その正論に愛はありますか ~正しいだけの親は要らない

正論は子供を苦しめる

子どもに教え諭す時、正論を言う人も少なくないと思います。

「嘘をついてはいけません」

「門限を破ってはいけません」

「弱い者いじめをしてはいけません」

反論する余地もない、絶対的正義――いわゆる『正論』と呼ばれるものです。

この正論を口にされたら、誰も何も言い返せません。

なぜなら、正論は常に正しいからです。

絶対的正義の側に立てば、誰にも咎められることなく、相手をやり込めることができます。親なら、子どもに寸分の弁解の余地も与えず、絶対正義の立場から教え諭すことができます。

しかし、子どもにも子どもの考えがあり、言い分があります。

「正しい」と頭で分かっても、何かの理由で過つこともあります。

その時、正論だけネチネチ言って聞かせて、果たして子どもの心に届くでしょうか。

「正論」は時に相手を追い込み、傷つけることがあります。なぜなら、正論は「正しい」というだけで、そこに愛はないからです。

正しいことを正しいように言い聞かせて、子どもが改悛するなら、これほど楽なことはありません。行為の裏側には必ず理由があり、その重みは人それぞれです。親にとっては明らかに間違いでも、子どもにとっては必死に考えた末の結論だったりします。絶対的に正しい立場で、正論を振りかざしても、子どもに罪悪感や失望感を抱かせるだけで、何の進歩もありません。それよりも理由を知り、動機や願望に寄り添った方が改悛も早いです。

子どもの気持ちを理解し、過ちを許すことは、親であるあなたにしか出来ません。

正しいだけの親は要らないのです。

なぜ凶悪な犯罪者にも弁護士が付くのか

※ 以下は、ウェブサイトに掲載していたものです

私が中学生の頃、津雲むつみさんの漫画で『彩りのころ』という作品がちょっとしたブームでした。

物語は、高校生の女の子が同級生の男子生徒に暴行され、望まぬ妊娠をし、それを最愛の恋人とともに乗り越えていく……という、かなりショッキングなものです。

最初は、彼女の妊娠を受け入れることができず、別れも考えた彼氏ですが、母として産み育てようとする彼女の姿を見るうちに、お腹の子ともども、彼女の人生を受け入れ、共に生きることを決心します。

そして、二人は、卒業を待たずに結婚し、彼氏は知り合いの弁護士の事務所で働くことになったのですが、そこで仕事を教わるうちに、弁護士にこんな事を言われます。(詳細はうろ覚えなので、要約になりますが・・)

君は、こんな凶悪犯を弁護して、何になると思っているのだろう。
しかし、人間は弱い。時として、過ちを犯すこともある。
過ちを犯した人間は、ただ裁かれるだけで、罪を償い、人生をやり直す機会さえ与えられないのだろうか。
弁護士の仕事は、彼らの罪を少しでも理解し、更正のお手伝いをすることだ。

中学生の私には、この一文がかなり衝撃でした。

なぜなら、当時の私は、罪を犯した人間は「目には目を」で裁かれるべきであり犯罪者の更正とか、罪の理解とか、考えたこともなかったからです。

私は、この作品を読んで以来、弁護士に対する見方も変わったし、毎日のようにニュースで報道される殺人や窃盗や諸々の事件についての受け止め方も変わりました。

誰かが人を殺せば、やれ悪人だ、死刑だ、と、多くの人が騒ぎ立てるけれど、その背景や経緯についての考察はどうなのだろう。

「死んでお詫びしたい」と引き裂かれるような思いで猛省している人間でさえ、死でもって償わなければならないのだろうか、等々。

これは「死刑論」にも通じる話ですので、ここでは詳しく書きませんが、あいつは極悪だの、死刑にすべきだの……って、そんなに軽々しく口にするものではないと私は思っています。
(それを感情で口走っていいのは、実際に被害を受けた方ぐらいではないかと)

自分だって、いつ加害者の立場になるか分からない。

自分の中にも、同じような弱さ、攻撃性、愚かさ、醜さがあるかもしれない。

そう考えると、『絶対的正義』の立場から人を非難するのって、ある意味、ズルイように感じるのです。

絶対的正義の立場というのは、「人を殺すな」「物を盗むな」「ウソをつくな」という、誰にも非難しようのない、絶対的に正しい理屈ですね。

正論は人を傷つける ~正しいというだけで、そこに『愛』は無いから

育児に関して言うなら、

「お友達を叩いてはいけません」

「公共の場所で騒いではいけません」

「ウソをついてはいけません」

……etc。

まったくもってゴモットモ、反論する余地もない「絶対的正義」――
いわゆる「正論」と呼ばれるものです。

この「正論」を口にされたら、誰も何も言い返せませんよね。

だって、正論言ってる方が正しいんですから。

絶対的正義の立場に立って物を言えば、誰にも非難されることなく、相手をやり込めることができます。

親ならば、子供に寸分の反論の余地も与えず、「親の言い分が正しいのだ」と、説教することができるわけです。

しかし、子供にも子供の考えがあり、気持がある。

「それが正しい」と頭では分かっていても、何かの弾みで馬鹿な真似をしたり、親との約束を破って悪さをすることもあります。

その時、正論だけネチネチ言って聞かせても、果たして子供の心に届くのでしょうか。

「正論」は時として、相手を追い込み、傷つけることがあります。

なぜなら、「正論」は正しいというだけで、そこに「愛」は無いからです。

「正しいだけ」では、相手の心に響かない

これは看護婦時代の話ですが――。

私は20代の頃、特定疾患を対象とした治療棟に勤めていたことがありました。

主な仕事は「患者指導」。慢性疾患の患者さんに、食事や生活習慣など、自己管理させるのが目的です。

そこで、私たちは、模型を使い、パンフレットを作り、あの手この手で患者さんに療養指導するわけですが、中には、何を言っても患者さんに嫌われ、最後には怒鳴られてしまう看護師さんもあります。

