アルトゥール・ランボーの詩集 『地獄での一季節(篠沢秀夫・訳)』より

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詩集『地獄での一季節』について

アルトゥール・ランボーの訳詩と言えば、小林秀雄の『地獄の季節 (岩波文庫)』がよく知られていますが、私の一押しは仏文学者の篠沢秀夫・訳による『地獄での一季節 Kindle版』。です。

篠沢氏も解説で述べているように、小林訳はあまりに思い入れが強すぎて、「俺様ワールド」みたいな世界観がとっつきにくい人も少なくないのではないでしょうか。

その点、篠沢氏の翻訳は、典雅で、知的で、私たちが読みたい古典文学の世界を堪能できます。

小林訳で挫折した人も、再度、挑戦して欲しい名訳です。

篠沢秀夫の解説

Kindle版の後書きに掲載されている篠沢教授の解説を一部紹介します。

『地獄での一季節』をめぐって

アルチュール・ランボー(1845~91)の、決して多数とは言えない作品のうち、最も名高く、最もよく読まれているのは、この散文詩集『地獄での一季節』であろう。日本でも小林秀雄氏の名訳『地獄の季節』が昭和五年(1930年)白水社から刊行されて以来、戦前戦後を通じて、不安な青春の精神に強い衝撃を与える読み物として重きをなして来た。「日本の文学風土における『地獄での一季節』の受容史」を編めば大部の書物となろう。

しかし日本でのランボーの流行の源は1920年代のフランスの、シュールレアリスムへ向かう気運の中でのランボー・リバイバルにあるのは間違いない。ランボーが少年期の終わりに筆を折った1870年代から半世紀あとである。シュールレアリスト革命の熱気の中で、ランボーというイメージはなによりもそして終始一貫、反抗であり、アンチ・クリストであった。

≪中略≫

キリスト教と構造的に無縁な我が国では、反協会手技だろうと無神論だろうと、何の痛みもなく受け入れることができるし、流行となり権威となることもたやすい。小林秀雄氏の『地獄の一季節』の語り手は、常に「俺は……」「俺は……」と肩肘を張った強さが魅力的だったし、急に嘆き節になると絶望的な感じがすばらしかったが、終始一貫反キリスト教的反権威の態度を崩さない。私が少年時代に読んで強い影響を受けたのはその点であった。

だが学生時代から原文に接するようになると、頭の中にある小林秀雄訳『地獄の季節』との奇妙なずれが奇になった。原文はべらべらしゃべっている感じの箇所が多い。訳の方はそういう日常的なフランス語表現をそれと知らずに文字どおりに処理することが多いのをまず発見した。例えば「その他いろいろ」の意味の「ク・セ・ジュ」を直訳で「あぁ、俺が何を知ろう」とする如きである。

カトリック信仰用語をそれと気付かず訳すこともあるようだった。神を頭においていう「あなたの」を、「貴様らの」とこの世の権威者たちのことにしてしまう如きである。聖書の引用やもじりとともに、信仰用語は我々非キリスト教世界の人間にとっては、最も見落としやすい。私自身、ランボーのこの『地獄での一季節』の一部の語り口との類似を確認するため、ボシュエ(1627~1704年)の『王弟妃アンリエット・ダングルテールのための棺前説教』を教材として訳した際、「ユンヌ・ベル・ヴィー」を文字通りに「お美しい御生涯」という意味なのである。そこで「御立派な御生涯」と改めた。

