人と違う道を行く勇気を持とう
周りが何の疑いもなく大学に進学する中で、自分だけが横を向いて、高卒就職するのは勇気が要りますが、そこで躊躇して、大勢の後について行けば、いずれ奨学金の返済でクラしも困窮し、破滅に向かう恐れもあります。
経済的、物理的にも無理だと思ったら、大勢が行く道から降りて、自分だけの道を模索しましょう。
当サイトのコラムでも繰り返し書いているように、大学に進学したからといって、誰もが人生の最後まで快走できるわけではありません。
正社員になれず、不安定な非正規雇用のまま、高齢者になってしまう人。
正社員になったけど、苛酷な職場で、心を病んだ人。
順調に昇進したけど、まさかの会社倒産で、ゼロからやり直しになった人。
高給取りで悠々自適の暮らしだが、頼る家族も恋人もなく、孤独な人。
人生いろいろです。
確かに、良い大学に行けば、そうじゃない人よりチャンスを掴みやすいのは確かでしょうが、個々の人生がどれほど幸福かなど、他人の目には窺い知れないものです。
道行く人を見て下さい。
それぞれの頭に、「この人は大卒。この人は高卒」というサインが付いてますか?
目に入るのは、暗い顔で満員電車に揉まれている人、バイト店員に絡んで周囲から冷たい目で見られる人、彼氏とイチャイチャして幸せそうな人、飲み仲間とBBQを楽しんでいる人、それぞれの人生でしょう。
学歴も、就職先も、一つの通過点に過ぎず、そこから先の人生の方がもっと長いです。
そして、多くの人は完全に忘れていますが、愛も、家族も、生き甲斐も、お金や学歴では買えません。
「東大卒」「年収1000万」の肩書きをチラつかせば、若い女の子がゾロゾロ付いてくるかもしれませんが、その先、幸せになれるか否かは別の話です。
信用も、尊敬も、学歴で買えるほど、単純なものではないです。
そう考えると、無理して大学に行くことに、どれほどの価値があるのか、現実的に判断できると思います。
「七浪の美大生」みたいに、「どうしてもこの大学で勉強したい! ここで勉強できなかったら、死んだ方がマシ!」ぐらいの熱い気持ちで学ぶならともかく、「みんなが行くから、私も」みたいなノリで、何百万もの奨学金を借りても、借りた額に匹敵するものは身につかないでしょう。
どうしても行きたいなら、まずは数年間働いて、お金を貯めて、それから目標を目指しましょう。
でも、その頃には世間を知って、考え方も大きく変わっていると思います。
若くても、人と違う道を勇気をもちましょう。
その勇気で、一生救われることもあります。
無責任な大人の言説に欺されてはいけません。
新約聖書『狭き門より入れ』について
大勢が行かない道を、一人とぼとぼ進むことを、新約聖書の『狭き門より入れ』に喩えることがありますが、高卒就職も同じかもしれないですね。
私も狭き門から入るような心境でしたし、同じような理由で進路を変えた人は、私の周りにはないです。
狭き門から入ると、当然、仲間を見つけるのは難しいし、頼りになる先達もいません(いても、既に死んでる)
ローモデルとなる実例もないので、まさに手探りで暗闇を進むが如くです。
しかし、聖書の世界がそうであるように、長い人類の歴史において、自分と同じ悩みをもつ人は少なくないですし、それに対する回答も存在します。
自分の身近にないだけで、いろんな本を読めば、いつかそういう事例や言説に出会います。
その為の読書であり、安全確実な方法論を探すために本を読むのではないんですね。
聖マタイ伝に記された、『狭き門より入れ』は、少数のエリートを指すように誤解されますが(誰もがジュリアード音楽院に入学できるわけではない、みたいな)、聖ルカ伝を読めば、信仰心に関する話だと分かります。
大勢が行く道に、ぞろぞろ付いていっても、果たしてその先が天国かどうかは、誰にも分からない、そして多くの人は、何の考えもなしに、大勢の後ろをぞろぞろ付いていくものだ、と。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多いのだ。
しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。マタイオスによる福音 第七章
聖書 新共同訳 新約聖書
物語としては、聖ルカ伝 第十三章の方が分かりやすいです。
イエススは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでいた。
すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねる人がいた。
イエススは一同に話した。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人(イエス自身を暗示)が立ちあがって、戸を閉めてしまったから。
では、あなたたちが外に立って戸をたたき、『どうか、開けてください』と願っても、主人からは、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけであろう。
すると、あなたたちは『ごいっしょに食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすにちがいない。
しかし主人は『お前たちがどこの者か知らない。不正を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と答えるであろう。
あなたたちは、アブラハム、イハツク、ヤアコブ(イスラエル民俗の偉大な族長たち)やすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されるのを見て、そこで泣きわめいて歯ぎしりすることになる。
そして人々(異邦人を暗示)は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
さあ、そこではあとの人で先になる者があり、先の人であとになる者もあるのだ」
観光地でも、大勢がぞろぞろ歩くメインストリートは、分かりやすくて、楽しいけど、完全に大衆化されて、どこも似たり寄ったりの印象を受けるでしょう。
その点、筋金入りのトラベラーは、人の行かない秘境に挑んで、奇跡のような自然現象に巡り会います。
人生もそれと同じ。
大勢が歩くメインストリートは、安全で、無難かもしれませんが、物価も高いし、スリもいます。
逆に、秘境は誰にも共感されず、ガイドも存在しませんが、目的地に辿り着いた時の達成感もひとしおです。
歪んだ虚栄心から、わざと人の行かない道を行くのは危険ですが、「パリ観光は旅行費が高くついて、案外、幻滅しそう」と思うなら、思いきってペルーの奥地に飛ぶのも有りだと思います。(実際、パリ観光は、町もきちゃないし、飲食費も高くて、人が言うほど面白くないです)
By Charlotte Reihlen (Idee); Paul Beckmann (Ausführung) – Link