「ウソをついたら神様は喜ばれません」
と、昔、ある哲学者はいいました。
ウソをついたら、自分だっておもしろくはないでしょう?
にもかかわらず、 ウソをつくことは現代社会に深く染みこんでいるため、わたしたちは、ウソをついているときでさえ、ウソをついている自分に気づかないくらいです。
他人が自分のことを誤解していても、そのままにしておいたほうが楽だからといって、そのままにしておきますか?
誰かを誤解させておいて、その誤解に対する責任をその人にとらせますか?
レストランで出された料理がまずかったとき、ウエイターに「味はいかがでしたか?」と聞かれて、「おいしかったです」と 答えますか?
心配性の人たちは、よく自分にウソをつきます。
たとえば、自分が何かよいことをしたとき、それを知ろうとさえしません。
というのも、自分がよい仕事をしたということを謙遜し、控えめにすると、とても受けがいいからです。
そのため、
「まあ、別にたいしたことではありませんよ」
「こんなこと誰にでもできますよ」
「もっと時間をかけるべきだったのですけど・・・・・・」
などというのです。
相手と向きあい、その人の目をしっかりと見て、
「ええ、一生懸命がんばりました」
ということなどありません。
わたしたちは自分のことを正直者でありたいと願っていますが、自分がうまくやったことや正しく行ったことに対して、本当に正直になることはどれくらいあるでしょうか。
わたしたちは、「真実を語ること」と「自慢すること」をよく混同しがちです。
でも、自分がうまくやったことを自分で認めることは、真実を語ることなのです。
逆に、自分がうまくやったことを自分で認めないのは、ウソをついていることになります。
「弱い人だけ助ければいいと思うのは、自分にウソをついていることになります。強い人はもっと助けが必要なのです」
と、アニー・ソフィー・スエットチネは指摘しています。
わたしたちは、友人や知人が助けを必要としていても、わざと助けないことがあります。
というのも、彼らはしっかりしているから、自分のことぐらい自分でやれるだろうと思いこんでいるからです。
確かに、強い人を見ると、「彼らは、うまくやるだろう」とか、あるいは「自分が尊敬している人が、『自分のような者』の助けなど必要とするはずがない」と思えてきます。
なんとまちがった考え方をしているのでしょう。強くて有能な人がこなごなになってしまうこともあるのです。
小さなウソでも、ウソをつき続けていると、精神がむしばまれてしまいます。たとえ、そのウソが他人にばれなかったとしても。
【コラム】 ケンソンは人の心を害する
自分の作品を「拙い(つたない)」なんて言うなにも書いているように、下手なケンソンは、自分を惨めにするだけで、何の得にもなりません。
時には慇懃無礼に受け止められ、せっかく芽生えた友情も台無しにすることがあります。
謙遜とは、本来、相手に対する気づかい。
たとえば尊敬する師匠の前で褒められた時、自分を引き締める意味で、「私など、まだまだです。ここまでで来たのは師匠のおかげです」と謙遜するのが正解です。
そうではなく、先回りして、わざと自分を低く見せるのは、自己保身でしかありません。妬まれたらどうしよう、陰でけなされたらどうしよう、そんなことばかり考えて、「私など、まだまだです」とケンソンしていたら、心から褒めてくれる人も嫌な気分になって、次第に離れていくのではないでしょうか。
心配性の人が自分にも他人にもウソをつくのは、周りに良い人と思われたいからです。
とりあえず、自分を低く見せておけば、陰口を言われることはない。
相手も油断して、これ以上、踏みこんでこないだろう。
そんな計算ばかりして、人の出方を窺っているから、周りにも次第に「面倒な人」と思われて、結局、自分も損してしまうのではないでしょうか。
この投稿は【何かを心配しているときにそっと開く本 (ワニ文庫)】から一部を引用しています。後半のコラムは管理人が執筆しています。