言っていることは正しいのですが、患者さんの気質や生活環境、その時々の気持を汲むのが下手で、当たり前のことを当たり前のように言っては、患者さんに嫌われてしまうんですね。

たとえば、糖尿病の患者さんに、理想の食生活や検査データの読み方など、正しい理論を教えるのは非常に簡単です。

一日の摂取カロリーは幾ら、インシュリンの使い方はこう……と、専門知識があれば、誰でも教えることができます。

でも、糖尿病と診断されたばかりで、まだ右も左も分からないような人。大酒のみのヘビースモーカーで、性格的にも難しい人。ハナから自己管理する気力もない人(様々な事情から闘病意欲を完全に喪失している)。等々。

一口に『糖尿病患者』と言っても、考え方も、暮らしぶりも、人によって様々です。その一人一人を同じ『糖尿病患者』と一括りにし、誰に対しても同じような正論を持ち出すから、患者さんの気分を害してしまうんですね。

いくら自分の不摂生が原因で病気になり、インシュリンや厳しい食事制限が必要になっても、気分が落ち込んで、投げやりになっている時に、

「だからあなたの自己管理が悪いんですよ。いったい何を、どれだけ食べたのですか? 自分の病気をちゃんと自覚されてます?!」

と頭ごなしに叱られたら、どんな気分になるでしょうか。

「はい、すみません。私が悪かったです。今度からきちんとします」

と素直に聞き入れられるでしょうか。

患者さんも、心の中では、激しく葛藤しています。自覚はあるけれど、食べたい気持ちが抑えられない。ついつい食べ物を口にしてしまう自分の弱さが恥ずかしい。時には、自尊心をなくし、死を考える人も少なくありません。

そんな時に、正しい事だけ、こんこんと言い聞かされても、何の救いにもなりません。「この看護婦は患者の気持ちを全然理解していない」と憤慨するか、ますます落ち込んで自暴自棄になるのがおちです。

逆に、自己管理がイマイチで、なかなか検査データの数値が落ち着かない時でも、

「○○さん、ゆっくり行きましょう、仕事のお付き合いも大変でしょうしね」

「今回のデータは良かったですよ。この調子で頑張りましょう」

と患者の立場や気持ちを見ながら、励まし、理解し、根気強く付き合ってくれる方が、心を許して、力づけられるのではないでしょうか。

子供は親に『正しさ』よりも『愛と理解』を期待する

子供もそれと同じです。

「これが正しい」と分かっていても、そのように出来ない時もあります。

反抗心から背を向けることもあれば、自分の望みは親の考えとはまったく別のところにあり、自分ではどうすればいいのか分からない時もあります。

たとえば、ファストフードが身体に悪いのは、子供も知っています。

でも、友だちとの付き合いや、食への好奇心から、ハンバーガーをお腹いっぱい食べたいこともあるでしょう。

そんな時に「ファストフードは身体に悪い」「母親に逆らう気か」等々、当たり前のことを当たり前のようにガミガミ言い聞かされて、果たして子供は納得するでしょうか。

たとえ、それが正しくても、「友だちと一緒にハンバーガーを食べたい」という子供の願いは置き去りですよね。

その結果、子供の食事管理には成功しても、子供の信頼を得ることは皆無です。「私の思い通りに育った」と親が満足している傍らで、子供は激しく自尊心を傷つけられ、親を恨むようになるでしょう。

よく「正しいだけの親は要らない」と言います。

親には「正しさ」より「愛」を期待するからでしょう。

正しいことを、正しいように言い聞かせて、それで人の心が動くなら、これほどラクなことはありません。

たとえこちらが正義でも、相手の気持ちを一番に思いやり、時には譲ったりしながら、相手が理解するまで辛抱強く待つことが、本当の愛ではないでしょうか。

『親』よりも『教師』になりたがる親たち

近頃は、「親」よりも「教師」になりたがる人が増えているように感じます。人間として想像力を働かせるより、善か悪かの理論武装で子供に強く言って聞かせ、行動や考え方を支配する態度です。

「親としての愛情や責任感から正しいことを教えるんだ」という人もあるかもしれません。

でも、正論を言って聞かせる前に、一度考えて欲しいのです。

その「正論」に「愛」はありますか、と。

思いやりのない正しさは、時に相手を追い詰め、自尊心を著しく傷つけます。

「正しいこと」を教えたつもりが、ただ単に、子供に罪悪感と自己否定の感情を植え付けただけだった……ということにならないよう。

正しいことを教え諭すにしても、その子の気持ちや性格を十分に理解した上で、慎重に言葉とタイミングを選びたいものです。

【メールマガジン『コラム子育て・家育て』より】

初出 2007年

誰かにこっそり教えたい 👂
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