一番好きなのは、『Pure』という言葉。聖水みたいに透き通った純粋さに何よりも憧れる。
そう思いだしたのは、ある事を為すのに「心の清明さ」が何よりも必要になり始めたから。それは、今まで望みもしなかった事だ。
私の親友に、絵描きの女性がいる。彼女は、会社員と主婦業をこなしながら、時間を見つけてはキャンパスに向かっている。
画風は、シュールレアリズムの鬼才、サルヴァドール・ダリやルネ・マグリットを源流としており、箱の中から空を見上げる花や、独りぼっちの魚、開け放たれた窓や、ジャガイモと薔薇の間に揺れる手のヤジロベエなど、シンボリックなものを通じて、人間の内的世界を喚起するような作品を描き続けている。
その親友としばしば口にする言葉が、
「創造性って、突き詰めれば、心の清明さだよね」
彼女に言わせれば、私生活や会社で心乱されることがあると、必ず色に表れるという。後で冷静になって見直した時、自分でもヘドが出そうなくらい醜い色がキャンパスに塗りつけられているそうだ。
絵を見る人はやはり美しさを求めるし、作家の個性や魅力に触れて、自身の気付きや変化に結びつけたいと願う。そして、それを与えるには、それ以上の心の器がなくてはならず、技術があっても精神性の貧しい者に、決して良い絵を描くことはできない。
しかし、人間である以上、怒りもすれば悲しみもする。人間である限り、心の動揺や醜さは、一生ついて回るものだ。
だからといって、それをキャンパスに塗り込めることは出来ない。もちろん、怒りにまかせて描いた絵も存在するだろうが、湧き出た感情をそのまま形にしても、「作品」にはなり得ない。
結局、絵筆を持つ時、作家は自身の生の感情と向き合い、それを昇華させる技を要求される。人間的な怒りも悲しみも美しい形に変えて、芸術と呼ばれる領域まで高めるとなれば、より深い知性と魂が必要とされる。
『絵を描く』という事は、すなわち、『心を高めて表現する』ことだ。そして『修養』とは、技術の習得ではなく、精神的修行を意味するのである。
ところが、若いうちは、とかく技術の習得に走りたがる。技術さえ高めれば良い絵が描けると信じ込んでいる。
もちろん基礎的な技術が無ければきちんとした絵は描けないし、技術は高いに越したことはないが、技術だけに頼るといつか芸に行き詰まり、筆を持つことさえ億劫になってしまう。
なぜなら、画家に絵を描かせるものは、技術ではなく動機であり、心という見えないものに色と形を与えるのは、それを作り出す人間の精神だからである。
親友は言う。
「絵を描くことは、まさしく精神の鍛錬だよ。自分の内面を直視する勇気の無い人間に表現は出来ないし、それを美しく昇華させるには、それ以上の苦痛と努力が必要だからね」
それには『心の清明さ』が要る。汚れのない「Clean」ではなく、不純物をピカピカに磨き上げた末の「Pure」だ。悪の要素や負の感情をはなから否定するのではなく、それを受け入れ、認めた上での『心の清明さ』こそが、真の優しさ、明るさ、美しさといったものを作り出すのである。
私は、仕事柄、かなり高齢の方とお話する機会が多いのだが、世の中には、黒いものも尖ったものも、きれいすっかり洗い流され、水晶みたいに磨き上げられた「Pure」な人というのが本当に存在するものだ。
そういう方は、たとえ高い地位にあっても、決してそれをひけらかすことなく、どんな人にも礼儀を尽くし、公平に優しく接して下さる。子供みたいに澄んだ瞳をキラキラさせて、実のある話をたくさんして下さる。そういう方を見ていると、人間の一生というのは、自分という人格を完成させる為にあるのだということを強く感じずにいない。
年を取ると、やたら世知に長け、狡猾さに磨きをかける人もあるが、人間は高まれば高まるほど、限りなく仏に近づくものだ。そして、その魂の有り様を一言で表せば、まさに「Pure」と呼ぶ他ない。
「Pure」になるのは、善良になるより、もっと難しいのだ。
人間である限り、私たちは良いものも悪いものも心に取り込んでしまう。怒りや妬みや虚栄や欲望で、魂を汚してゆく。
私たちが、不幸とか災いとか苦しみとか呼んでいる一切のものは、自分の心に取り憑き、ヘドロみたいに溜まり溜まった、どす黒いエネルギーから発生しているのだが、多くの人はそれに気付かず、自分の置かれた環境や周囲の人間や社会にばかりその原因を求めているような気がする。
自分が泥だらけの衣を纏っている限り、宮殿に住もうが、賞賛を浴びようが、金銀財宝を得ようが、美しい恋人を得ようが、何処に身を置いても、そこは地獄になるのだけれど。
人間は、自分の心の泥をすっかり洗い流して、Pureにならない限り、決してこの世に永続する平和や幸せを見出すことはできない。
怒りや憎しみが、見るに堪えない色になってキャンパスに現れるように、私たちの心もまた外的世界を心のあるがままに作り出す。世界は私たちに何の悪意も持っていない。私たちが見ている世界は、私たちの心そのものなのだ。
「Pure」であること──それは、私たちが光に近づき、真実の幸福を手に入れる為の大切なパスポートだ。私たちは、ただ一つのことを心掛けさえすれば、いつでも人生を変えることが出来るのである。
初稿:01/03/21