作品の概要
風の歌を聴け(1979年) 群像新人文学賞 受賞
原作 : 村上春樹
あらすじ
主人公『僕』の独白。
【コラム】 通り過ぎないものもある
一生に一度は村上春樹の小説を読もうと思い、デビュー作の『風の歌を聴け』を購入。
なぜ本作を選んだかといえば、冒頭の『完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね』の一文と、次の一節が気に入ったから。
「何故金持ちが嫌いだと思う?」
その夜、鼠はそう続けた。そこまで話が進んだのは初めてだった。
わからない、といった風に僕は首を振った。
「はっきり言ってね。金持ちなんて何も考えないからさ。懐中電灯とものさしが無きゃ自分の尻(けつ)も掻けやしない。」はっきり言って、というのが鼠の口癖だった。
「そう?」
「うん。奴らは大事なことは何も考えない。考えてるフリをしてるだけさ。……何故だと思う?」
「さあね?」
「必要がないからさ。もちろん金持ちになるには少しばかり頭が要るけどね。金持ちであり続けるためには何も要らない。人工衛星にガソリンが要らないのと同じさ。グルグルと同じところを回ってりゃいいんだよ。でもね、俺はそうじゃないし、あんただって違う。生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだr?」「ああ。」と僕は言った。
「そういうことさ。」鼠はしゃべりたいことだけをしゃべってしまうと、ポケットからティッシュ・ペーパーを取り出しつまらなそうな音をたてて鼻をかんだ。鼠がいったいどこまで真剣なのか、俺にはうまく把めなかった。
「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。
「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに五千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」
そのとおりだった。
最後の一文は同意しかねるが、人間、生活の心配がなくなると、同じところをグルグル回ってりゃいい、というのは、そのとおりだと思う。
実際、村上氏がそんな感じ。
小説も売れに売れて、生活の心配もなくなったからだろう。
この前節に、
もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生みだされるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。
夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。
そして、それが僕だ。
という一文があるのだが、それも全くその通りだ。
日々の暮らしに追われ、キリキリしている人間は、暇もなければ余裕もなく、まして人生がどうだの、芸術がどうだの、論じる気力すらない。
それが出来るということは、相当な暇人か、あくせす稼ぐ必要のない裕福な人か、どちらかだろう。
ここで述べられている「金持ち」と「芸術や学問に励むギリシャ人」との違いは、前者は自分の事にしか関心がないが、後者は少なくとも自分以外の事に関心をもち、知的に生産することを選んだ人たちで、同じ”暮らしに困らない人”でも、少し異なる。
突き詰めれば、『思考』や『創造』というのは、利他愛に基づくもので、自分主体では、本当に価値あるものは生まない、という喩えだろう。
とするなら、『それが僕だ』という一文は、とんでもない嘘に感じる。
村上さんは前者でしょうに。
小説が売れても、売れなくても、とても冷蔵庫をあさる人間には見えないし、たとえ漁ったとしても、冷蔵庫の中身はいつも上等で、間違っても、節約主婦が買うような一袋28円のもやしとか、子供の食べ残しの天ぷらとか、閉店前の半額セールで買った、明日が期限切れの切り身魚とか、入ってないような気がする。
たとえ、事実はそうでなくても、文章を読んだ人に、そう感じさせるとしたら、その通りなのだ。
少なくとも『風の歌を聴け』を読む限りは。
*
そこで一度、問いたい。
そこで「いろんなことを考えながら50年生きる」のは、どうして「何も考えずに五千年生きる」より疲れると言い切れるのか。
人間、何も生産しない方が、うんと侘しいし、疲れると思うよ。
いろんなことを考えながら50年生きた方が、退屈しないし、張り合いもある。
私、そんな風に言い切れるほど、暮らしに余裕ないし。
残り物を漁る生活にも、哲学はあると思うし。
私が村上春樹より寺山修司に愛を感じるのは、多分、そのあたりが理由だろう。
村上春樹の作品に生活は感じないが、寺山修司の文章には焼き鳥の匂いがする。
どちらも文学史に名を残すほど有名だが、頭で人生を語っているか、肌で人生を生きているか、ぐらいの大きな違いがある。
だからといって、村上氏が不誠実だと言いたいわけではなく、喩えるなら、貴族の文章と隣のお兄さんの文章の違い。
最初から住む世界が違うのだ。もちろん、感性も。
*
そんなことを考えながら、ぱらぱらっと読み進め、最終章の『あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている』という一文が目に入った時、ああ、村上氏が若い頃に書いた作品なんだなあと実感した。
若いうちは、そんな言葉を口ずさみたくなる瞬間(とき)が何度も訪れる。
冗談で、死んでもいいや、と思うこともあるくらい。
若さは美しい。
そればかりを痛感した、ストロベリーダイキリのような作品だった。
*
それでも、随所にウィットが散りばめられ、きらきらした才能を感じる。
処女作で、群像新人賞を受賞したのも納得の出来映えだ。
最新作も読んでみようかと思うが、多分、世界観に付いていけないだろうから、止めておく。
この年になると、ふわふわした小説は、ストレス以外の何ものでもないからだ。
恐らく、アンチ村上春樹の大半は、私のように実生活で苦労し、ワインの銘柄などどうでもいい、それより、人生観がひっくり返るような骨太の小説が読みたいタイプではないだろうか。
別に悪気があって苦手なのではなく、実生活が毒まみれなので、軽いビタミン剤では到底癒やされない、野生の猪のようなハートの持主だ。
そして、不況の現代では、後者の方がずっと多い。
村上春樹の作品が以前ほど騒がれなくなったのも、いよいよ大衆の生活感覚から大きく乖離していったからと思う。
金にも仕事にも困らない、貴族然とした感じが、ね。
*
ともあれ、人を感動させるのも、イライラさせるのも、才能がなければできないこと。
マンガ『ガラスの仮面』で、月影千草先生が「何の変哲も無い舞台に感動を生み出す。これはあの子の得意技ですよ」と宣うておられましたが、毒にも薬にもならないことを書いても仕方ないし、読者がピクリと反応しただけで、それはもう名作なのですよ。
永遠に通り過ぎることのない、名作。
村上さんは「すべてのものは通り過ぎる」と書いておられるけども、この作品は誰の心も通り過ぎない、本物の名作と思う。
そして、それは、本作に対する、最高のアンチテーゼではないだろうか。