誰にとっても文学の翻訳は地雷原を進むに似る。けれども近年、文体学ゼミナールの分析対象として学生たちとランボーのこのテクストを細かく調べるうちに、小林訳及びその修正訳である鈴木信太郎・小林秀雄訳の最大の問題点は、原文の語り口調の変化を認識していないことにあるのが感じられた。逆に言えば、『地獄の一季節』の最大の特徴は語り口がひらりひらりと変わる点にある。まさにボシュエの説教を思わせる信仰の炎のように語るかと思うと、卑語をまじえて教会を嘲笑う。小屋掛けの見世物の呼び込みの口上でたたみかけているうちに、ありがたそうな神父様の口真似に変わり、自重し、真剣に絶望し、また希望に燃え、甘え、わがままを言う。つまりキリスト教は肉となり心に食い入った存在であり、それと戦うのは自分と争うに等しいのだ。その心の揺れが極端から極端へ走る言語表現の転換に現れている。これを行を追って解説するには多大な紙数を要することになる。

– 題名の訳について

Une saison en enfer という表現には、その前に、「私は過ごした」 J’a passe を付けることが出来よう。つまり「私は地獄で一季節を過ごした」となる。それを踏まえて『地獄での一季節』とした。「一季節を地獄で」としたいところである。

≪中略≫

『地獄の季節』という古くから行われた邦題は、座りがよいが、この日本語をフランス語に訳すと、les Saison de l’emefer 「地獄の諸季節」つまり『地獄の四季』となる。または、地獄という語に冠詞の付かない形、すなわち Une saison d’enfer 「地獄のような(つらい)季節」となりかねない。後者の意味は『地獄の一季節』と、一を入れても同じことになる。しかも『地獄の一季節』には、フランス語にすれば、 Une des saison de l’emefer 「地獄の諸季節の一つ」となる意味もあるのではないか。

さらには『地獄での一季節』という邦題を選ぶことには、この散文詩全体が「その季節は過ぎ去った」と語っているという認識を示すことになる。

『地獄での一季節 Kindle版』 篠沢秀夫

※ ちなみに、篠沢教授は、昭和のバラエティ番組(『クイズダービー』など)でボケ役を演じ、軽妙な語り口で、お茶の間の人気を博していました。とてもそんな偉い文学者には見えなかった ^_^;

『地獄での一季節』の名言集

誰もおまえを殺しはしない

街道筋で、冬の幾夜、宿もなく、着る物もなく、パンもない、そういう凍りついたぼくの心を抱き締める一つの声があった。

”弱いか強いか、とにかくここにおまえはいる。それが強みだ。どこへ行くのか何故行くのか、おまえには分からないんだから、どこへでも入って何にでも答えてしまえ。誰もおまえを殺しはしないさ。もともと死体だったのと同然さ”

「もともと死体だったのと同然さ」は、「人間は元々、無である」「自分は何ものでもないし、元から存在しないも同じこと」という仏教の概念にも似ている。

ランボーは仏教徒ではないから、「もともと死体」という言葉を使っているが、言っていることは『無』と同じ。

あるいは、「我思う、ゆえに我あり」の実存君。

だから「誰もお前を殺しはしない」=自分という人間の精神性は誰にも左右されない。

他人が否定しようが、けなそうが、元々、人は無なのだから、自分という人間をどう評価するかは自分次第。

誰にも俺を潰すことはできない・・といった意味。

青年らしい弁。

科学、これこそ新しい貴族だ!

全盛期にはいったい何だったのだろうか……今日の自分しか見当たらないのだ。もう放浪者どもは終わりだ、あいまいな戦争も終わりだ。劣等人種がすべてを覆った――人民さ、よく言うようにね、つまり理性だよ。国民、それから科学だよ。

そうさ! 科学さ! 何もかも元どおりだよ。肉体のためにそうして魂のために、――臨終の聖体拝領で逆転天国ユキさ、――医学がありそして哲学がある、――おかみさんたちの特効薬、手直しした民謡さ。それから王侯の気晴らしと奴らがお留めにしていた遊びだ! 地理学、宇宙学、機械工学、化学……

科学! これこそ新しい貴族だ! 進歩ってことさ。世界は進む! 何で廻らないんだい?

