 あらすじと見どころ
あらすじ
エリート・サラリーマンのブランドンは深刻な性依存症に陥っていた。
ある時、妹シシーが彼のアパートにやって来て、ブランドンは渋々、受け入れるが、一緒に暮らすうち、シシーの態度に苛立ち、二人の関係は悪化していく。
見どころ
今ではすっかり大スターの仲間入りを果たしたマイケル・ファスベンダーの代表作。
ファスベンダーも、この頃が旬で、X-MENシリーズや、エイリアン新シリーズでも強烈な印象を残している。
本作では、ハンサムな都会のエリートでありながら、性依存症に陥った青年のナイーヴな内面を深く静かに演じており、一つ一つの表情が印象的。
性依存症に関する知識がないと、奇異に感じるかもしれないが、本作を機に学んでみるのもいいかもしれない。
お涙頂戴系のドラマではないが、キャリー・マリガンの歌唱も美しいので、興味のある方はぜひ。
ちなみに、助演のキャリー・マリガンは、性暴力のトラウマを抱える女性のポップな復讐を描いた映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』でも魅力的な演技を見せています。
興味のある方はぜひ。
作品情報
SHAME -シェイム-(2011年) - Shame(『恥』の意味)
監督 : スティーヴ・マックイーン
主演 : マイケル・ファスベンダー(ブランドン)、キャリー・マリガン(妹シシー)
SHAME -シェイム- の描く恥とは何か
性依存症を演じるマイケル・ファスベンダー
マイケル・ファスベンダー主演の映画『SHAME -シェイム-』は、性依存症の青年と妹の奇妙な同棲生活を描いた秀作だ。
性依存症を題材にしているだけに、刺激の強い場面も多いが、行為そのものを描いたエロ映画ではなく、実妹との関係に苦悩する心理に重点を置いている。
物語は、単純至極。
朝から晩まで性行為に耽るエリート・ビジネスマンのブランドンのアパートに、実妹のシシーが転がり込んでくる。
兄妹が一つ屋根の下に暮らすのは、何の問題もないはずだが、シシーの振る舞いは次第にブランドンを苛立たせ、シシーもまた心に深い傷を負う。
タイトルの『SHAME(恥)』が意味するものは、性依存症のみならず、秘めた欲望、心の傷、女性と正常な関係が築けない負い目など、いろいろだ。
自分の存在そのものが『恥』と言ってもいい。
あまたの依存症克服ストーリーのように、展開を追う映画ではなく、ひたすらブランドンの内面を描く作品なので、見終わった後も、重苦しい気分になるが、マイケル・ファスベンダーの出世作ということもあり、一見の価値はある。
キャリー・マリガンの『New York, New York』
本作は、妹を演じたキャリー・マリガンの演技も素晴らしく、BARでジャズの名曲『New York, New York』を歌う場面も印象的だ。(フランク・シナトラによるカバーが有名)
美しく成長した妹を前に、たじろぐブランドンの表情にも注目。
YouTubeのレビュー「Micheal fassbenders body language just makes this scene. As someone with a younger sister, this scene is pretty emotional. (マイケル・ファスベンダーの仕草がこの場面を印象づけている。妹をもつ者なら、この場面にちょいと心が揺れるはず)」という言葉が全てを物語っている。
和訳はこちらで紹介されています。
http://www.worldfolksong.com/jazz/sinatra/newyork.html
「ニューヨークで心機一転、新しい人生をスタートしたい」という心情が謳われています。
【コラム】 愛してはならないものを愛した時
『恋情』や『愛する気持ち』は、世の常識を超えるものだ。
男が男を、女が女を、親子ほど年の離れた人を、あるいは、妻子ある人を、思いがけなく好きになってしまうことはある。
「止めよう」と思っても止められないから、『恋』というのであり、理屈でどうにかなるものなら、男女心中も、刃傷沙汰も、とうの昔にこの世から無くなっているだろう。
人が人を求める気持ちに理由などなく、気付いた時には、恋してしまっているのが『恋』の本質。
