私がこの記事を書いたのは、某大手紙の育児系掲示板で、
「バンドに所属して、楽器演奏しています。週に三回、夜に二時間ほど、実家や義家族に子供を預けて、練習をしています。公演も頻回です。もっともっとレベルアップしたいので、練習時間を増やしたいのですが、子供を預けながら趣味に打ち込むことに躊躇いがあります。どうすべきですか」
という質問に対し、
「自分の趣味に打ち込んだ方が、お母さんも生き生きして、子供に優しくできます」
「そのうち子供も理解して応援してくれますよ」
「自分のやりたいこと我慢して、家にじっとしていても、虐待するだけです」
というレスが大半で、それにエクスキューズする声がほとんどなかったのがきっかけでした。
もちろん、趣味に打ち込むのは本人の自由なのですが、私がどうにもこうにも気になったのは、その人の悩みというのが、「子供を預けて趣味に打ち込む事に対する世間体の悪さ」であって、「子供の気持ちがどうこう」ではなかった点です。
「子供も実家や義家族に馴染んでいるし、親も孫の面倒が見られて嬉しそうだから」
というのが相談者の主張でしたが、
親がきらきら輝いて、周囲も納得ずくなら、何をやってもいいのかな、って。
「子供もいろんな人に愛されて幸せそう」って言うけれど、それ、どこまでホントなの、って。
いろいろ疑問に思わずにいられなかったんですね。
だって、子供の本音など、確かめようがないでしょう?
子供は親に違和感や抵抗を感じても、正直には答えませんよ。
何故って、親の不興を買って、罵られたり、大好きなものを取り上げられたり、自分が傷つくのが目に見えているから。
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でも、今は相談主のような考えが主流で、
「我慢は虐待に繋がる、だから私は自分のしたいようにする」
というのが、一つの正義になっています。
そして、それはその通りかもしれません。
親が心理的にも社会的にもストレスフリーなら、虐待も起きませんから。
しかし、目に見える虐待(あるいは親の考える虐待)が起きないからといって、果たして、子供も救われるのでしょうか。
で、今回の記事に続きます。
数年前、日本で大ヒットした鈴木光司さんのホラー小説『リング (角川ホラー文庫)』。
内容は知らなくても、「貞子」というお化けの名前は知っている人が多いのではないでしょうか。
理不尽に殺害された貞子の怨念はビデオテープに乗り移り、そのビデオテープを目にした人は7日後に死ぬ定めにあります。
呪いを逃れるには、ビデオテープをダビングして、他の人にも見せるしかない。
しかし、ビデオテープを見せられた人は、貞子の呪いから逃れる為に、また新たにビデオをダビングして、他の誰かを探さなければならない。
こうして、どんどんダビングテープが増殖し、呪いはとどまるところを知らない……という物語です。
この作品は、日本ホラー・ブームの火付け役となり、ハリウッドでもリメイクされるほど話題になりました。
公開当時は、貞子の異様な造形や、松嶋菜々子のスター性ばかりが前面に押し出され、(映画に関しては)正直、何が面白いのか、さっぱり分からなかったのですが、amazon.comのレビューで、「『リング』の根底にあるのは、『自分さえ良ければ、他人はどうなってもいい』という利己主義である」という一文を目にして、全てに納得がいきました。
貞子や呪いのテープは、あくまで作品を盛り上げるユニークな演出に過ぎない。
物語の根底にあるのは、『自分さえ良ければ』の連鎖(リング)ということです。
amazonのカスタマーレビューにもあったように、そこに「見せられた人」の気持ちや立場は少しも考慮されていません。
「自分さえ助かればそれでいい」、その利己主義の連鎖が貞子の呪いそのものである、ということです。
映画のラストで交わされる女子高校生の会話、
「(ダビングして他人に回していたら)それじゃあ、キリがないじゃない」
「でもさ、自分が死にたくなかったら、やるでしょ?!」
それが問題の本質を物語っています。
それに対する異論も反論も存在しません。
「そんなの、見せられた人が可哀想じゃん?」「でも、ダビングして、誰かに見せなかったら、自分が死ぬんだよ。それでもいいの?」と言われたら、みな、ぐうの音も出ないのではないでしょうか。
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昨今は母親の虐待問題がクローズアップされるせいか、
「自分のやりたいことを我慢していたら、かえってストレスが溜まって、子供を虐待してしまう可能性がある」
「だから、母親も自分のやりたいことをやって、生き生きしてい方るが、子供にとっても幸せである」
「自分の輝く姿を見れば、子供も納得する」
というような論調が数多く見受けられます。
確かに、それも一理です。
親が心理的にも経済的にも追い詰められていては、子供のイタズラを許す余裕も生まれません。
ぎゃーぎゃー泣き叫ぶ声はストレスでしかないでしょう。
かといって、そこで開き直って、「自分の好きなことをすれば、子供にも優しくなれる」と、好き放題するのもどうかと思うのですよ。
「子供も楽しそうだし」と言うけれど、親に「楽しい?」と訊かれたら、楽しくなくても、「楽しいよ」と否応にも答えるのが子供でしょう。
それを真に受けて、自分の好き放題の免罪符にするのも、どうかと思うんですね。