篠沢教授の解説にもあるように、「徹底してアンチ・キリスト」というのは、善を否定して悪魔を崇拝するのではなく、いわゆるキリスト教的な道徳観や生き方に真っ向から反発し、心に忠実に生きていく――といったところ。

現代なら、とっくに当たり前の価値観だが、ランボーの時代はまだまだキリスト教的道徳観が中心で、「自由気まま」など許されるものではなかっただろう。

またランボーが日本に紹介された昭和初期も、まだまだ現代的自由とは程遠く、儒教や武士道を地で行くような社会であっただろうから、思春期の篠沢教授がその世界観に魅了されたのも頷ける。

今となっては、「反逆」の色合いも異なるが、少なくともランボーの時代には非常に刺激的だったろうし、科学を新しい貴族(世界の支配者)になぞらえ、地動説よろしく、「なぜ地球は廻らないのか?」と揶揄し、苛立つ気持ちも大いに共感できる。

今でも社会を廻しているのは、フィーリングであり、科学ではないから。

今は、神に呪われている

異教の血が戻ってくる! 精霊は近い!
どうしてキリストは助けて下さらないのでしょうか、ぼくの魂に高貴さと自由を与えてくださってもいいでしょうに。
悲しいかな! キリストの福音は過ぎ去った。

≪中略≫

今は、神に呪われている。祖国なんてぞっとするよ。

一番いいのは、酔いつぶれて眠るのだ、砂浜で。

ランボーのいう「祖国」も、フランスそのものではなく、自分が身を置いている社会であり、世間の価値観であり、守るべき生活といったところ。

そんなものに縛られるぐらいなら、酔い潰れて眠るのが一番。

ほかにも人生はいろいろあるだろう?

確かに放蕩は愚だ、悪徳は愚だ、臭い物には蓋をしなければならない。
けれど時計はもう、ただただ不幸の時刻しか打たないようになるわけではあるまい!
ぼくは子どもみたいにさらわれて、不幸はすべて忘れて天国でもって遊ぶのだ!

早くしろっ! ほかにも人生はいろいろあるだろう?

≪中略≫

神の愛だけが科学を解く鍵を授けてくれるのです。
自然とは善意に満ちた光景にほかならないと、わたしには思えるのです。
さらば、さまざまの幻よ、理想よ、過ちよ。

「ほかにも人生はいろいろあるだろう」という問いかけは、時を超えて、永遠に響く。

さあ、何かに囚われるのはやめて、今すぐにも自分を解き放とう!

そんなランボーの魂の叫びが聞こえてきそう。

憂愁はもはや我が愛するところにあらず

憂愁はもはや我が愛するところにあらず。
激怒、放蕩、狂気――その高揚と荒廃をとことん知り尽くした重荷は、今や下ろされた。
眩暈を起こさずに自分の無邪気な単純さの広がりを計ろう。

憂愁から解放へ。
赤子のように無邪気に自分自身と戯れる。

そして、次の一文に続く。

感じやすい心の持主たちの時代を懐かしんだりはしない

ぼくは何も自分の理性のとりこではない。
たしかに「神よ」と言いました。
魂の救済において自由が欲しいんです。
どうやってその自由を追い求めたものか?
気まぐれな好みの数々はもうぼくには過去のものです。
献身も神の愛も必要あいません。
感じやすい心の持主たちの時代を懐かしんだりはしない。

≪中略≫

安定した幸福について申しませば、家庭的にせよ そうでないにせよ……よせよ、そんなことはできないぜ、気が散りすぎるし、弱虫だ。
人生は働きありて花開きってね、昔からほんとのことだぜ。
こちとらの人生はあまり重みがないもんで、ふらふらっと舞い上がって行動という奴のはるか上の方でふわふわ漂っているのさ、その、この世の中心という奴の上の方でさ。

まるっきり老嬢になっちまったもんだ、死を愛する勇気が無いなんて!