恋したことのない人間が、恋する者の気持を理屈で変えられると思う方が間違いなのだ。
皆に祝福される恋愛と異なり、この世で禁忌とされる恋は、たいてい背徳である。
不倫だ、セフレだと、開き直っている人は別として、ごく普通の、きわめて常識的な人物が、愛してはならないものを愛してしまった時、理性と情熱の狭間で苦しみ、自分の存在そのものを『恥(シェイム)』と感じるものだ。
まして『兄妹』であれば、生物学的問題も大きく、ブランドンの苦悩も計り知れない。
恋愛依存症のシシーも同様。
別れた男にすがるように電話をかけて、「あなただけなの」と泣きじゃくったり、酒の勢いでブランドンの上司といちゃついたり。
頭で分かっていても、どうにも制御できない弱さと苦しさを感じる。
最後には、ブランドンはシシーを冷たく突き放し、悲劇的な結末が訪れるが、求める者同士が求め合えば、破滅に向かう典型だ。
誰よりも分かり合えるからこそ、いつかはお互いに苛立ち、同族嫌悪に陥ってしまう。
愛してはならないものを愛してしまった時、人は無理に愛を止めるより、どうすればお互いが幸せになれるか、そこに注力すればいい。
愛することは止められなくても、相手を幸せにする方法は考えることができるからだ。
もし、自分も相手も不幸にするならば、それは愛というより、執着だ。
執着心に幸福な結末は訪れないのは、社会的に正しい恋愛も同じである。
愛も、それをどのような機会に受け止めるかで、運命も変わる。
愛することが間違いではなく、何が何でも結ばれようと画策したり、相手を離すまいと執着することが問題ではないだろうか。
映画としては、説明不足?
映画に関する感想を言えば、何もかも観客に委ねるのではなく、もう少しブランドンとシシーの過去について説明を加えてもよかったのではないかと思う。
ブランドンが居間のソファに腰かけ、白黒の子供向けアニメを観ていると(もしかしたら、幼い時に妹と一緒に観ていた?)、シシィが隣に座り、「抱いてくれる?」と甘える。
彼はすぐに彼女の肩を抱き、しばらく一緒にアニメを視聴するが、突然、ブランドンが、彼女が上司と寝たことについて怒り出し、「ここから出て行け。被害者ぶるな」と激昂する。
すると、シシィも売り言葉に買い言葉で言い返し、ついにはブランドンが部屋を出て行ってしまうのだ。
痴話喧嘩といえばその通りだが、解釈が難しい。
二人の過去が一切描かれないため、ブランドンの屈折した思いは現在進行形なのか、忌まわしい思い出となって二人を苦しめているのか、釈然としないからだ。
ブランドン一人が今も妄執に取り憑かれているなら分かりやすいが、妹シシーも何を考えているのか分からないので、見ている方ももやもやしてしまう。
そして、もやもやしているうちに、クライマクスがやって来るので、視聴者は置いてきぼり。
解釈を観客に委ねすぎでは? と思ってしまう。
もう一点。
シシーと上司がブランドンの隣の部屋で性行為を始めて、ブランドンが夜の町に飛び出す場面も同様。
『男の嫉妬』というよりは、「ふしだらな妹に対する、純粋な兄の怒り」という印象が強く、ブランドンはただ単に素行の悪い妹に頭を痛めているだけ、と見えなくもない。
誰だって、隣の部屋で、自分の妹が実況中継すれば、部屋を出て行きたくなる。
それならもっと、「性的妄想をかき立てられる兄」みたいな演出があった方が分かりやすいからだ。
せっかく『兄妹愛』という禁断のテーマに挑んだのから、もっと狂おしい、それでいて切ない心理描写があってもよかったのだが、それは期待が過ぎるというものか。
ついで言うなら、シシーも「スレたネエちゃん」というイメージで、兄の保護本能や、男性の性欲をそそるタイプに見えない(それは決してキャリー・マリガンのせいではない)。
どこに感情移入すればいいのか、見る側も迷ってしまう。
「それがいい」と言う人もあるだろうが、私個人の感想を言えば、もう少し説明が欲しかったと。
何にせよ、デリケートな役を全力で演じたマイケル・ファスベンダーは座布団十枚だし、キャリー・マリガンの歌う『New York, New York』も素晴らしかった。
もう少し時間をかければ、この作品の良さも理解できるのかもしれない。
初稿 2012年2月27日