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そもそも母親がこういう考えに傾きだしたのは、「育児も仕事も両立する、キラキラしたママが素敵」という刷り込みにあると思います。
育児と仕事の両立など、決して有り得ない。
一人の人間にこなせる仕事の量、心の器は、限りがあります。
仕事に60パーセントを注げば、子供には40パーセントしか向けられない。
そして、それが当たり前です。
にもかかわらず、「私は仕事も100パーセント、子供も100パーセント」みたいなアピールするママの言うことを真に受けて、それが正義だと思い込むところに、すべての誤りがあるのですよ。その人だって、裏では実母やベビーシッターや保育所に任せきり、子供と旦那には心密かに恨まれているかもしれないのに。
正解は、育児と仕事の両立など有り得ないし、仕事に注力すれば育児が手薄になり、子供にかかりきりになれば仕事は手つかずになる。これが現実です。そして、それは間違いでも罪悪でもない。どうにも変えられない人間の限界です。自分のアバターでも製造して、身体が二つ、手が四本、千手観音みたいに目が行き届いているのでなければ。
それを「母親としての自覚が足りない」とか「私は出来ているのに、あの人は能力不足」とか責めるのではなく、これが人間の限界なのだから、手伝えるところは手伝って頂けませんか、というのが、社会の正しい在り方で、本当にまともに育児も家事も仕事もこなして、子供や夫にも感謝されているのかどうかも分からない、「自称・両立ママ」をことさら持ち上げるような真似をするから、他のママがおかしくなって、「私も」みたいな風潮になっていくんですよ。
「ママがキラキラ輝いていれば、子供も幸せ」みたいな免罪符が生まれるのです。
そして、それらの主張が、子供目線で語られることは決してありません。
せいぜい、親に洗脳された子供が、親の気に入るように「うん、楽しいよ」と答えるのが関の山ではないでしょうか。
それを真に受けて、ますます好き勝手にする、貞子の呪いの連鎖です。
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世の中には、「私は自分の仕事をしているだけなのに、なぜ母親だけがこんな苦しい思いをしなければならないのか」という恨み言が溢れていますが、その心の痛みこそ『愛の証』ではないですか。
子供に十分に構ってやれない時、ついつい当たり散らしてしまった時、心が痛い、苦しい、罪悪感を抱くのは当たり前です。
それが人間としての自然な反応です。
でも、そうした心苦しさや罪悪感があるからこそ、自分なりに生活を工夫して、子供の言動にも気を配り、出来る限りのことをしよう、という気構えも生まれるのではないですか。
そこで開き直って、「ママがキラキラ輝いていれば、子供も幸せ」と、心の痛みも罪悪感もなげうってしまえば、それまでです。
だって、自分は正しい事をしている。その思い込みによって、反省も、気遣いもなくなるからです。
これが旦那ならどう思いますか?
「夫がキラキラ輝いていれば、妻も幸せ」と好き勝手な事を始めたら、奥さんも怒り心頭でしょう。
それと全く同じ理屈です。
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昨今の考え方として、「我慢できないものは、我慢しなくていい」「ストレスがたまらないよう、自分に優しくしよう」というアドバイスが、誤った方に解釈されて、「自分の好き勝手にしていい」という強弁に取って代わっているように感じます。
子供に対して罪悪感を持つのが嫌で、開き直るんですね。
じゃあ、実際、どうすればいいの? という問いかけに対しては、「自分の中の罪悪感を大事にしつつ、毎日5分だけ努力する」と答えます。
子供が「リンゴをむいて」とおねだりしたら、リンゴの皮を剥く5分を全力で楽しむ。心を尽くす。
ウサギさんを作ってごっこ遊びしてもいいし、リンゴの皮にどれだけ栄養があるか、アドバイスするのもいい。
一年365日、完璧なキラキラママでいようと頑張るから、あるいは、周りから、「育児も仕事も両立している、素敵なママ」に見られようと意識するから、子供に対する罪悪感に耐えきれず、「ママがキラキラ輝いていれば、子供も幸せ」などと言い出すのであって、罪悪感は罪悪感、それが愛の代償と思えば、その罪悪感こそが、無視や虐待への抑止力になると思うんですよ。
妻に何の罪悪感も持たない夫が外で何をしているか、ちょっと想像すれば分かるでしょう?
妻に対して罪悪感があるから、夫はちゃんと家に帰ってくるし、愛人とも手を切るんですよ。
夫が妻に対して開き直るようになれば、もはやそこには愛など存在しません。
子供もそれと同じで、子供に対して罪悪感がある限り、母親も子供に対して努力できるんです。
今日はちゃんと構ってやれなかったから、明日は頑張ろう、って。
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そんなわけで、『自分さえ良ければ』の貞子の呪いは、母から子、子からまたその子に、どんどん受け継がれ、永遠の連鎖(リング)になって続いていきます。
『自分さえ良ければ』という母親に蔑ろにされた子供は、他人に対しても同じことをするし、またそのようにされた人は、別の人にも同じことをするでしょう。
貞子の呪いに終わりはないのです。
呪いを断ち切る最大の抑止力は、相手に対する『罪悪感』です。
子供に対する心苦しさは、実は、尊いものなのです。(愛があるから、心が痛む)