様々な縛りから解き放たれ、自由へと魂が脱却する過程が描かれる。
「こちとらの人生はあまり重みがないもんで」という描写がよい。

このあたりは現代風に喩えれば「中二病」だが、ほとばしるような若さと自由への希求が素晴らしい。

モラルとは脳の弱さである

あった、あった!
何が? 永遠が。
太陽に混ざる
海なのさ

我が永遠の魂よ、
神に捧げた誓いをまもれ、
孤独の夜にも
燃える昼間にも負けず。

≪中略≫

希望の徳などあるものか。
復活の祈りも無駄さ。
学問に忍耐を重ねても
地獄の責め苦は確実さ。

≪中略≫

ぼくは神秘的なオペラ劇場となった、すべての生き物に幸福の宿命みたいなものがあるのが分かった。
つまり行動は人生ではなく、そうではなくて何かの力を駄目にする方法、一種のいらだちなのだ。
モラルとは脳の弱さである。

ランボーの詩の中では「もう一度、探し出したぞ。何を? 永遠を。それは太陽と番った海だ」という『永遠』が有名だが、ここにもその原型がある。
「行動とは一種のいらだち」「モラルとは脳の弱さである」という一文がよい。

旅に出なければならなかった

旅に出なければならなかった。脳にたかった魔法の数々を引き離す必要があったのだ。
海……まるである種の汚れからぼくを洗い清めてくれるはずだというように、海は好きだった……
その海の上に慰めの十字架が立ち上がるのを目にするのであった。

ランボーが海に焦がれて、詩にも詠むのは、映画『太陽と月に背いて』でもロマンティックに描かれているが、旅に行きたいではなく、「旅に出なければならなかった」の一文に強い希求を感じる。
ランボーの『永遠』は、海を謳った詩の中でも最上位に位置づけられるが、ぼくは神秘的なオペラ劇場となった~から続く一文も、青年らしい憧れと情動が感じられて印象的。

ああ、多くの季節。
ああ、多くの城!
どの魂が完全無欠なのか?

【コラム】 死が詩に命を与える ~伝説の詩人ランボー

ランボーといえば、詩人ヴェルレーヌとの男色が有名で、映画『太陽と月に背いて』でも、ランボー、ヴェルレーヌ、ヴェルレーヌ夫人との奇妙な三角関係がメインに描かれているが、実際のところ、どうだったのか、誰にも窺い知れないのが本当のところではないだろうか。

ヴェルレーヌとの男色も、真剣な同性愛というよりは、偉い詩人先生とお稚児さんみたいなもので、17~18歳のランボーがそこまではのめりこんだとも思えない。

既に地位を確立したヴェルレーヌと、鳥のように羽ばたき続けるランボーが、いつまでも師弟の契りを保てるわけもなく、夫人の介在がなくとも、こんな熱病みたいな関係は早晩破綻しただろう。

だが、歴史的にはそれで正解で、なまじランボーがパリの文壇に受け入れられていたら、ナイフのように閃く言葉は紡げなかっただろうし、一時期、もてはやされても、いつかは退屈な大家に成り果てたかもしれない。

詩を捨てた後は商人となり、アフリカで死病を患って早逝するという、劇的な生涯だったから伝説となり得たわけで、もし、ランボーが地位も名声も欲しいままにし、晩年は適当に書き散らすだけの人生だったら、『地獄での一季節』も『イリュミナシオン』も、ここまで憧れをもって読み継がれることもなかっただろう。

わたしたちは、言葉の向こうに、その人となりを思い浮かべる。

この詩を書いたのが、「ヴェルレーヌとの男色に耽り、37歳で夭折した若者」という認識があるから、いっそうドラマティックに感じる。

あるいは、ランボーは、これらの詩を書いてしまったことで、伝説的に死ぬことを運命づけられたのかもしれない。

参照記事 → アルトゥール・ランボーの詩 と 映画『太陽と月に背いて』

↑ レオナルド・ディカプリオはどう見ても天才詩人には見えない……

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